狼火

「やっぱり此処だったか」

暗いトンネルに響いた優しい声音に、私はのろのろと体育座りの膝から顔を上げた。
大人が四つん這いになってやっと通り抜けられるほど小さな穴。そこから見えるのは、一昨日買ったばかりだいう白いスニーカーだ。両サイドに赤とオレンジのラインが入った、27.5センチのハイカットタイプ。私の足には大きすぎて「巨人の靴だ!」と言ったら「誰が巨人だ」と頬を摘まれたのを覚えている。

「...何しに来たの」
「いつになっても家に帰ってこない幼馴染殿を探しに」
「まさかうちの親に頼まれてきたの?家が隣だからって保護者気取りうざ」
「随分と口が悪いな。そんな事を言う奴にコレはやらんぞ」

がさり。小さな穴の向こうに白いビニール袋が揺れる。

「プリン。しかも上に生クリームが乗ってるやつ」

その言葉に、私はごくりと口内の唾を飲み込んだ。腕時計に視線を落とせば20時手前。普段なら既に夕飯を済ませ、リビングでテレビを見ている時刻だ。今にも悲鳴をあげそうなお腹に、私はぐっと力を入れた。こんな所でお腹が鳴るのはかっこ悪すぎる。

無言を肯定と取ったのだろう。のそのそとトンネルの中に入ってきた幼馴染...―煉獄杏寿郎は「懐かしいな」と低い天井を見上げながら私の横に座った。

「昔は立ち上がる事も出来たのに。今じゃ座っても頭がスレスレだ」
「...そうだね」

そんな話をしながら、私は杏寿郎からプリンを受け取る。
ペンギンの形をした滑り台があるからペンギン公園。小さな頃から慣れ親しんだその公園の一角に、氷山を模したトンネル遊具があった。子供にとって“大人の目が届かない”という事はそれだけで貴重でワクワクするものだ。家からくすねてきたお菓子を持ち込んで、何度も杏寿郎を共犯者に仕立てあげた。

「それで、どうして家に帰ってこないんだ?」

杏寿郎の言葉に、私はプラスチックのスプーンを咥えながら再び黙り込んだ。賄賂を受け取ってしまったからには、こちらも話さざるを得ない。

「...―が」
「ん?」
「進路希望表が、全然書けなくて」

それは一週間前、ホームルームで配られた一枚の藁半紙のせいだった。
高校三年生にとって、進路選択は最も重要かつ繊細な話題だ。大学、専門学校、就職、その他。そのどこかに丸をつけ、さらに具体的な学校名や企業名、その志望理由を記さねばならなかった。

「それまでは漠然としてた夢とか目標が一気に現実味を帯びたって言うか。もう高三だし、進路のことそろそろ考えなきゃって思ってたけど、いざ「さぁ、決めろ!」って言われると頭が真っ白になっちゃったっていうか...」
「ふぅん...」
「先生からも「親御さんとよく相談しなさい」って怒られちゃってさ」
「要するにびびったんだな」
「びっ...!」

幼馴染から出た「びびる」という言葉に反論しようとして、出来なかった。そう、私はびびったのだ。急に人生の分岐点に立たされ、足がすくんで動けなくなってしまった。

「それで此処に逃げ込んだというわけか。
子供時代モラトリアム
を少しでも引き伸ばしたくて」
「...返す言葉もない」
「そういう時は、物事をもっとシンプルに考えた方がいい」

そう言って、杏寿郎は私の手からプリンのカップを抜き取る。

「俺は父の道場を手伝いながら大学に行く。警察か消防か...その辺はまだ考え中だが、将来は人を助ける仕事に就きたい」
「...相変わらずしっかりしてんね」
「誰かさんを養わないといけないからな」
「誰かさんって?」
「君以外いないだろう」

低い天井に、幼馴染のはっきりとした声がこだまする。

「俺は君のやりたい事を応援する。でも、行き着く先は俺のお嫁さんなんだから、進路希望にもそう書いておいたらいい」
「杏寿郎のお嫁さん♥って書けって?!そんなの無理...!」
「なら、とりあえず知っている大学名でもなんでも書いておけばいい。なんなら俺のを丸写ししたらいい」
「杏寿郎の行く大学なんて頭良すぎて私行けないよ...!」
「勉強のフォローならいくらでもするさ。でも忘れるなよ」

行き着く先は俺のお嫁さん、だ。
杏寿郎の形のいい八重歯が、透明なスプーンをかちりと噛んだ。


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