とある日の昼下がり。いつものようにバイト先の弁当屋の出前を配達していた私は、少し休憩をとろうと自転車をこぐ足を止めた。
住宅街の側にある、だだっ広い公園の隅に自転車を停めて、すぐ側のベンチに腰を下ろす。バイト先近くのスーパーで購入したミネラルウォーターで喉を潤して、ふと空を見上げると、午前中には全く見られなかったはずの薄暗い雲が、すぐそこまで近付いてきていた。
ああ、これは、降ってくる。直感的にそう思った。
朝の天気予報の通りだ……と溜め息をついて、ベンチから立ち上がる。自転車の後ろに積んだ、専用の保温バッグのポケットをごそごそと漁り、次の配達先の伝票を取り出す。
からあげ弁当、ハンバーグ弁当、特性カレーライス……と比較的ボリュームのあるお弁当を、計8個。1世帯あたりの注文数としては、なかなか多い方である。大所帯なのか、大食漢がいるのか。
保温バッグからふわりと香るお弁当の匂いに、すかさず“きゅうぅ”と私のお腹が反応する。
祝日ということもあり、今日の出前の注文数はとても多かった。いつもは午前中の配達を終えたタイミングで休憩を貰い、昼食をとるのだが、今日はそんな暇も無いくらいに忙しかった。
「甘いものが食べたい……」
さすりさすりと自身の腹を撫でながら、ひとりごちる。空腹と疲労を同時に感じると、何だか無性に甘いものが食べたくなるような気がする。糖分が体の主要なエネルギーであるというのは本当なのだなぁと、人間の身体の神秘に意味もなく感心する。
次の配達先にお弁当を届ければ、一旦弁当屋まで戻ることができる。時間的に、配達を終えて戻る頃には注文も落ち着いているはずだ。
配達帰りにコンビニでも寄って、ちょっと高めのスイーツを買おう。そして戻ってゆっくり食べよう。そう決意を固めた私は、手元の伝票に記された住所を確認する。この公園からであれば、配達先までは自転車で15分くらいのはずだ。伝票をバッグのポケットに入れ直し、積まれたお弁当の配置を整えると、私は再び自転車に跨った。
「これで最後の配達だ」と意気込んだまでは良かったが、嫌な予感とはよく的中するもので、自転車のペダルを漕ぎ出して5分も経たないうちに、雨が降り出してきてしまった。
それも、なかなかの激しい雨。ゲリラ豪雨とはこのことかと、必死に自転車を前に進めながら眉を寄せる。
天気予報が雨であることを記憶していた私は、念のため撥水加工が施された上着を羽織って来てはいたものの、バケツをひっくり返したような大雨に対しては最早無意味である。中に着込んでいたトレーナーも、インナーも、ものの数分のうちにぐっしょりと濡れてしまった。
荒ぶる天候の中、ぜいぜいと息を上げながらも、なんとか目的地までたどり着くことができた。
自転車から降りて該当の家屋を確認する。お客様の名前は『竈門』さん。家屋の入口のすぐ横には、『かまどベーカリー』と書かれた立て看板が置かれている。
「パン屋さん……なんだ」
ぽつりと呟いて、自転車の積荷の保温バッグを開ける。少しでも濡れないようにと、8個のお弁当が纏められた大きなビニール袋の上に、持参していたタオルを被せた。
抱え込むようにお弁当を両手で持ち、かまどベーカリーの扉をノックする。コンコン、と軽く2回扉を叩けば、すぐに中から人が出てきてくれた。
「わっ! びしょ濡れじゃないですか!」
玄関を開けて出迎えてくれたのは、額に傷のある少年だった。
少年は私の姿を見るや否や、驚きに目を丸くする。しかし驚きながらも、少年は私の肩に手を添えると、「どうぞ中へ!」と室内に入るよう促してくれた。
「ありがとうございます。お待たせしてすみません。きめつキッチンの配達に参りました」
「とんでもない! こんな雨の中、ご苦労様です。こんなに沢山重かったですよね」
うちは家族が多いから……と呟きながら、心配そうに眉を下げる少年に、お弁当を手渡す。上にかけたタオルを受け取って、ほんの形ばかりではあるが、びしょ濡れの上着を拭いた。
「これ、お金です」と少年から代金を差し出され、ぺこりと頭を下げて受け取る。
「代金丁度ですね。頂戴いたしました」
「お弁当、すごくおいしそうな匂いがしますね」
「ふふ、ありがとうございます」
「……あれ?」
「え?」
「お姉さん、どこかで……」
少年の言葉に再び顔を上げると、綺麗な赤色の目と視線がかち合った。
脈絡のないその発言に、私は首を傾げる。
「あ! いつも、出荷先のスーパーで……!」
「……スーパー?」
「はい。お姉さん、3丁目のスーパーでお買い物していませんか?」
「! えっ」
「あ、いや! その、後をつけているとかじゃないんですけど……! ほら俺、ここのパンをあのスーパーに卸しているので……!」
「あ、ああ」
しどろもどろな少年の言葉だが、何となく言いたいことはわかったような気がした。
つまりここ『かまどベーカリー』は、私がよく行くスーパーのベーカリーコーナーに商品を卸していると。ほぼ毎日、しかも大体同じ時間帯に例のスーパーに通っている私であれば、卸業者に顔を覚えられていても仕方ない。
「す、すみません! 見ず知らずの男に突然こんなこと言われても、驚きますよね」
「あ、いえ。あそこのスーパーに置かれているパン、好きですよ」
「えっ」
「ここのベーカリーのパンだったんですね。また買います」
「!」
「では、また」
「ち、ちょっと待ってて!」
再び頭を下げて店を出ようとする私を制止し、少年はバタバタと店の奥へと引っ込んでいってしまった。制止の意図がわからず、疑問符を浮かべながらも少年の行き先を目で追う。
少しの間をおいて、少年はすぐに店の奥から戻って来た。私の元へ駆け寄ってくる少年の手元には、クロワッサンの絵がプリントされたビニール袋が握られている。
「これ、試作品なんです。よかったら食べてみてください」
「え! い、いいんですか」
「はい! 雨の中、配達してくれたので」
「わあ……ありがとうございます」
「いえ! それで、もし気に入っていただけたら……できればまた、来てほしくて」
はにかむ少年の笑顔につられて、私もついつい笑みを浮かべてしまう。
「俺、炭治郎っていいます」
「あ、私は……なまえ、です」
「なまえさんかぁ。……また会えると嬉しいです」
向けられた笑顔があまりにも甘くて、私は頬が熱くなった。