狼火


「大丈夫ですか?」

目の前でひらひらと小さな掌が揺れ、ハッと我に返る。昼休み、大の仲良しであるしのぶと、仲良く机を寄せ合ってお弁当を食べていた時だった。
朝から頭が痛いなと思っていたが、午後になって熱が出てきたらしい。口では「だいじょうぶ」と答えつつも、見下ろしたお弁当が殆ど手付かずなままで自分でも驚いた。一体どのくらいぼんやりしていたのだろうか。

「朝から何かおかしいと思っていましたが、まさか体調が悪かったなんて...。どうして早く言わないんです」

さぁ、行きますよ。怒ったように言いながらしのぶが私の腕を掴む。

「行くって何処に?」
「保健室に決まっているでしょう。まさか嫌って言うんじゃありませんよね」

友人の言葉に私はうっ...、と言葉に詰まる。五時間目の授業は煉獄先生の社会だ。絶対に休みたくなかったのにという顔をすれば「そんなんじゃ授業も頭に入らないでしょう」としのぶが呆れたように言う。

「ノートは私がちゃぁんと取っておいてあげますから。体調が悪い時はしっかり休みなさい」

まるで母親が子供に言い聞かせるような物言いに、私は渋々と重い腰を上げる。学園三大美女の一人である彼女に逆らえる者など、この学園の何処にもいないのだった。


保健の先生が下した結論は「今日は家に帰って休みなさい」だった。心配そうな顔のしのぶに見送られ、とぼとぼと朝歩いて来た道を戻る。普段は歩いて十五分程度の道が、今日は永遠に続いているように感じられた。

やっとの事で家にたどり着き、制服からパジャマに着替える。また熱が上がった気がしたが、体温計が何処にしまってあるのかさえ思い出せなかった。ぼすん、勢いよくベッド倒れ込めば、まるで待ち構えていたかのように睡魔がやってくる。あっという間に私の意識は夢の中へと沈んでいった。



ひやり。おでこに冷たいものが乗せられる感覚に、私はゆっくりと目を開く。どうやら熱は下がったらしく、幾分か気分もスッキリしていた。喉が乾いたな、と思うと、目の前にキャップのあいたスポーツドリンクが差し出される。

「...おかあさ、」

母親かと思い、手を伸ばしかけてハッとする。視界の隅、カラン、と花札のような耳飾りが揺れて軽い音を立てた。

「た、炭治郎くん...!?」

驚いて上体を起こせば「わぁ!先輩だめです!」と優しく、しかししっかりとした力でベッドに戻される。
竈門炭治郎くん。ご近所で評判のパン屋・かまどベーカリーの長男であり、キメツ学園の後輩であり、...実は私の恋人でもある男の子だった。付き合ってまだ日は浅いけれど。

「なんで!?なんで炭治郎くんがここにいるの!?」
「しのぶ先輩から連絡を貰ったんです。なまえ先輩が熱で学校を早退したって」
「確かに早退したけど!来るなら来るって連絡くれれば良いのに...!」

慌てて部屋を見渡す。変な物、例えば脱ぎっぱなしの制服があったらどうしようかと心配したが、寝る前にきちんとハンガーに掛けていたようでほっとした。そっと胸を撫で下ろした私に、炭治郎くんが珍しく怒ったように言う。

「しましたよ。電話もメールも、何度もしました」
「えっ」

恋人の言葉に慌ててスマートフォンを探したが、こんな時に限って何処にも見当たらなかった。きっと通学鞄の中に入れっぱなしなのだ。帰ってきてすぐに寝入ってしまったため出すのを忘れたらしい。

「先輩こそ、体調が悪いなら連絡してくれれば良かったのに」
「ごめんね。だってもうすぐ五時間目が始まりそうだったから...」
「放課後まで保健室で休んでくれていれば、俺が家まで送ったのに」
「...うん」
「...だって先輩は、」

俺の彼女なんだから。
小さく呟かれた言葉に、引いたはずの熱がまた戻ってくる。自分で言った炭治郎でさえ赤くなっていた。二人でもじもじしていると、炭治郎の後ろでガサ、とビニールブ袋が音を立てる。「あっ、」と何かを思い出したように、炭治郎はその袋を手に取った。

「しのぶ先輩から、なまえ先輩があんまり昼ご飯も食べられなかったって聞いたので持ってきたんでした。うちのパンです」
「あ、ありがとう」

どぎまぎと受け取ったそれは、風邪の差し入れとは思えないほど重い。もしやかまどベーカリーのパンを全種類詰めてきたのだろうか。誰にでも優しく手を差し伸べる私の恋人は、実は結構な不器用さんだ。きっと“体調が悪い時でも食べやすいパンを”と選んでいった結果、どんどん増えてしまったのだろう。炭治郎くんらしいな、と思う。

「ありがとう。お金払うよ。いくらだった?」
「いりません!俺が勝手にやったことですから!」
「でも...、」
「俺はなまえ先輩が、...っ、なまえがそれを食べて元気になってくれたらそれでいいんですっ!」

叫ぶように言う炭治郎に、また顔が熱くなってしまう。名前を呼び捨てにされたのは今日がはじめてだ。嬉しい。まだ頭がぼんやりするせいで難しいことは考えられないけれど、とにかく嬉しかった。

「...早く元気になってください」
「うん、ありがとう。...炭治郎」

お返しのように名前を呼べば、彼までまた顔を赤くする。早く元気にならないと、かまどベーカリーのパンが毎日山ほど届く事になりそうだ。
きゅっと握りしめたビニール袋が、平熱を取り戻した身体にじんわりとあたたかかった。


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