みやこさん

「かまどベーカリー?」

一枚のチラシを見た。
オフィスの壁に貼ってある、モノクロの飾り気のないコピー用紙に印刷したようなそれ。
マジックで書いた字は雨に濡れたのか、インクが微かに滲んでいる。

「そこのパン美味しいよ。みょうじさんもどう?」

無意識で店の名前を口に出していたなまえに、同僚が後ろから声を駆ける。
思わずびくっと肩が跳ねた。

「どう、とは」

昼休憩の時に一緒に買いに行くのだろうか。
人間関係は決して悪くない職場だが、一緒に外出して間が持つのか。
ふと本気で考え込んだなまえに、彼女は手を振りながら苦笑してデリバリーだよ、と答えた。

「今日、皆で注文しようって言ってたの。どうする?」

親指と小指を立てて電話の仕草をしてみせた同僚に、今一度壁を見る。
人の好さが出ているかのような柔らかい丸みを帯びた文字と、食欲をそそる惣菜パンの数々。
外に出るのも億劫だ。

「……します」

特に拒否する理由もなく、なまえは答えていた。








「かまどベーカリーです。デリバリーのお届けに来ました!」

お昼時前の頃、インターホンの受話器越しに聞こえてきた元気の良い少年の声に、なまえは驚いた。
チラシの文字が可愛らしく、勝手に少女を想像していたのだ。

「はい、今出ます」

雑事は職場で最も若いなまえがするのが暗黙の了解になっている。
此処で働くようになって間もなく、経験も浅い。
来客や配達物の応対も、勿論なまえの仕事の一つに含まれる。
何故だかどぎまぎして、慌てて出たものだから途中で太腿をデスクの角でぶつけてしまった。

痛い。
本気で涙が出そうな位痛い。
先輩方から預かっていたお金を握りしめて、脚を擦りながら通用口まで行く。
そこには両手に袋を抱えたパン屋の少年が立っていた。

「ご注文ありがとうございま……え、えぇ?」

今にも泣きそうななまえに驚いて、彼は狼狽えている。
手を出そうとして、けれど両手が塞がっていてどうにもならない彼は益々混乱しているように見える。
痛みは変わらないのに、彼の様子がおかしくて笑ってしまった。

「大丈夫ですか……?」

なまえから笑顔が出たことで少し落ち着いたのだろうか。
気遣うように擦っていた脚を覗いている。
太腿への視線がなまえとぱちりと合うと、彼ははっとしたように顔を紅潮させた。

「ごめんなさい!」

自分が見ていたのが女性の脚であるということに気が付いたのだろう。
先程よりも慌てている彼が可愛いなぁ、と絆されてしまう。

邪な感情が含まれているかどうかなんて、見られる本人には分かるものだ。
そんなものは一切なかった。
今会ったばかりの客にこんなに心配してくれるなんて、なんていい子なんだろう。

「ううん、大丈夫です。出る時にぶつけてしまって」

驚かせてごめんなさい、と謝ると、彼は思い切りよく首を横に振った。
耳に着けているピアスが、からんからんと鳴る。
変わった――綺麗な耳飾りだ。

「これ、お渡ししても大丈夫ですか?」

ビニール袋のかさつく音に、意識を引き戻される。
今度はなまえが彼の耳元に目を奪われていた。
こんな年下の男の子に対して。
その事実に、なまえも恥ずかしくなった。

「あぁ、はい。ご苦労さま」

何だかお互いが照れ合っている。
身体がぽっと種火を灯したように熱い。
彼にお金を渡して代わりに袋を受け取ると、腕にずしっと重みを受ける。

たかがパンで、どうしてこの重さになる。
受け取った二つの袋には、職場全員が注文したのかという位の量のパンが入っていた。

「これ、皆どれだけ頼んでるの……」

袋を見ると、お昼どころか食パンやフランスパンまで入っている。
朝食分までご購入の方もいるらしい。
ついでも甚だしいが、ふわりと漂う香ばしい匂いは堪らない。

「いつもたくさん買ってもらって、ありがとうございます」

営業スマイルも嫌味がない。
もしかしたら、彼にとっては営業ではないのかもしれない。
客一人一人に向き合って、感謝の気持ちをきちんと持っているのかもしれない。

スレていない様は、眩しい。
社会人として働くのは、楽しいことばかりではない。
彼を見ていると気持ちが穏やかになる気がする。

「えっと。……かまど、くん?」

「はい。竈門 炭治郎です!」

合っているか自信が持てないままに問い掛けると、すぐさま返事をくれた。
かまど たんじろう。
古風な名前だ、心の中で呟いてインプットする。
よし、覚えた。

「炭治郎くん。お勧めって何?」

「最近だと、モッツァレラ入りの塩パンが自信作ですよ」

支払も商品の受渡しも済んで、そろそろ彼を帰さなくてはならない。
でも、この少年ともう少し話していたい。
不純な動機で尋ねた質問にも、彼は真摯に考えながら答えてくれた。

「私、君のところのパン、初めて食べるの。楽しみにしてる」

今日食べるパンは絶対に美味しい。
食欲をそそる香り、何より目の前の彼が作ったのだろうから。

「次は塩パンを買おうかな」

「……はい!」

今日は自分が何となく選んだものを、次は彼が勧めてくれたものを。
こうして一つずつ食べていくパンの数と共に、彼と話す機会も増えていく。

ささやかな楽しみが出来たことは嬉しい。
自分のやましい想いは、表情に出ているかもしれない。
濁りのない炭治郎に見られるのが嫌で、顔を僅かに傾ける。



「俺、なまえさんの注文待ってます」



下の名前で呼ばれ、彼と目が合う。
微笑みを深めた彼は、まるで陽だまりのようだった。
幾つも年下の少年の柔らかく包み込むような優しい笑顔に魅入られる。

「じゃ、また来ますね。ありがとうございました!」

ふっと表情が『少年の』それに変化する。
一瞬の見間違いだったのかと思う程に、人好きのするものに。
惚けているなまえに向かって礼儀正しく頭を下げ、炭治郎は自転車に乗って行ってしまった。



「……やられた」



彼は、もう豆粒の大きさだ。

心臓がうるさい位に鳴っている。
子どもの癖に、惑わしてくるなんて生意気だ。
今の短い間だけで、わざとじゃないことは分かっている。
それでも――こんなに引き寄せられるなんて。

昼食が遅いと呼びに来られるまで、なまえはその場に立ち尽くしていた。



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