のんさん

ブンブンと目の前で鉛筆を振ってしならせていると、降りてきた影にやんわりと視線を向けた。

「どうだ調子は」
「まあまあです」

隣の席の椅子をガタッと引いて乱雑に、そして派手に座ったのは音柱……、もとい宇髄先生。
ほんのりとずっと昔のことは覚えている。生まれるよりももっと前のこと、私はこの人の継子だった。記憶は曖昧で、現代では考えられない鬼と戦っていたことと、焼き芋をよく食べていたことくらいしか覚えていないのだけれど。
何の因果かまたこうして美術部の顧問と部員という形で巡り合えたのは奇跡だと思う。

「どこが“まあまあ”だ。白紙じゃねぇか」
「精神統一してたんですよ。一筆入魂、って言いますでしょ?」
「物は言いようだな」

『好きなものを描いてこい』と一時間ほど前に廃墟のような美術室から散りじりにされてから、階段を降って一階の空き教室に入りとある人をずっと眺めていた。
中庭を挟んだ向かいにある体育館。開いた扉からたまに見える煉獄先生を。

「煉獄が描きたいなら素直に体育館入れよ」
「邪魔にな……って、なんで」
「さあ、なんでだろうな」

思わず会話を続けてしまいそうになったけど、窓の向こうから宇髄先生へと視線を向ける。待っていたのは顎を少し上に傾けた嫌らしい笑みだ。
聞いたことはないけれど、宇髄先生も前世というものの記憶があるのではないかと時たま思う。というか、私の記憶が曖昧すぎて前世と思っているものも夢なのかもしれないけれど。だからこそ言い出せない。

「先生って、汚い大人ですよね」
「大人はみんな汚いんだよ」
「煉獄先生は汚くないです」
「あどうだかなぁ」

話しかける勇気なんてものはない。誰からもすごく人気で、親しまれていて、バレンタインなんて我妻くん情報によると沢山チョコを貰っていた。だからこうして、密かに想いを寄せているのに宇髄先生といえば何かと茶々を入れてくる。
先生と生徒の恋を応援でもしてくれているわけでもない。私の気持ちに気付いてきっと楽しんでいるだけなのだ。
煉獄先生はそんなことしないだろう。今のように生徒の気持ちを真っ直ぐに受け取って熱い心で返す、そんな人。
ギュッと真っ白なスケッチブックの上で鉛筆を握りしめた。

「また後悔しても知んねえぞ」
「はい?」
「それ、消しゴム使うなよ」
「はい?え?はい??」

わけのわからないことを吐き捨て、宇髄先生はガタッと立ち上がりズカズカと教室を出て行ってしまった。
廊下から響く気怠げに歩く足音がどんどん小さくなっていく。
一言目はよくわからなかったけど、消しゴムを使うな、というのは上手くなる練習だろうか。多分。
相変わらずよくわからない人だな、なんて、知っているような気がするから前世はやっぱり本当にあった過去なのかもしれない。
一度息を深く吸ってから、呼吸を整える。よくわからない人だけど、今日は上手く描けるような気がしてきた。



「うわぁ……」

と、思うだけで実力は気持ち一つでどうにかなるものではなかった。完成!と改めてスケッチブックへ描かれた煉獄先生を見てため息しか吐けない。すぐそばにお手本がいるというのに難しい。というか、消しゴムを使うなと言われたおかげで随分とごちゃごちゃしてしまっている。
すっかり日が落ちてきて、窓の向こうに広がる景色はオレンジだ。

「っ!」

本当はもっと綺麗な横顔であるはずなのに。実力不足を噛み締めながらお手本を絵を見比べようとすると、辺りのオレンジ色に負けない強い色と交差した。一瞬だけ、目が合った。そして思いっきりカーテンを閉めてしまった。普通に頭下げるくらいしたらよかったのに、最低だ。感じの悪い最低最悪な生徒だ。
自己嫌悪に陥りながら、美術室へ戻るためいそいそとスケッチブックを手に教室を出た。

「……?」

ほぼ時間通りに美術室に戻ったは良いものの誰もいない。もうみんな戻って帰ってきている時間なのに、ポツンとその場にいるのは私ただ一人。

「神隠し……?」
「宇髄や他の生徒ならもう帰ったぞ」
「!?」

背後から聞き慣れすぎた声がして、あからさまに身体が飛び跳ねた。ぎくしゃくとしながら振り返ると、やっぱり煉獄先生が溌剌とした笑顔で扉の前にいた。

「あ、そう、なんですね」
「他の部員には宇髄が声をかけたが、君だけは声をかけても耳を貸さなかったと話していた」
「……」
「流石の集中力だな」

本当に宇髄先生は私に声をかけたのだろうか、何かの策略なのでは……と、考えていた頭の中は今の一言に支配された。理由はわからない。でも、なんだか切ない。
立ち尽くしている私に煉獄先生はゆっくりと歩み寄ってくる。大きいのに、威圧感はまるでない。
初めて二人でこうしてちゃんと話すのに、初めてな気もしない。

「こうも話していたな」
「?」
「『あいつお前のこと夢中で描いてるから終わったら言っといてくれ』と」

胸の中のよくわからない妙な騒つきが、悪い音に変わった。というか、冷えた。
最悪だ。やっぱり汚い大人だ、宇髄天元。

「違くて!」
「違う?」
「その、描きやすくて!」
「そうか!描きやすいか!俺が!」

煉獄先生でなければバレていただろう。だって実際煉獄先生、めちゃくちゃ難しかったというか描きにくかったし。
気持ち良く返事をしてくれる煉獄先生につられて私も声が大きくなってしまう。

「はい!とても!」
「それはよかった!」
「はい!なのでまた描かせてください!」
「いいだろう!」
「……はっ」

勢いで口走ってしまった言葉に我に返る。恐る恐る煉獄先生を見上げれば、いつもと変わらない瞳。それからふっと小さく笑った。

「それならいつでも呼ぶと良い」
「いつでも?」
「いつでも。呼んでくれたら必ず向かおう。君の元へ」
「……必ず?本当に?」
「ああ、必ず。約束する」

どうして、そんな大袈裟な言葉に反応して聞き返したのかは自分でも良くわかっていない。頭で理解するよりも、その言葉を確かなものにしたかった。
世界が徐々にぼんやりとしていく。困ったように笑う煉獄先生の手が私の頬に触れて、初めて涙が溢れていることに気付いた。

「君が描いた絵を見せてくれないか?」
「はい……」
「ありがとう」
「……えっ!?ダメです!ダメダメ!」

答えの見つからない感情と雰囲気に流されてしまい、コクリと頷いてしまったけどはたまた我に返る。私の腕からすっと抜き取ったスケッチブックを取り返そうとするけど、スケッチブックはびくともしない。さらには無言の圧力ときた。為す術もなく渋々スケッチブックから手を離す。

「……消しゴムは、使うなって言われたんです」

こっそり描いていた絵を本人に見られるなんて耐えられたものではない。それも上手いとは言い難い絵だ。鉛筆で何本も引いた線がごちゃごちゃとしてしまっている。

「ああ、俺も使わない方が良いと思うな」
「……どうして?」

そっと尋ねる私に、煉獄先生は絵から目を離さない。それどころか、絵を眺めているその横顔はどこか切なくて、儚く見えた。

「君がその手で紡いできた努力がわかる」

まただ。また、どうしようもなく切なくなる言葉。どこかで聞いたことのある言葉。初めて言われたはずなのに、そんな感じがしない。
スカートの裾をギュッと握りしめて呟いた。

「先生ももしかして、汚い大人ですか」
「酷いことを言うな、そう見えるのか?」
「だってなんか、こう、胸に響くんです、私はよくわからないのに……」

どくどくと、胸がうるさいのは煉獄先生と二人きりになれたからだけではない気がする。私の、前世という記憶がもしも正しいものであれば、何かあったり、したのかもしれない。だとしたら覚えていない、思い出せないのが悔しくて仕方ない。

「わからないままでいい」
「嫌です」
「なら、このスケッチブックに君の好きなものでいっぱいになったら、色々と話をすることにしようか」

パタンと閉じて、目の前に差し出された分厚いスケッチブック。そう、厚みが結構あるのだ、このスケッチブックは。
瞬きを繰り返しながら両手で受け取った。

「結構先ですよ、それ」
「そうだな、長くなるな」

『好きなもの』だったら、このスケッチブックは煉獄先生でいっぱいになってしまう。そんなにずっと、この人は私に付き合ってくれるのだろうか。約束は、してくれたけど。
ちら、と見上げた先で映った楽しそうに笑みを浮かべる煉獄さん。ああ、これからは今度こそ、沢山知らない表情を私に見せてくれるのかもしれない。



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