うつつさん

彼と初めて出会った場所は、自宅のアパートから徒歩10分ほどの位置にある、近所の公園だった。
 ランニングコースが併設されたこの公園には、週に数回の頻度で訪れている。健康と体重維持のために始めたジョギングをするのにうってつけの場所で、花壇が見える屋根付きの休憩所も備わっており、見晴らしも良いので若者の溜まり場になることも少ない。比較的静かな場所を好む自分にとって、この公園は密かにお気に入りの場所となっていた。

「こんばんは!」
「あ……こんばんは」

 日はほとんど沈み、夜の色に染まりかかった景色の中、はつらつとした声が背後から耳に入った。
 私は首にかけていたタオルで顔に滲んでいた汗を拭い取り、声の主のほうへと振り返る。ここ2ヶ月ほどの間で随分と見知った顔となったその人の姿を視界に捉え、私は彼に向かって小さく会釈をした。

「最近ここで走っているところを見かけなかったから、もう来ないものだと思っていた」

 そう言って、物静かな笑みを浮かべながら歩み寄ってくる彼のことを、私は何も知らない。
 知っていることといえば、自分と同じようにこの公園でランニングをしているということくらいだろう。他のことは何一つ知らない。そのはずなのに、名前も素性も分からぬこの人のことを、私は初めて会った時から“知っているような”気がしてならず、こうして顔を合わせては、得も言われぬ感覚に纏わりつかれていた。
 
「週に何度かは来ているんですよ。時間帯が合わなかったんですかね」

 公園の隅に建てられたモニュメントクロックを見上げながらそう言うと、彼も同じように上を見上げた。時計の針は丁度21時を指そうとしている。

「今日はもう帰るのか?」
「……ええ。もう走り終わったし、汗をかいて冷えてきてしまったので」
「そうか。それはいけないな」

 ふるりとわざとらしく肩を震わせて見せると、彼は遠慮がちに笑い返してくれた。
 21時を過ぎる頃には、私は家に戻らなければならない。その理由を誰かに話したことはなかったが、彼はまるでそのことを理解しているかのように、帰路につく私の背中を見送ってくれる。
 再び彼に向かって会釈をして、私は公園の出口へ向かって歩き出した。夜風に撫でられた頬の上で冷えた感触が鮮明に浮かび上がり、そこでようやく自分が涙を流していることに気がつく。それもいつものことだと気に留めず、私はタオルで涙を拭った。



 ここ数日は、何も考えずにぼんやりとしていることが増えたように感じる。目を覚ましている間は度々脳内に靄がかかったような感覚に襲われるようになり、その靄は夜になるにつれて密度を増して、眠りにつく頃には真っ白になる。
 それでも体は動かさなければと、習慣になりつつあるジョギングのために、公園を訪れることはやめなかった。今の自分はどう考えても家で休むべき状態だということは頭では分かっているのに、無意識のうちに公園へと足が向かってしまう。

「なまえ!」
「――え、」

 ランニングコースの傍ら、休憩所のベンチに腰を下ろし、くっつけた両膝に頭を預けるように俯いていた私の前に、誰かが駆け付けてきた気配を感じる。名前を呼ばれて重くなった頭を持ち上げると、そこには彼がいた。夜の景色にも映える金色の髪が風に晒され、暗くなった私の視界に光をもたらしてくれる。

「良かった。今夜なら会えるかと思ったんだ」
「なんで……私の名前、」
「知っている。ずっと前から」

 彼は私の隣に腰を下ろすと、苦悶の表情を浮かべる私の顔を暫し見つめ、あやすようにそっと頬を撫でてくれた。
 彼の言葉の意味が理解できず、思わず眉根を寄せる。同時に脳内を覆う靄が色濃くなり、目眩を伴って私を襲った。触れられた箇所が熱を孕んで、じわじわと侵蝕していく。
 彼は静かに言葉を続けた。

「君が怖れているものの存在も、知っている」




「夜になると、鬼が出るんです」
「……ああ」
「それが、怖くて……私、私……」

 震える声でもはや自分でも何を言っているのか理解できていなかった。
 鬼なんて、小さな頃に読んだ絵本に出てくるようなまやかしの存在だと何度も自分に言い聞かせてきた。実際に見たこともなければ、鬼を見たと言う人間にも会ったことはない。寓話の中の、空想の生き物だ。そんなこと分かりきっている。
 でも、私が毎日何より恐れているものは、紛れもなく鬼の存在だった。夜になると、鬼が出る。いつからか自然とそう思い込むようになり、毎日21時を過ぎた頃には抗えない恐怖に襲われ、家の外に出ることができない体になってしまった。
 こんな異常な現象を誰にも相談することができず、薄れてゆく意識の中、頭の片隅に浮かんだ光景が、フィルムが切れかけた映像のように飛び込んでくれる。


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