ジョギング中にイヤホンのコードが絡まって困る。
そう朝食の席でこぼした所、なんと優しい弟がワイヤレスイヤホンをプレゼントくれた。なんでも「ちょっと早いクリスマスプレゼント」だと言う。

「兄上、しょっちゅうコードを引っ掛けたり、ほどけなくなって新しい物を買ってますよね」

ずっと気になっていたんです、と笑う弟に、杏寿郎は嬉しいやら申し訳ないやらで頭を掻く。千寿郎の言う通り、自室の引き出しにはこれまで使っていたイヤホンがごちゃごちゃと乱雑に仕舞ってあった。どれも線が切れてしまったり、ダマになってほどけなくなった物ばかりだ。いつかきちんと整理しようと思っていたのだが、どうやら見られていたらしい。
数千円とはいえ、まだアルバイトも出来ない弟にとって今回のプレゼントは大きな出費だったはずだ。本当に優しい、良く出来た弟である。

「ありがとう!大切に使わせてもらう!」

そう礼を言えば、弟は良く似た眉を八の字に下げて笑う。クリスマスには何かとびきり良い物をお返ししよう。そう心に決めて、杏寿郎は箱からイヤホンを取り出した。

黒いボディにシルバーのラインが入ったそれは片耳に引っ掛けるタイプで、側面のボタンに触れるだけで瞬時に携帯に接続される。機械に疎い自分に使いこなせるかと最初は不安だったものの、千寿郎の丁寧なレクチャーのお陰ですぐに使い方をマスターすることが出来た。
トレーニングも格段にしやすくなり、運転中の着信にもわざわざ車を停める必要も無い。いつでも両手が空いているため、寝支度を整えながら電話をすることも出来る。どうしてもっと早く手に入れなかったのかと不思議に思うほど、新しいイヤホンは杏寿郎の生活に欠かせない物となった。





五段の弁当を早々に平らげた後、杏寿郎はそっとイヤホンを取り出す。右耳に装着し、カチリ。側面の突起に触れれば、すぐに自身の大好きな声が聞こえてきた。

「あぁ、癒される」

社会科準備室の窓からグラウンドを眺めながら、杏寿郎はうっそりと微笑む。まるですぐ耳元で囁かれているかのような高音質に、目を瞑って耳を澄ませた。

グラウンドでは昼食を終えた男子生徒達が一心不乱にサッカーボールを追いかけている。なおも甘やかに鼓膜を揺らす声は、冬の柔らかな日差しと共に男の体温を緩やかに上げていった。
ポカポカと暖かいのは良いが、このままでは午後の授業が始まる前にのぼせてしまいそうだ。少し風に当たろうと杏寿郎が窓に手を掛けた、まさにその時だった。


バァン!というけたたましい音と共に、背後のドアがノックされた。ノックと言うよりは衝撃音という方が正しい。宇髄あたりがまた何か爆破でもしたのかと思ったが、ドアが粉々になっていない所を見ると今回は違うようだ。

バァン!ガンッ!ゴンッ!となおもノックは続いている。どうやら訪問者はドアを叩いているのではなく、ありったけの力を込めて蹴飛ばしているらしい。
「少し待ってくれ」そう言って杏寿郎は今にも外れそうなドアに手を掛ける。

「今開ける。とりあえず蹴るのをやめてもらおうか」

そう言って引き戸を開ければ、廊下には一人の女生徒が立っていた。銀色に光る長い髪が揺れ、短いスカートからはすらりとした白い脚が伸びている。首を傾け、下から見上げるようにこちらを睨むその瞳にはありありとした敵意が浮かんでいた。
謝花梅。学園三大美女の一人でありながら、その悪名は学外まで轟く。ついに来たか、と杏寿郎は思ったが、寸での所で顔には出さなかった。

「謝花妹ではないか!どうした?ついに春休みの課題を提出する気になったか?」

夏休みのでもいいぞ!という杏寿郎の言葉に、梅は険しい表情のまま「ちょっとツラ貸しなさいよ」と言う。教師に使っていい言葉とは思えなかったが、注意した所で素直に従う生徒ではなかった。これは骨が折れそうだと、杏寿郎は腕組みして不躾な少女を見下ろす。

「何やら込み入った話のようだな!いいだろう、入りなさい!」

そう言って、杏寿郎は美しくも恐ろしい女生徒を部屋へと招き入れる。「そこのパイプ椅子を使うといい」という杏寿郎の言葉を、梅は当たり前のように無視した。
代わりに事務机に腰掛けた少女を、杏寿郎は咎めもせずに見つめる。目の前の少女が果たして何を言うのか、杏寿郎は興味があった。

「アンタ、名前にちょっかい出してるでしょ」

ずばり核心を突いた梅の言葉に、杏寿郎の眉がぴくりと動く。「なんの話だろうか」そう返せば、梅が「ハッ!」と吐き捨てるように笑った。挑発的に組まれた長い足の先で、履き潰した上履きがプラプラと揺れる。

「気付かないとでも思ってんの?たかだかゴム一つで呼び出したかと思えば、春休みには私物の本まであげちゃって。しかも内容が教師と生徒の恋愛物ってさぁ、......何考えてんの?」

赤い唇から零れ落ちる言葉に、杏寿郎は頬がヒリつくのを感じる。十六歳が出すものとは思えない、どこまでも冷酷で残忍な声だった。
ぐしゃり。彼女の長い爪が机上のプリントを抉る。

「教師が生徒に手ェ出すのは犯罪。そんなの私だって知ってる。いいわけ?クビになっても」
「君が何を言っているのか、俺にはさっぱり分からんな。確かに不要物の持ち込みで指導はしたし、追加の課題として本も渡した。しかし、だからなんだと言うのだ?どれも学校生活の範疇だろう」
「それだけじゃないくせに!」

杏寿郎の言葉に、梅は犬歯を剥き出しにして吠える。

「夏祭りの日、戻ってきた名前はなんかおかしかった!顔も真っ赤で、私が話しかけてもずーっとぼんやりしてて...!どうせあんたがなんかしたんでしょ!」
「憶測だな。もし俺と苗字が会っていれば、苗字はきっと君に報告するだろう。しないという事はそんな事実は無かったということではないのか?」

杏寿郎の言葉に、梅はカッと目を見開いて机上の物を薙ぎ払う。教科書、マーカー、しわくちゃになったプリントがバラバラと床に飛び散った。そんな彼女を杏寿郎は何も言わずに見つめる。
親友が自分に隠し事をしているかもしれない。その疑念は彼女のプライドを大きく傷付けたらしい。

「名前はねぇ、特別なの!あたしの一番のお気に入りなのよ!あの子の真面目さを利用する奴も、あの子にコソコソちょっかいかける奴も、あの子を泣かせる奴も許さない!そんな奴がいたら私がこの手で殺すって決めてんの!」
「物騒な事だ。まるで俺が苗字を弄んでいるような言い方だな」
「そう言ってんのよ!名前の気持ちは分かってるんでしょ!?それを利用して摘み食いだなんて、絶対に許さないんだから!!」

今にも飛びかかって来そうな梅に対し、杏寿郎は余裕たっぷりに微笑む。余程勘が良いのだろう、目の前の少女がまるで千里眼のようになんでも言い当てるのがおかしかった。

しかし、杏寿郎とてここで引き下がる気は無い。「なるほど」静かに言うと、右耳に掛けていたイヤホンにそっと触れた。
ここから先の言葉を、“彼女”が聞く必要は無い。

「率直に言おう。苗字が卒業したら、俺は彼女に告白しようと思っている」
「......は?」

ぽかんと口を開けた梅に、杏寿郎は何でもない事のように言う。腰を屈め、床に散らばった物を一つ一つ拾い上げた。教科書に付いた埃を払いながら、杏寿郎は続ける。

「君の言う通り、在学中に手を出せば犯罪だ。だが、卒業後なら問題は無いだろう」
「は、はぁ?!なに開き直ってんのよ!」

明らかに動揺する梅に、杏寿郎は「開き直っている訳では無いさ」と言う。猛禽類に似た二つの瞳が、遠く、ここには居ない獲物を見つめていた。

「摘み食いでは終わらん。彼女が卒業した暁には、彼女の全てを俺が貰い受ける。...それぐらい本気という事だ」

この話はこれで終わりだな。そう言うが早いが、杏寿郎は梅の肩を掴む。ぽいと廊下に放るように部屋から追い出すと、未だ動揺の最中にいる梅とグッと視線を合わせた。声を落とし、瞬きもせずに語りかける。

「誰かに言いたければ言えば良い。ただし、言えば悲しむのは苗字だ。君だって親友が悲しむ姿は見たくないだろう?」
「ッ...この下衆...!」
「コンドームを仕込んだ犯人に言われたくないな」

にやり、杏寿郎が笑うと同時に、昼休み終了のチャイムが鳴る。底冷えする廊下に梅を残し「さぁ、授業の準備だ!」と笑顔でドアを閉めた。

「〜〜〜ッ!!!」

ドアの向こうから少女の声にならない声が聞こえてくる。よっぽど悔しいのだろう、バァン!とその日一番大きな蹴りを残し、少女は社会科準備室を後にした。
辺りが静かになったのを確認し、杏寿郎はもう一度イヤホンに触れる。

『...−さっきの、もしかしなくても梅ちゃんですか?』

再び鼓膜を揺らした声に、杏寿郎はあぁ、と返事をする。風邪がまだ治りきっていないのだろう、鼻にかかった声は何処か甘ったるく、冷えきった部屋に温度が戻ってきた気がした。
謝花梅の“特別”は、昨日から体調を崩して家で寝込んでいる。二人がこうして電話をしている事実を、梅は未だ知らない。

「途中ミュートにしてしまってすまなかった。謝花妹が思いのほか興奮してしまってな。宥めるのに苦労した」
『ごめんなさい、私が梅ちゃんにちゃんと説明しておけば...』
「気にするな。彼女が君を大切に思う気持ちも良く分かる。良い友達を持ったな」
「はい、自慢の親友です」

いつかちゃんと説明します。名前の言葉に、杏寿郎は苦笑いを零す。随分と厄介な親友がいるものだと心の中で独りごちた。

「また熱が上がるから、もう休みなさい」

優しい声でそう囁けば、名前が電話の向こうで頷いた気配がする。『おやすみなさい』そう呟いた彼女に「おやすみ。暖かくして寝るんだぞ」と通話を切った。

「...よもやよもやだな」

イヤホンを耳から外しながら、杏寿郎はふぅと息を吐き出す。午後の授業が始まろうとしていた。



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