肩幅さん

上司に字の汚さを指摘され、職場で赤っ恥をかいた。その足で大人でも習えるという書道教室に即刻申し込み、通い始めて三ヶ月になる。
 教室は週に一度、時間は夜七時半から一時間きりだ。基本的には予め課題として書いてきた作品を各自教室に持参し、講師の添削とアドバイスを踏まえてもう一度同じ作品にトライするというものである。
 純和風の邸宅の一室で行われる、生徒数十五人程の教室。夜間という事もあり、生徒の年齢層は様々だ。雰囲気は粛々としていて、最初はなかなか馴染みにくかった。講師である煉獄瑠火先生の、あまりにも自分とは住む世界の違う高尚なオーラに圧倒されてしまったのだ。
 だが教室へ通い続けていると、次第にそれが苦では無くなってきた。瑠火先生の清廉潔白なお人柄に触れ、感化されたのである。凛とした振る舞い、涼しげな眼差し。的確すぎる指導をたまに厳しく感じもしたが、裏を返せばそれは先生が生徒一人一人の事をちゃんと思い遣っているという真摯な姿勢のあらわれなのだ。
 いつしか私は先生を尊敬の眼差しで見るようになっていた。たとえ今は無理でも、私もいつか彼女のような大和撫子になりたいと密かに志すまでになったのである。

 そんな日々が続いたとある日の事だった。長雨の続く水無月初めの薄暮時、教室が終わったので帰り支度をしていると私は瑠火先生の様子がおかしい事に気付く。白木が組まれた真四角の吊り下げ電灯の下、いつもは生徒達と楚々と帰りの挨拶を交わす筈の彼女が、どことなくソワソワしているのだ。どうやら私以外に彼女の様子に気付いた生徒はいないようで、皆静かに一礼して部屋を辞していく。
「先生、恐れ入りますが何か……気になる事でもお有りですか」
 少し迷ったが、私は彼女の元へ近寄りながら声を掛ける。側へ寄ってみて初めて気が付いた。道具を出しっぱなしにした横長の平机の下、きちんと折り畳んだ膝の上で、瑠火先生はスマートフォンを操作していたのである。
「……みょうじさん、お聞きしても?」
 授業中の内職がバレた生徒のように一瞬驚愕の表情を浮かべてから、彼女は上目遣いで私へ視線を移す。私は頷きながら、向かい合うように腰を下ろした。
「ええ。どうなさいました」
「実は、新しくインストールしたこのアプリの使い方が分からないのです」
 音も無く、恭しい手付きで長机の上に置かれたスマートフォン。傷一つない漆黒の筐体には、数年前に流行し今や誰もが利用する定番のメッセージアプリが映し出されていた。
「昨日より家族間の連絡事項について、このメッセージアプリを介して行う事が決定したのですが」
「ええ」
「どうもこの手の操作には疎く、家族とメッセージを交わせる小部屋に辿り着かないのです」
 おそらく小部屋とはトークルームの事だなと推察し、了承を得てから私は先生のスマホを手に取った。ずらっと羅列されたトークルームは、その殆どが企業とのものだ。おそらくポイント目当てで友達追加しまくったのだろう。疎い、と自分を評価していた先生がこんなにも複数の企業を友達追加したとは考えにくい。おそらく、こういったツールを使い慣れてそうなお子さんか誰かが彼女のスマホを操作したのかもしれない。
「先生、この企業とのやり取りは非表示にしても構いませんか」
「ええ、構いません」
「通知もオフにしてしまいますね。これではご家族からメッセージが送られて来た時、気付きにくいでしょうから」
 どうやら、外では雨が降っているらしい。空気がこもっているのが気になったのか、先生が雨戸を開けると途端に雨の音が迫って聞こえてくる。鼻先を擽る、冷え冷えとしたペトリコール。折り畳み傘は、今日に限って不携帯だ。
「……よし、出来ましたよ。先生」
 部屋の空気が完全に入れ替わった頃、私はようやくスマートフォンを瑠火先生へと手渡した。雨戸を開け放ってからはずっと私の傍らでじっとその操作を眺めていた先生は、受け取ったスマートフォンの画面をしげしげと眺め終えてから私へ向き直る。そして深々と頭を下げ始めるので、私は慌てて手を振って止めた。
「せ、先生! よして下さいそんな!」
「お陰で随分と使い易そうになりました。本当にありがとうございます」
「お役に立てて何よりです。では私はこれで」
「お待ちなさい」
 既に両足の踵を立てていた瑠火先生が、片膝を少し立ててから上前を押さえ、右足から立ち上がる。何気無い仕草の一つ取っても洗練されたその立ち居振る舞いに思わず見惚れていると、彼女はなんとそのまま部屋を出て行ってしまう。
「……?」
 待てと言われたので何となく待っていると、やがて遠ざかった筈の足音が近付いてきた。瑠火先生が戻ってきたのかと思ったが、それにしては足音が複数である気がして、思わず身構える。
「お待たせしました、みょうじさん」
 先生が顔を出す。と同時にその背後からヒョコッと顔を出すのは、見覚えのない大柄な男性だ。
「こんばんは!」
 瑠火先生が何かを言いかけようとするのだが、それを遮って背後の男性が快活な笑顔を向けてきた。腕捲りをした、上半身はワイシャツのスーツ姿。紅葉を思わせる華やかな色をした頭髪が特徴的で、やけに目力が強く、そしてよく通る声をしていると思う。現に私はすぐに圧倒されてしまって、半ばビクビクしながら挨拶を返した。
「あ、あの」
「こちらは息子です。あなたには必要以上に居残りをさせてしまいましたので、今日はこの者が帰り道をお送り致します」
「えっ」
「お送りしましょう!」
 その正反対すぎる見た目。この二人が血縁関係にあるという事実がまるで信じられず、私はただひたすら二人の顔を見比べた。しかし男性はそんな私の失礼な振る舞いを意に介さず、手を握って強引に立たせるとドカドカと足音を立てて廊下へ立ち向かっていく。
「母上! 行って参ります!」
「頼みましたよ、杏寿郎」
 (きょうじゅろう)
 どんどん遠くなっていく部屋の明かりと瑠火先生の姿を尻目に、私はたまたま聞いた彼の名前と思われるそのやけに耳馴染みの良い単語を繰り返すのだった。
 ◇
「申し遅れました! 俺の名は煉獄杏寿郎と申します! 高校にて教鞭を執り、今年で二年目になります!」
「あ……ど、とうも。お母様のお教室に通い始めて三ヶ月になります、みょうじなまえと申します。事務員です」
 暗褐色の傘を並べて、私達は閑静な住宅街の夜道を歩いていた。雨はこの頃には大分勢いを弱めており、どちらかといえば雨の音よりも彼、杏寿郎さんの声が通りじゅうに響いている。
「三ヶ月! それはそれは! 感心ですな!」
「ええ、まあ……」
「書道は楽しいでしょう!」
「え、ええ。まあ……」
「何事も長く続けるのは良い事です! 俺もたまに参加する事があります!」
 雨の音に紛れた私のノロノロとした返答が、彼に届いているかは定かではない。けれど杏寿郎さんは目をクワッと見開きながらやけにハキハキと喋るので、私は話の内容よりも何よりも、その今までに出会った事のない圧倒的なオーラに目を引かれていた。
「書道は元々、漢字の文化を持つ中国で発達したようです! 日本へは飛鳥時代から奈良時代にかけて、仏教とともに伝来したそうですが、遣唐使という単語はご存知か!」
「え? ああ……確か、小野妹子? とか?」
「惜しい! 彼は遣隋使だ!」
 どうやら彼の専攻は歴史のようだ。何となくその話に耳を傾けているうちに、足は勝手にいつも利用するバス停に到着していた。
「あ、ここです。ここで大丈夫です」
「うむ! そうか!」
「すみません、わざわざ雨の中送って頂いて」
「気にするな! こちらこそ母が世話になった! 礼を言わせてくれ!」
「はあ……」
 結局彼は、私がバスに乗り込むまでその場に留まってくれた。乗車して座席についてから満面の笑みで手を振られた時は流石に戸惑ったが、それでも傘に入り切らなかった彼の肩がぐっしょり濡れているのを見ると、手を振り返さないわけにはいかなかった。
 (煉獄……杏寿郎さん、かぁ)
 半紙に筆を走らせて、彼の名が記される様子を想像する。きっと堂々と映えるんだろうなと思いつつ、私は不規則な揺れに身を任せるのだった。
 ◇
 表明の通り、彼は度々教室に姿を現した。なかなか忙しいようで教室が終わる頃にチラッと顔を出すのが殆どであったが、それでも彼が単なる冷やかしなのではなく真剣に書と向き合っているのは、他人の作品を鑑賞する眼差しから伝わってくるようだった。
 私はといえば、私生活が荒れに荒れていた。職場は元々ブラック気味だったが、幸いな事に人間関係に恵まれていたので何とか続けていた。しかし親しくしていた同僚が止め、上司からのパワハラに遭うようになってしまったのだ。
 朝、起きると身体が重い。食欲のない日が続き、出社準備が億劫になる。仕事中は常に上司の動きに敏感になり、仕事が終われば束の間の開放感で気分が上がるが、ひどく身体が疲れて趣味すらする気力が無くなってしまう。
 そんな日々が一ヶ月も続けば自然と教室から足が遠のき、やがては休会という事になってしまった。
 ◇
 その日は、やはり雨が降っていた。バケツをひっくり返したような雨で、たちまちパンプスの中は濡れて、歩く度に不快な音と感触がした。
 滲んだ街明かりをぼんやりと眺めながらうつろな表情で自宅へ向かう私は、さながら幽鬼のようだと思う。廃ビルの煤けたガラス窓に映る自分は頬が痩けていて、生気がない。
 (仕事……辞めればいいんだろうけど)
 しかし、この不景気の中ようやく採用された職場なのだ。多少の嫌な事は我慢すべきだし、周りも皆そうしている。嫌だから辛いからといって辞めればキリがない。なんだって長続きしない。小さな頃からそう言われて育ってきたし、自分でもそうだと思う。
 (どこかの誰かも、どんなことでも長く続けるのは良い事だと言っていたっけ……)
 そんな事を思いながら歩いていた矢先の事だった。突然、すぐ間際を突風が駆け抜けて行ったのだ。
「……っ!!」
 衝撃が私を襲う。洗濯機でもみくちゃになる布切れのようにその場でもんどり打った私が状況を理解するには、かなり時間がかかった。
 薄暗い夜道。ずぶ濡れになった身体。口の中に入った砂利。そして、けたたましいエンジン音を吹かせながら急速に過ぎ去って行くバイクらしきもの。
「……無い」
 引ったくり。そんな言葉が脳裏を過ぎった瞬間、またも高速で何かが過ぎ去って行く。それが飛び散らせた水飛沫を防ぐべく腕で顔を覆ったが、目はたしかにその後ろ姿を追っていた。先に過ぎ去ったバイクを追随するが如く猛追した、地獄の釜を茹でる炎のような色をした車体を。
 ややもすると、その車体は再び道を引き返した。呆然と水溜りに座り込む私の手前で半弧を描いて止まった車体から、飛び出すように降りてくる人影。放り投げられるヘルメット。
 そして、見知った人物の鬼気迫る表情。
「大丈夫か!!」
 強かった。私の身体に巻き付くその腕の力は、びっくりするほど逞しかった。
「たまたま通りがかったら、君が歩いているのが見えて」
 ぺちゃんとへたった髪の毛。ずぶ濡れで、体に張り付いたワイシャツ。快活な笑顔しか浮かべなかった顔なのに、どこを見ているんだかわからないような目をしていたのに。その人、杏寿郎さんは悔しさを滲ませた表情で舌打ちをし、ひどく心を痛めた表情で私の頬を撫でるのだ。
 その手付きがこの上なく優しくて、びっくりするほど冷たくて、濡れていて。何故だか私の視界が滲んでいった。
「怪我は無いか。どこか痛むところは」
「……」
「荷物は取り返せなかった。すまない。すぐに警察に電話しなければ」
「……」
「こんなに濡れてしまって。立てるか。俺の首に腕を回せ。君はしがみついているだけで――」
 彼がハッと息を飲んだのは、多分私がボロボロと泣き出したからだ。車道側にバッグを掛けてボーッと歩いていた私が悪いのに、こんな事で大泣きするなんてみっともない、気を遣わせてしまうと思っているのに、涙が止まらない。心に彼のまっすぐな優しさが滲んで、胸が切ない。
「……り、がとう」
 そんな私の感謝の言葉は、また雨に紛れてしまって彼の耳に届いたかどうかはわからない。けれどピッタリと身を沿わせ、抱擁されていたからきっと届いたことだろう。彼はしっかりと頷くと、より腕を回して私を抱き寄せるのだった。

 その後一晩煉獄家でお世話になり、ブラック会社を退職し、必死で就活してたまたま事務員として再就職した勤務先が彼の勤めるキメツ学園だった事は、また別の話だ。


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