「......アンタ、まさかアレ着てアイツに会うつもりじゃないでしょうね」
壁にかかった水色のワンピースを見るなり、梅ちゃんは苦虫を噛み潰したような声でそう言った。
私達がキメツ学園高等部を卒業して早二ヶ月。あまりにも多い課題へのストレスもあるのか「今度はあたしが名前んちに遊びに行きたい!行きたい行きたい行きたいぃ〜!」と駄々を捏ねる梅ちゃんを、渋々自宅に招待した時の事だった。
「えっ?駄目?」
私の言葉に、梅ちゃんは鬼の形相でワンピースを睨み続けている。その服は明日、煉獄先生の部屋に遊びに行くためにわざわざ買い求めたものだった。
「控えめに言って最悪」つやつやの唇から放たれた言葉に、私は思わず目眩を覚える。自分の意見をはっきり言うのが彼女の良い所だが、もうそろそろオブラートに包むという事も覚えて欲しい所だ。
「夏祭りの時も思ったけど、アンタって結構壊滅的なファッションセンスしてるわよね。小学生のピアノの発表会かっつーの」
「ひ、酷い...!今年は大きいつけ襟とかレトロなお洋服流行ってるし、お店の人だって「今一番売れてますよ」って...!」
自分のセンスに自信が持てないからこそ、その言葉を信じて買ったのだ。しかし、梅ちゃんの御眼鏡には適わなかったらしい。
「トレンドだからってなんでもかんでも飛びついたら駄目に決まってんでしょー?ほんっとアンタって子は自分の持ち味がわかってないんだから!」
「誰もが梅ちゃんみたいに自分に自信があるわけじゃないんですぅー!もう、何か飲み物持ってくるから待ってて!」
そうして自室に梅ちゃんを残し、私は一階のキッチンへと向かう。電気ケトルに水を入れ、紅茶とクッキーを用意していると、何故か二階からドスンバタンと大きな音が聞こえた。
......なんだろう。ものすごく嫌な予感にダッシュで階段をかけ上がれば、なんと梅ちゃんが私のクローゼットからありとあらゆる服を取り出している最中だった。無惨にも床に散らばった服たちに、私は再び目眩を起こす。
どうして梅ちゃんが大人しく待っていてくれると思ってしまったのだろう。そんなわけがないのに。
「梅ちゃん、何してるの...?」
「見れば分かんでしょ!アンタが明日着る服コーディネートしてんのよ!」
「頼んでなーい!夏祭りの時もそうだったけど、梅ちゃんファッションの事になるとちょっと強引すぎ!」
「あんな野暮ったいワンピじゃアッチだって勃つモンも勃たないでしょうが!どうせまだヤってないんでしょ!?」
「野暮ったくないもん!あと勃つとかヤる変なこと言わないでー!」
梅ちゃんの手からキャミソールを取り返しながら、私は半泣きになって叫ぶ。彼女の言う通りなのがまた恥ずかしかった。
“たとえ卒業式を終えても、三月三十一日までは生徒だからそういう事はしない。ただし、それ以降君がそうしたいのならば、そうさせてもらおう”
指輪を貰ったあの日、煉獄先生は確かにそう言った。
しかし、あれから既に二ヶ月が経とうとしているというのに、私たちはキスどころかまともなデートすらしていなかった。卒業したとはいえ、やはり先生と元生徒。大っぴらな交際は出来ず、また互いに忙しい事もあり、電話やメールで近況報告をするのが精々だった。
明日はお付き合いを始めてから初めてのデート。しかも煉獄先生の部屋を訪ねる、いわゆるおうちデートなのである。
「なんなのよアイツ!名前に手ぇ出しただけでもムカつくってのに、なかなか手ぇ出さないのもそれはそれでムカつく!」
「どういう心境?!私たちには私たちのペースがあってですね...」
「えーい、うるさい!とにかく今着てるやつ脱いで!そんでこのブラウスとスカート着て!!」
こうして水色のワンピースは廃止され、私は梅ちゃん考案の“男をその気にさせる、でも下品じゃない”コーデで明日のデートに望むことになった。
今年のトレンドカラーであるイエローを基調としたブラウスに、ふんわりとしたチュール生地のスカート。当日のメイクや髪型まで指定されてちょっとムッとしつつも「ヘアはこんな感じで」「アクセはコレかコレ」とアドバイス通りにすると、同じアイテムでもびっくりするほど可愛くなるのだから不思議だった。
「今回も完璧」
最早恒例となった写真撮影が終わると、梅ちゃんはずい、とこちらに向かってグーを差し出す。
「なぁに?」
そう言って手を差し出せば、梅ちゃんは私の手のひらにそっと何かを乗せる。チョコレートが描かれたそれは一見お菓子の包みに似た、しかしお菓子とは全く違うもので、見覚えのありすぎるものだった。
「あたしからのセンベツ。いい!?避妊だけはすんのよ!たとえ流されそうになってもそこだけはちゃんと... 」
梅ちゃんの言葉を遮って、私は腕を振り上げる。
生まれてはじめて人に物を投げつけた。
▽
その部屋のチャイムを鳴らすのは、社会科準備室のドアをノックするよりずっとずっと難しい事だった。ただボタンを押すだけなのだから何も難しい事はないのだが、表札の“煉獄”という文字が途端にその難易度を吊り上げる。
手土産にと買ってきたケーキの箱にきゅっと力を込める。煉獄先生が好きなさつまいもを使ったタルトが二つ、たっぷりの保冷剤と共に入っていた。
もう五分近くもドアの前に突っ立ったままだ。これ以上はさすがに不審者と間違われると思い、私は意を決して右腕を持ち上げた。
人差し指がボタンに触れるか触れないか。緊張が最高潮にした時、ガチャリという音と共に不意に金属製のドアが開く。中から眼鏡を掛けた煉獄先生が顔を出し「やぁ、来たな!」と快活な声で言った。心臓が止まりそうだった。
「っ!ど、どうして」
「む?」
「どうしてピンポンしてないのに私が来たって分かったんですか?」
ボタンを押す体制で固まったままそう問えば、煉獄先生は眼鏡の奥でふふっと目を細める。
「君に関係する事なら大抵の事は分かる」
「さぁ、入ってくれ!」そう言いながら、煉獄先生はそっと私の右腕を引き、ふんわりとした動作で玄関へと招き入れる。後ろでドアの閉まる音がやけに耳に響いた。
はじめて見る煉獄先生の部屋は、思っていたよりずっと片付いていた。玄関を入ってすぐの所にバスルームがあり、フローリングの廊下を進んで行くとキッチン付きのリビングが見えてくる。さらに奥にあるのは寝室だろうか。今はドアが閉められていた。
「なんだか今日は大人っぽい格好をしているな!」
煉獄先生の言葉に、私はハッと意識を取り戻す。恋人とはいえ、人の部屋をジロジロ見るのは良くないよなと自分の浅はかさを恥じた。
「ありがとうございます。これ、お土産です。お芋のタルト」
そう言いながら小箱を差し出せば、先生は「ありがとう!」と大事そうにそれを受け取る。「コーヒーを用意してくるから、適当に座って待っていてくれ」という言葉に従い、私はクッションの置かれたミニソファーへと腰を下ろした。
ソファーの前の机には、開いたままのノートパソコンと教科書が置かれている。ちらり、画面を覗くと、授業で使う小テストが作りかけのまま表示されていた。あぁ、だからブルーライトカット眼鏡、と合点が行く。「もしかしてお仕事中でした?」そう声をかければ、キッチンから「あぁ、気にしないでくれ!」と元気な声が返ってくる。
「本当は君が来るまでに終わらせるつもりだったのだが、思いのほか時間がかかってしまってな!教師として不甲斐なし!」
「あの、良かったら終わるまで待ってましょうか?」
気をきかせたつもりだったが、その言葉はすぐに煉獄先生に寄って却下される。
「その必要は無い!君が帰ってからやればいいだけだからな!すぐに片付けるから、そのまま置いておいてくれ」
「でも...」
今日は日曜日だ。私が帰ってから仕事の続きをするとなると、きっと夜遅くまでかかってしまうだろう。ただでさえ普段から働きすぎなほど働いている人だ。せめて私にくらいは甘えて欲しい。
「見た感じ、もう少しで終わりそうですよね?キリのいい所までやってからゆっくりしませんか?」そうやんわりと食いさがれば、煉獄先生は困ったように眉を下げる。
「しかし、それでは君が...」
「私は先生と同じ空間にいられるだけで幸せですから」
「う、むぅ...」
「ね?そうしましょう?」
そう言って私がパソコンを先生の方に向ければ、先生は情けなさそうに項垂れる。
「本当にすまない。三十分...いや、二十分だけ時間をくれ!」
私にコーヒーとタルトを差し出すや否や、先生は物凄い勢いでパソコンに向かい始める。黙々と手を動かす恋人を、私は幸せな気持ちで見守った。
「−終わった!」
先生がキーボードから手を離したのは、作業を始めてからちょうど二十分が経過した頃だった。「お疲れ様でした」そう言って先生の分のケーキを差し出せば「待たせてすまなかったな」と大きな手がフォークを掴む。そこそこボリュームのあるタルトをぺろりと平らげ、先生は静かにパソコンを閉じた。
「気になるか?」
「え?」
「いや、なんだか寝室の方を気にしているようだったから」
その言葉を聞いた瞬間、私はあまりの恥ずかしさに返す言葉を失う。煉獄先生のちょうど後ろ側にある開かずの扉。先生を見守りつつ“どんな感じの部屋なのかな”と思っていたのが、どうやらばっちり顔に出ていたらしい。
「そんなに気になるなら見てみるか?」
煉獄先生の言葉に、どくん、と心臓が大きな音を立てる。恋人の寝室に入る事がどういう事を意味するのか。それくらいの事は分かっているつもりだ。
「...はい」絞り出すような声で返事をすれば、煉獄先生がスッと立ち上がる。寝室の扉を開け、「来てごらん」と手招きして私を呼んだ。無意識にスカートを握り締めながら、私もそっと腰を上げる。
そこはホワイトとブラウンで統一されたシンプルな寝室だった。窓際の観葉植物は瑞々しく葉を光らせ、壁際の本棚には歴史と剣術の本が並んでいる。煉獄先生が筋肉質だからか、ベッドだけは普通より少し大きめに感じた。煉獄先生の匂いが濃くなった気がして、なんだか顔が熱くなる。
「こっちにおいで」
先にベッドへと腰掛けた先生が、ぽんぽん、と自分の隣を叩く。どこかぎくしゃくとした足取りで歩み寄れば、先生の引き締まった腕がスッとこちらに伸びてきた。ふわり。導かれるように隣に腰を下ろせば、先生が私の顔を覗き込んで笑う。
「...そんなに緊張されると、なんだかこっちまで緊張してしまうな!」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
「謝る必要はない。可愛いなと思っただけだ」
繋がれたままの手にぎゅっと力を込められる。いつもより早い鼓動が、いつもより熱い体が、指先を通してバレてしまいそうだった。
「キスをしてもいいだろうか」
煉獄先生の低い声が、しっとりと私の鼓膜を揺らす。きっと私のためにわざわざ確認をとってくれたのだろう。小さく頷けば、端正な顔がゆっくりと近付いてきた。
骨張った手が頬を包み、そっと上を向かされる。あまりに恥ずかしくてぎゅっと目を瞑れば、次の瞬間には少しだけカサついた唇が私のそれに触れた。お面越しでも頬でもない、初めて唇と唇で交わしたキスだった。
「...っん、」
スカートを握る指先に、思わず力が籠る。煉獄先生はまるでその感触を確かめるように何度も何度も私の唇に触れた。離れて、触れて、離れて、触れて。頬にそえられた親指がすり、とその丸みを撫でる。
私はというと、どんなふうに息継ぎをしたらいいのかさえ分からない。思考が麻痺すると同時に、身体の奥がぐずぐずと溶け出すような感覚があった。
こんな感覚は知らない。恥ずかしくて、恥ずかしすぎて、どうしようもなくなる。
「...ッ、せんせ、」
これ以上先に進んでしまっては、アレを出すタイミングを失う。最早その事しか考えられず、私はついに腕を突っ張った。
予想外の出来事だったのだろう。驚いた表情の先生を後目に、私は急いでポケットからソレを取り出す。
「あの...!こ、これ...!!」
差し出したのはピンク色の包み。
絶対に持って行かないと決めていた。しかし、置いてくることも出来なかった。
美しい親友がくれた、チョコレートの香り付きのコンドーム。
煉獄先生は無言だった。大きな瞳がまじまじとゴム、そして私自身を見つめている。
言い方はともかくとして、私は梅ちゃんの「避妊だけはすんのよ!」という言葉は正しいと思っていた。好きな人と結ばれ、いつか二人の間に愛の結晶が生まれる事もあるのかもしれない。でも、それは決して学生である今ではないのだ。
女である自分からこんな物を出したら引かれるかもしれない。しかし、「じゃあゴムの用意は男性に任せます」というのもフェアではないと思っていた。勿論、煉獄先生のことは信頼している。信頼しているからこそ、自分もきちんとしておきたかったのだ。
「......ぷっ、」
静寂を破ったのは煉獄先生の方だった。右手で“待った”の形を作ると、顔を背け、お腹を抱えて笑い出した。
「ぶっ、くく...、フフフ、ハハハハハ...!」
あまりに豪快な笑い方に、私はゴムを手にしたまま固まる。
これは、引かれたのだろうか。嫌われたのだろうか。自分の感情の波に自分で追いつけず、無意識に涙が出そうになる。
そんな私に気が付いたのだろう。先生は慌てたように、でもまだ笑い足りないという顔で私を胸に抱きしめた。「すまない!君があんまりに可愛くて!」とわしわしと頭を撫でられている事から考えると、どうやら引かれてはいないらしい。
「真面目だ真面目だと思っていたが、まさかここまでとは!君は本当にいい子だな!」
「だ、だって、先生が、ベッドに誘うから...!」
そう、先生の方がベッドに誘ったのだ。しかし、煉獄先生はまだ笑い続け、しまいには目尻に浮かんだ涙まで拭っている。
「君があまりにも寝室を意識しているから、ちょっと揶揄っただけだ」
「か、からかう?!」
「あぁ。だって彼氏の家とはいえ、俺たちは今日が初デートみたいなものだろう?まぁ、君が今すぐそうしたいと言うのなら、此方としてもやぶさかではないが...」
「どうする?」煉獄先生の言葉に私がぶんぶんと首を横に振れば、先生は「だろうな!」と朗らかに言った。ほっとしたような残念なような、複雑な気分だった。
「どうせまた謝花妹に何か吹き込まれたんだろう。彼女はちょっと君に対して過保護すぎるからな」
「...すみません」
「いや、いいんだ。この際だから一つ教えておこう」
そう言いながら、煉獄先生はすぐ横のサイドボードに腕を伸ばす。引き出しから黒い小箱を取り出すと、封を開けて中身を取り出した。ジャバラになった物のうち一つを千切り、「君に必要なのはこっちだ」と私の手のひらに乗せる。
「コンドームにはサイズがある。学校の授業では教わらなかったと思うがな」
象のイラストと共にXLと書かれたそれは、もう一方の手にあるお菓子の包みとは似ても似つかない。
情報処理が追いつかない私を、煉獄先生は苦笑いしながら抱き締めたのだった。