一二三さん


うだるような暑さだった。そんな暑さの中でも大学には行かなくてはいけなくて。足を引きずるように歩きながらカンカン照りのお日様を浴びせられているサンダルに目をやった。灰色のストラップ。それは私の好きな人の髪と同じ色。どうしてこう、身近なものを好きな人に結び付けてしまうのだろうかと考えているうちに、自宅の玄関にたどり着いていた。容赦ない日差しのせいで額の汗は、今にも滴り落ちそうだ。
慣れた手付きでカギを開けると、涼しい空気が足元からそよそよと流れ込んでくる。合鍵を持つ幼馴染が遊びに来ると言っていたのを思い出し、今日大学で会ったおもしろい話をするにはちょうど良かったと思った。

「ただいまー」
「おー、おかえり」

ワンルームのわりに広い面積を確保しているこの部屋は、キッチンが壁となり部屋との空間を区別してくれているお蔭でほぼ1Kとして機能している。独特な作りだがこれが気に入って契約した部屋だった。部屋の死角に存在するキッチンから姿を見せぬまま、部屋にいるはずの人物の名前を呼んだ。「あー」なのか「うん」なのか何かしらの返事が聞こえたが、手を洗っている水流の音にかき消されしまい、何を言っているのかまでは聞き取れなった。

「マジで疲れた。冷蔵庫に麦茶ある?」
「悪ィ、さっき全部入れちまった」
「えー!タイミング悪っ」

もう一度聞こえた「悪い」という言葉。その声に若干の違和感を覚え、冷蔵庫を物色していた視線を部屋に移せばそこに居たのは。

「え?」
「あ?」
「実弥さん??」

どこからどう見ても、それは幼馴染の不死川玄弥ではなく、その兄の実弥さんだった。私の言葉に分かりやすく不機嫌になった彼の眉間には見事なしわが寄っていた。

「見て分かんだろ。当たり前だろうが」
「は??なんで家に居んの?」
「おめぇ、玄弥に鍵渡してんだろ」
「あ」
「ったく」
「だからってなんで実弥さんが居るわけ?」
「さっきから疑問ばっかだな、お前」

呆れたように言うけれど、顔は優しかった。テーブルに置かれた最後だったであろう麦茶を薄い唇の割れ目に流し込んで、実弥さんが言った。

「玄弥に連れてこられたんだよ」
「……肝心の玄弥は?」
「アイス買いに行った」
「へえ」

妙な距離感が私たちの間にあった。お互いを警戒してるのか、それとも近づきたいから様子を探っているのか。彼の事は分からないが、私はどちらも持ち合わせていた。
それは二人の関係性が大いに影響を与えている。私と実弥さんは一昨日までただの友達だったんだ。だけど昨日から私達は『恋人』になった。昨晩の電話でされた告白に、私は破裂しそうなくらい嬉しくて恥ずかしくて。週末に初めて恋人としてデートの約束をしたから、浮ついたこの気持ちの落としどころの照準を週末へと合わせいたのに。こんな不意打ちに実弥さんに会うなんて!いつだって涼し気な実弥さんには分からないだろうけど、私はさっきから緊張して手足が冷えきっている。さっきまでかいていた汗は嘘のようにすっかり引いて、むしろ今は冷や汗が出そうな位だ。
冷蔵庫の前に突っ立ったまま一体どのくらいの時間がったたのだろうか。体感は30分くらい経ったような気がするのに、時計をみたらまだ5分も経っていなかった。おかしい。
いい加減座らないと怪しい目を向けられる気がして、実弥さんをできるだけ視界に納めないよう背を向ける形で、斜め前に座った。あからさまなこの態度に実弥さんはどう思っているのだろう。よせばいいのに気になるのだ。様子を探る様に後ろを見れば、私を見る実弥さんの眉間にしわが寄った。

「なんでそんな端っこに座ってんだ。もっとこっち来いよ」
「えっ、いやでも暑いし?」
「クーラーの温度下げるかァ」
「いや、そうじゃなくて」

実弥さんの切れ長な瞼の中にある黒目が光ったように思えた。実弥さんの目も好きだ。でも苦手でもある。黒く深いその瞳には、ぜんぶが全部まるで見透かされてるような気がしてしまうから。

「なまえ」

冷えた私の手首をじんわりとした熱が引き寄せる。されるがままに実弥さんの胸へと背を付ける形になった。所謂バックハグというやつで、私は急激に近づいた距離に動揺を隠せないでいた。違う事を考えようと頭を凝らしたけど、エアコンの風で冷えたシャツと後ろから回される実弥さんの腕の温かさがアンバランスなことくらいしか考えられなかった。

「実弥さん。玄弥、帰ってきちゃうよ?」
「そうだなァ」
「見られたらマズくない、かな?」
「アイツにはまだ早いかも知れねェなあ」

まずいまずいと言いながら、近づいてくる実弥さんの顔。目元は涼し気なくせに、口許が笑っているのだから質が悪い。キスしようとしてるってわかるから、嫌じゃないけど嫌なような。よく分からない気持ちが体を押し返す力を弱くさせる。

「さね、」

名前の最後に被さる様に鍵が回る音がした。我に返り実弥さんを突き飛ばすような形で距離を取った。私の慌てた様子が相当おかしかったのか、くつくつと笑いをかみ殺す様にしていたのに、私の顔を見ると耐え切れなくなったのか、珍しく声をあげて笑っていた。私はその間ずっと、恨めしい視線をじっと送るしかなくて、火照った顔と体が早く冷めないかと思っていた。

「ただいまー!!」
「……おかえり」
「ん?なまえなんか機嫌悪い?兄ちゃん、こいつとなんかあったのか?」

何も知らない玄弥は私たちを交互に見て、頭の上にはてなマークを浮かべていた。玄弥が手に持ったコンビニのビニール袋から棒付きアイスがぴったりと張り付いてこちらを見ていた。キスしたかったような、したくなかったような。なんだかむしゃくしゃした気持ちになっていて。半ばひったくるようにアイスを袋から取り出すと、それは私が帰ってきた時と同じように真夏の暑さに汗をかいて、今にも滴り落ちそうだった。



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