みやこさん

たまたま上司宅で目にしたのは、つやつやと輝く漆黒だった。
器に湛えられた液体には、薄い油が浮いている。

なまえはこれが硯と墨というもので、字を書く為に必要な道具だということも勿論知っていたが、自分が使う機会に恵まれるようなことはなかったのだ。
何かにつけて目にすることはあれど、ただの道具がこんなに美しいものだということを初めて知った。

黒や濃灰色でもなく、優しい紫紺を思わせる石の塊。
そっと置かれた使い込まれた墨は光沢がかっていて、金や顔料で彩られている。

「どうした、みょうじ!」

ほぅ、と感嘆に溜息を漏らしたと同時に背後から馬鹿でかい声で名前を呼ばれたものだから、思わず肩を揺らしてしまった。
ぎこちない動きで振り返ると、確認するまでもない声の主はなまえの上司だ。

「煉獄さん。……どうも」

誘われるように部屋に立ち入ってしまった後ろめたさに、なまえの反応は芳しくない。
そわそわと視線を杏寿郎の私室を巡らせ、寧ろ失礼に失礼を重ねていることに気付く。
もうどうすればいいのやら、なまえは情けなくなって眉を落とした。

「何か、すみません」

「気にするな。特に見られて困るようなものはない」

尊敬し慕う人の前でこれではやるせない。
眉どころか肩も顔も全部落としている気がする。
上げられない顔の向こうで、彼は普段と全く変わりのない笑顔なのだろうと察せられて、それが何だか惨めだ。
結局のところ、当たり前のように、なまえは彼の部下で――彼にとって感情を動かすような相手ではないのだ。

「私、字書かないから」

「墨とか、そういうのが……綺麗だな、って思って」

言い訳染みた台詞がぽつぽつと口をつく。
嘘は言っていない、嘘は。

「ああ、成程」

なまえの脈絡もない断片的な言葉でも、杏寿郎は的確に状況を判断したのだろう。
彼は文机の上に置いてあった道具、なまえの順にじぃっと見つめてきた。
大きな目も相まって、穴が開きそうな気分になった。

「みょうじ。普段、報告はどうしているんだ」

「鎹烏に話して、伝えて貰ってます」

自分達ではどうあっても色っぽい話にならないことに落胆しながら、事実を述べる。
一瞬でも恥じらいを感じた自分は、まだ鬼殺隊の中にあっても乙女心は残っていたらしい。

「それだと伝えられる内容に限りがあるだろう」

如何に訓練されたとは言っても、なまえの烏はお館様や柱のそれとはは出来が違う。
気の良い相棒で信頼していることに変わりはないが、話したり覚えたりできる内容には限度がある。
自然と、字の書けない隊員の報告というのは、共に任務に当たった他の誰かに頼むか、必要最低限の淡白なものになる。

「まぁ、そうですね」

討伐完了の旨と、隊員の死者と怪我人の数、民間人の被害。
先達ての任務での自分がした報告内容を、なまえは思い出した。

「読み書きできるようになって損はないぞ!」

「はぁ」

烏の負担を減らせる上に詳細な報告が可能になる。
経過、怪我人の状況、鬼の様子やらは本部に知らせた方が良いに決まっている。
できないから、していないだけで。

「俺が教えてやろう」

「はぁ。…………はぁ!?」

言われなくても分かっていることを言われても、と聞き流して生返事をしたところで、遅れて彼の提案が思考の中枢に届く。
教える――あの煉獄杏寿郎が、字をなまえに指導するという事実が衝撃と共に頭にがんとぶつかった。

「いや、いいです!」

「何故だ? 母に仕込まれたから、綺麗な方だと思うが」

「そういう問題じゃないです。剣術の稽古ならともかく、柱にそんなことに時間を割かせられません」

綺麗なのは置いてあった書きかけの書を見れば分かる。
内容が分からなくても流麗だと感じる、普遍的な美がそこにあった。

問題は、そんなことではなく。
字を書けなくても死なないし、字を書けなくても救うことはできる。
多忙極まりない柱が手習い指導の為に時間を使うなど、許されない損失だとなまえは思った。

「業務上不要でもないと言っただろう」

「そうですけど、書けない隊員なんてたくさんいます」

貧しく慎ましく暮らしていた人間の方が多いこの組織にあって、読み書きができない隊員がどれだけいることか。
教育を満足に受けることの叶わなかった全員に指導する気が彼にあるとも思えない。
ならば、それはある種の贔屓ですらある。

「君は剣の腕も上がっているし、長く隊に在れるだろう」

「……光栄です」

急に逸れた話に、なまえは杏寿郎を伺うように見上げた。
精悍な貌は、いつもよりも柔らかい。

彼に剣のことで褒められるのは、何よりも嬉しい。
ただ、今は彼が何を言いたいのか分からない。






「いつか本懐がなった時、女性が剣を使えても無意味だ」






告げられる、思いもよらなかった未来。

鬼を屠り、生きていくことに懸命で、そんなことを考えたことすらもなかった。
無惨を倒せるかもしれない、いつかの、更にその後。



「外で生きていくなら、できることは多い方がいい」



『今』が終わったら、皆鬼殺隊から去っていく。
女が剣だけで食べていくことはできず、真っ当に人の世で働いて身を立てていかなければならないのだ、と。

杏寿郎は、なまえに鬼がいない世界を想像させた。
そんな未来が来る可能性を、与えてくれた。

「…………」

この人は、やはり柱なのだ。
何時如何なる時でも、自分たちを導いていく柱。
鬼がいなくなっても、きっと。

その時に、自分は彼の傍にはいられないかもしれないけれど。
素晴らしい未来は、同時に今の喪失であり、とても怖い。

「今は、剣の稽古もつけるがな」

えも知れぬ感情に、喉の奥がきゅっと締まって息ができない。
ゆっくりと呼吸を整えようとするなまえの頭に、杏寿郎の大きな掌が乗った。

「君に何かを遺してやりたいと思うんだが、迷惑だろうか?」

「……いいえ」

眦に浮いた涙が、一滴だけ流れる。
これはなまえと、杏寿郎の我儘。

「いろはだけ、お願いしてもいいですか」

彼の、なまえに与えたいという想い。
なまえの、彼から受け取りたい想い。

この感情は、彼と同じではないかもしれない。
けれど、二人共に過ごせる時間は、少なくても共有していきたいのだ。


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