狼火

コツン。何かが二の腕に当たる感覚に、杏寿郎は驚いて教科書から顔を上げた。古典の授業中、担当教諭は熱心に黒板に向かい、クラス中が『徒然草』をノートに書き写している最中だった。

見れば、隣の席に座るなまえが「杏寿郎、下、下!」と小声で足元を指差している。眉間に皺を寄せながら杏寿郎が机の下を覗き込むと、右足近くに折り畳まれたメモのような物が落ちていた。どうやら腕に当たったのはコレのようだ。

杏寿郎は仕方なくその紙片を拾い上げ、机の端に置く。学年一真面目と言っても過言で無い杏寿郎は、たとえ相手が幼馴染でも(と言うより幼馴染だからこそ)授業中の文通を良しとしなかった。
なまえが腕を振って紙を開くようなジェスチャーをする。「読・ん・で!」「こら!読め杏寿郎!」と音を出さずに叫ぶ幼馴染に、杏寿郎は渋々と机上のメモを開いた。

『字間違えたから消しゴム貸して』

そこに書かれた言葉に、杏寿郎はわざとらしくため息を吐く。こんな些細な事、わざわざメモに書く必要も無いだろうに。
仕方なく、杏寿郎は筆箱から消しゴムを取り出した。先日下ろしたばかりの、まだ角がピンと立った消しゴムを人に貸すのはなんとなく嫌だったが、そこは幼馴染の頼みと割り切ることにする。緩やかな放物線を描くよう下から投げれば、なまえは真新しいそれを笑顔でキャッチし、右手でオーケーのマークを作った。何がオーケーなのかわからないまま、杏寿郎は再び前を向く。



「......ームッ、」

授業もあと数分で終わると言う時だった。今度は杏寿郎が字を間違えたのだが、書き直そうと思っても消しゴムがない。

「...おい、消しゴムを返せ」

杏寿郎は小声で隣の席に声を掛けたが、なまえはまるで知らん顔だった。「コラ、無視するな」「なまえ」と声を掛け続ければ、なまえはやっとこちらを見、両人差し指を使って空中に四角を描いた。どうやら手紙に書け、と言う事らしい。

イライラしながらノートの端を破り、『消しゴムを返せ』と走り書く。今度は先程より幾分か勢いをつけて投げると、なまえはニヤニヤしながらそれを受け取った。
緩んだ顔のまま手紙を読み(読まなくても分かっているだろうに)、すぐに消しゴムが投げ返される。難なく受け取り、間違った所に擦り付けている時に終業のチャイムが鳴った。
「では、今日はここまでぇ」教諭の間延びした声に、日直が号令を掛ける。

「きりーつ、れい」

ありがとうございましたぁあ、と生徒達がだらしなく頭を下げる中、杏寿郎だけはハキハキと礼をする。なまえのせいで遅れてしまった分、急いで黒板の文字を写さねばならなかった。

再びノートに視線を落とした時、杏寿郎の大きな瞳が小さな違和感を拾う。
...消しゴムのスリーブが、ほんの少しだけズレている気がする。なまえと投げ合った際にズレたのかもしれないが、杏寿郎は何故かその小さな歪みから目が話せなかった。
そしてふと思う。何故なまえはすぐに消しゴムを返さなかったのだろう。
よもや何かイタズラでもしていたのではあるまいか、と。

そう疑問に思ってしまったからには、確かめるしかない。杏寿郎は左手で消しゴムを、右手でスリーブを摘み、一気にその中身を確かめた。そしてそこに書かれている物に目を見張る。
黒い油性ペンを使い、はっきりと書かれた相合い傘。

慌てて隣の席を見れば、そこになまえの姿はない。きっと礼をすると同時に逃げたのだろう。思わず緩みそうになる口元を、杏寿郎は慌てて引き締める。

ー相合い傘の書かれた消しゴムを使い切ると、その恋愛は成就する。

そういう事に疎い杏寿郎でも知っている有名なおまじないだった。
この消しゴムを使い切るのにどのくらいかかるだろう。そう思いながら、杏寿郎は消しゴムを元に戻す。消しゴムなんてそうそう使い切れるものではない。一年、いや、もっと掛かるだろうか。消しゴムを使い切ったら、自分となまえの関係はどのように変化するのだろうか。

そんな事を考えているうちに、黒板は日直の手で綺麗に消されていた。






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