梅ちゃんが泣いている。

広い校庭をぐるりと取り囲むように咲いた満開の桜。その枝のひとつに止まり美しい声で囀るウグイスと同じ色の瞳から、まるで真珠のような大粒の涙がぼろぼろと頬を伝って落ちていく。

体育館にずらりと整列した生徒たち。日の丸と校章が高々と掲げられた舞台と平行に並ぶ私たちの左手には、つい先程授与されたばかりの卒業証書が握られていた。しっとりとしたピアノの伴奏が始まると共に、梅ちゃんの美しい顔がより一層歪む。仰げば尊しを口ずさむ彼女の背を、私はその斜め後ろの席から微笑ましく見守っていた。
...−今日は、私たち三年生の卒業だ。

ちらりと教職員席に視線を移せば、そこには腕組みをして式を見守る煉獄先生がいる。式典だからだろうか、いつものワイシャツに腕捲りという格好に、今日はスーツの上着がプラスされていた。
相変わらずかっこいいな。そう思って見ていれば、大きな瞳がぎゅん!とこちらを向く。

ばちりと音が聞こえそうなほど視線が合ったかと思えば、にわかにその顔が強張る。何事も無かったかのように視線を逸らされたが、私の胸はそれだけで言いようの無い不安でいっぱいになった。
どうしたのだろう、私がコンドームを出した時でさえ微動だにしなかった先生なのに。不安に思いながらも、私自身も元の位置に視線を戻す。卒業式の最中にきょろきょろしている私に腹を立てたのだろうか。だとしたら最後の最後に本当に馬鹿な事をしてしまった。

ガックリとしている間に、高校生活最後の合唱は終わる。「卒業生、退場」悲鳴嶼先生の号令と共に、体育館は割れんばかりの拍手に包まれた。退場くらいしっかりしなくてはと思いつつも、あまりのショックに脚が上手く動いてくれない。まるでブリキのおもちゃのようにギシギシとした足取りで、私は体育館を後にするのだった。


「名前、名前、名前、名前、名前〜〜〜ッ!」
「うわぁ?!」

しゅんとしたまま教室への廊下を歩いていると、早々に列を抜けたであろう梅ちゃんが後ろから飛びかかってきた。「もう、危ないよ梅ちゃん!」なんとかバランスを取りながら嗜めたが、梅ちゃんはまるで聞いていない様子だ。えぐえぐとしゃくり上げながらその細い腕を私の首に回し、まるで母親と離れるのが嫌な幼稚園児のようにぎゅうっと抱き着いてくる。
...こういう時、どうして普段は学校に来ない不良の方が泣くのだろう。二年の終わりに体調不良で一日休んで以降、ほぼ無遅刻無欠席である私は涙のなの字も出ないと言うのに。

「明日から...、ウッ、明日から毎日名前に会えない...!遊べない...!悪戯出来ない〜!」
「大袈裟だよ。梅ちゃんと私の学校、ほぼ同じ敷地じゃない」

キメツ学園の理事長である産屋敷耀哉氏は、この学園以外にも様々な事業を展開している。この春から梅ちゃんが通うファッション系の専門学校も、私が通う四年制の大学も、共にキメツ学園の傘下に入る学校だった。校舎は目と鼻の先、その気になれば毎日一緒にお昼ご飯を食べられる距離である。

やっとのことで教室へと辿り着き、未だにぐずる梅ちゃんを椅子へと座らせる。そっとハンカチを差し出せば、梅ちゃんは大きな音を立てて鼻をかんだ。出来れば涙を拭くのに使って欲しかったのだけれど。

「うっ、ううっ、ひぐっ」
「ほら、せっかくのメイクが落ちちゃうよ。あと少しで最後のHRだから...」

「もう少しだけ頑張ろう?」と優しく慰めたつもりが、梅ちゃんはキッと私を睨みつける。「なによ!自分だけ平気な顔して!」と声を荒らげた。

「最後の最後までイイコちゃんぶって!もっと自分に素直になったらどうなのよ!」
「素直って言われても...」

中等部での三年も高等部での三年も、トラブルはあったがそれなりに楽しかった。涙こそ出なかったけれど、充実した学校生活だったと思う。
そんな顔をした私が気に食わなかったのだろう。梅ちゃんは「あーもー!そーじゃなくて!」と歯を剥き出しにして叫ぶ。

「ちゃんと自分の気持ち伝えなくていいのかって言ってんの!!れん...あの暑苦しい男に!!」

梅ちゃんの口から飛び出した言葉に、私は図らずも顔を赤く染める。煉獄先生。六年前、この学園に入学した時から大好きな人。
しかし、頭に浮かんだその表情はいつもの快活な笑顔ではなく、式の最中に見た強張った顔だった。その表情を思い出しただけで、つきん、と小さく胸が痛む。

煉獄先生のことは好きだ。コンドームの事も、小説を貰った事も、特別扱いをしてもらった自覚は充分にある。夏祭りではお面越しとはいえキスだってしたし、二年の後半からは時々電話のやりとりもしていた。

しかし、それらと自分の気持ちを伝えることは別だ。どんなに好きでも、特別扱いをされても、結局は先生と生徒。好意を伝えても迷惑にしかならない事は分かっている。先生の性格からすれば有り得ない事だが、万が一「君とは遊びだった」なんて言われたら、それこそ死んでしまいたくなる。

私が何も言えないまま立っていると、梅ちゃんの両手がガシリと音をたてて私の頭を掴む。まるで万力のようにぎりぎりと締め上げ、下から見上げるように首を傾けてこちらを見た。梅ちゃん最上級の怒りの表情である。

「いい?ホントだったらねぇ...私はHRが終わり次第アンタのこと掻っ攫ってネズミーランドに行きたいのよ。お揃いの耳着けて、いちごのチュロス食べて、お城の前で記念写真撮りたいの」
「え?ちょ、梅ちゃん...?」

一体なんの話をしているのだろう。口を挟もうとすれば、梅ちゃんの凶器のような爪がぎゅむりと私の頬を引っ張った。なんだか今日はいつにも増してご機嫌斜めなようだ。

「でもね、アンタの幸せを考えて今日だけは勘弁してやるって言ってんのよ!こんな敵に塩を送るような事めちゃくちゃムカつくけど!ホント死んでもしたくないけど!あたしがこんだけ譲歩してんだからアンタも最後くらいイイコちゃんやめな!自分の気持ち、ちゃぁんとあの熱血クソ野郎に伝えてこい!!」
「いひゃい!うめひゃん、いひゃいっはら...!」
「分かったら返事!」
「ひゃい」

そう返事をすれば、梅ちゃんはやっと私の頬を解放した。じんじんと熱を持った両頬を、私は涙目になりながらさする。なんだか大変なことになってしまった。

そんな事をしている間にも、戻ってきた冨岡先生の「席に着け」という一言で最後のHRが始まってしまう。最後だからといって特に良い事を言う訳でもない担任の淡々とした声を聞きながら悶々としていれば、ポケットに仕舞っていた携帯電話が小さく震えた。机の下でこっそりと画面を確認すれば、通知に表示された名前にどくりと心臓が高鳴る。


煉獄先生:HR終了後、社会科準備室で待っている。





社会科準備室は、東棟二階の一番奥にある。
グラウンドから聞こえる卒業生たちの声に耳を傾けつつ、私は白塗りのドアの前に立った。磨りガラスの向こうから盛れる明かりを見つめ、静かに深呼吸する。

初めてこの部屋のドアを叩いたのは梅ちゃんにコンドームを仕込まれた日だ。「失礼します」の一言を言うのに、とてつもない時間を要したっけ。

苦笑いしながら手を伸ばせば、またもその手が触れないうちに戸が内側から開く。驚いて立ち尽くす私に「あぁ、来たか苗字」と煉獄先生はゆったりと微笑んだ。

「高校生活最後の日に呼び出してすまない。ただ、どうしても言いたい事があってな」

「行き違いにならないで良かった」そう言いながら、煉獄先生は私を社会科準備室へと招き入れる。ここに座ってくれと言うようにパイプ椅子が引かれ、私は素直にあの日と同じ位置に腰を下ろした。
先生の言いたい事は分かっている。“大事な式典の最中にきょろきょろするな”、もしくは“これまであったことは全て忘れてくれ”だ。どうせなら前者が良いな、と私は自分の白い膝に視線を落とす。

コトン、という音に顔を上げれば、目の前のローテーブルには湯気のたつマグカップが置かれていた。カップの中身はわざわざ聞かなくても分かる。最早飲むのが日課となってしまった、砂糖もクリープも山盛り二杯入れた激甘コーヒーだ。暗い想像で冷えた指先を温めようとカップへと手を伸ばせば、何故かその手を煉獄先生が掴む。

「...えっ?」

驚いている私を他所に、煉獄先生はまるでお伽噺の王子様のように床に片膝をつく。上着のポケットから小さな小箱を取り出すと「苗字」低い声で名前を呼ばれた。頭の奥がじんと痺れる。なんなのだろう。今、私の身に何が起こっているのだろう。

「苗字、君が好きだ」

大好きな人の口から放たれた言葉に、私は思わず言葉を無くす。卒業式でもびくともしなかった目頭が勝手に熱くなり、鼻の奥がつんと痛んだ。
思いもよらぬ言葉、しかし夢にまで見た言葉でもある。

「う...、うそ...」
「嘘じゃない」
「だって私、怒られに来たのに...」
「? どういう事だ?また何か悪い事をしたのか?」
「私が卒業式の最中にきょろきょろしてたから、怒るために呼んだんじゃないんですか...?」

恐る恐るそう問えば、煉獄先生はキョトンとした顔をする。かと思えばぷっと吹き出し、しまいにはお腹を抱えて笑い出した。

「そ、そうか!君は俺に怒られに来たのか!フフッ、ハハハ!」

まるで図書室での飲食を暴露した時のような笑いっぷりだ。まさか笑われるとは思わず、何故かこちらが恥ずかしくなってくる。

「だ、だって煉獄先生が怖い顔して目を逸らすから、私てっきり...!」
「これから告白しようと思っていた相手と目が合って、思わず逸らしてしまっただけだ」

「誤解させてすまなかったな」そう言いながら、改めて煉獄先生は手の中の小箱を開く。なかにはピンクゴールドのシンプルな指輪が一つ、春の柔らかな日差しを反射して光っていた。
骨張った指がそっと指輪を取り出し、まるでプロポーズのように私の左手の薬指に通す。「予約だ」と煉獄先生は笑った。

「この日を随分待った。君が卒業する日を、ずっと心待ちにしていたんだ」
「嬉しい...夢みたいです」
「ちゃんと現実だぞ。頬をつねってみるか?」

煉獄先生の言葉に、私はぶんぶんと首を横に振る。ほっぺを摘まれるのは梅ちゃんだけで十分だ。薬指の輪を信じられない気持ちで見つめながら、私はもごもごと口を開く。

「...でも、ほんのちょっとだけ「全部忘れろ」って言われるかもって思っていました...。「お前とは遊びだから本気にするな」って言われるんじゃって」
「謝花妹といい君といい、最近の高校生はちょっとスレ過ぎではないか?」
「そうでしょうか」
「これでも随分心を砕いたんだがな」

熱い手にぎゅっと手を握りこまれれば、冷えていたはずの指先がいつの間にかぬくもっている。

「君からの好意にはずっと気付いていたし、気付けば俺自身も君に惹かれていた。しかし、俺が教師で君が生徒である以上、あまり事を大っぴらには出来なかった。それでも君に想いが伝わるよう、俺なりに努力したつもりだったのだがな」
「す...、すみません」

思わず謝れば、煉獄先生は「謝る必要は無い」と眉を下げて微笑んだ。するりと私の頬を撫でたかと思うと、その大きな瞳をゆったりと細める。

「俺は教師だからな。どれだけ俺が君を好いているか、これからたっぷり教えるさ」

そう言うなり、煉獄先生は静かに顔を近づけてくる。互いの息遣いさえ伝わりそうなその距離に、私はぎゅっと目を瞑った。あっ、キスされちゃう。そう思ったが、いくら待っても思っていた事は起きなかった。そろりと薄目を開けてみれば、そこには大好きな人が悪い顔をして立っている。

「残念だが、キスはまだお預けだな!」
「えぇ...?ここはそういう場面じゃ...」
「そういう場面だが、神聖な校内で不純異性交遊は出来ん!たとえ今日卒業したとしても、三月三十一日までは君は本校の生徒だからな!」
「...じゃあ、四月一日からならいいんですか?」

何の気無しにした質問だったが、口に出してからその意味に気付いて顔が熱くなる。なんだかこれでは私の方がそういう事をしたがっているみたいだ。「...すみません、忘れてください」そう言い終わる前に、煉獄先生が素早く私の頬に口付ける。ふわり、男の人の青い香りがした。

「君がそうしたいのなら、そうさせてもらおう」

耳元で囁かれた言葉に、身体中の血液が沸騰したように感じる。真っ赤になった私の指に光る輪を、煉獄先生の指が優しく撫でた。


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