なんとか追っ手から逃れようと、私達は人混みを掻き分けながら参道を走る。慣れない下駄も、はだける浴衣も、走って逃げるにはかなり不向きだった。
次々と上がる花火を見上げ、多くの見物客がその場で立ち止まる。分厚い肉の壁に阻まれ、ついに繋いでいた二人の手が離れた。
「っ、梅ちゃん...!」
「名前!」
慌てて腕を伸ばしたが時既に遅く、私達はあっという間に互いの姿を見失う。必死に首を伸ばして親友を探すが、なにせ参道には人が多く、再び合流するのは難しく感じた。
こうしている間にも、先生方は刻々と近付いて来ているはずだ。とにかく今は逃げる事を優先しようと、私は声を張り上げた。
「私は大丈夫!30分後に梅ちゃんの家の前で落ち合おう!」
私の言葉に、梅ちゃんも「わかった!」と声を張る。しかし、やはりその姿は確認出来なかった。
不安だが、ここからは一人で切り抜けるしかない。ぎゅ、と唇を噛み締め、私は自分に気合いを入れた。
随分久しぶりとはいえ、此処は地元の神社だ。朧気ではあるが地の利もある。上手くすれば先生方に見つからずに逃げ切れるかもしれないと、私はなんとか人混みを抜け出した。
出店と出店の間にするりと身体を滑り込ませ、人通りの多い参道から外れる。目の前には提灯も外灯もない、真っ暗な雑木林が広がっていた。
実は、この雑木林は境内の裏にある抜け道へと繋がっているのだ。その抜け道まで出てしまえば、梅ちゃんの住む市営団地まで5分と掛からず辿り着く事が出来る。夜の雑木林を一人で歩くのは気が引けるものの、私だってお説教と反省文は避けたい。
大丈夫、きっとすぐに梅ちゃんに会える。意を決して、私は暗い林へと足を踏み入れた。
携帯電話の灯りを頼りに、恐る恐る林の中を進む。下駄が枯葉を踏む小さな音にさえびくつきながら、私は記憶の中の抜け道を目指していた。
あちこちに伸びる暗い影は、まるで恐ろしい怪物のようだ。何十本という腕が今にも絡みついてきそうで、じっとりと嫌な汗が身体を濡らす。
歩き始めて5分が経ち、10分が経った。まだ抜け道にはたどり着かない。
おかしい。もうとっくに目的地に着いていい時間だ。しかし、おかしい事を認めたくなかった。もし認めたら、私は夜の林で一人迷子になった事になる。
不安に押し潰されそうになりながら更に足を進めると、急に辺りが開けた。やっと抜け道に出たかとホッとしたのも束の間、目の前に見えたのが小さなお社でガッカリする。
「こんなお社、前からあったっけ...?」
木製の格子扉の中、赤い前掛けをしたお狐様がはんなりとした様子で鎮座している。不気味な林に一人だというのに、何故かそのお狐様はちっとも怖いと感じなかった。
きゅっと上がった目尻と赤い前掛けは、なんだか見覚えがあるようなきがする。少し考えた後、あぁ、そうだ、あの人に似ているのだとその正体に思い至った。こんな非常事態でもあの人の事を考えてしまうなんて、自分は相当重症だ。思わず自嘲した時、不意に何かが肩に触れた。
「! キャ...!」
悲鳴をあげようとした途端、大きな手の平に口を塞がれる。後ろからがっちりと身体を押さえ込まれ、あまりの恐怖に携帯を取り落とした。人工的な灯りが消え、暗い林を月明かりが支配する。必死に抵抗するものの、振り上げた腕はすぐに掴まれてしまった。
まさに絶対絶命だ。やっぱり一人で林に入るんじゃなかったと、今更ながら自分の浅はかさを嘆く。こんな思いをするのなら、さっさと先生方に捕まってしまえばよかった...!
ぐにゃり、涙で視界が滲んだ、まさにその時だった。
「苗字」
大好きな声に名前を呼ばれ、私はピタリと動きを止めた。「苗字、落ち着け」再び鼓膜を揺らした低い声に、私はゆっくりと後ろを振り返る。
そこに立っていたのは、
「...きつね?」
狐のお面を被った、赤ネクタイの男だった。
「......煉獄先生、ですよね?」
私の問いに、狐面の男は「む!?」と慌てて私を解放する。まるで正体を見破られたヒーローのようだ。「違うぞ!俺はこの社のお狐様だ!」と叫ぶ声も口調も、煉獄先生そのものだった。
何より、さっき私の事を「苗字!」と呼んだし、左腕には“キメツ学園教職員”の腕章が付いている。到底言い逃れ出来る状況とは思えない。
にも関わらず、先生はあくまでお狐様設定を押し通すつもりらしい。「煉獄先生?そんな人は知らないな!この話はこれで終わりだ!」と、無理矢理会話を切り上げてしまった。
落とした携帯電話を手渡してくれながら、お狐様が楽しそうに口を開く。
「麗しい少女が暗い林に入っていくのを見かけてな!何かあっては大変だと追いかけてきたのだ!」
「それは...、ありがとうございます...」
助けてもらえる事は素直に有難いが、なんとなく手放しで喜べない自分がいた。反省文も勿論嫌だが、それ以上に後ろめたい気持ちで胸がざわつく。そんな私を見透かしたのだろう。お狐様が「どうした?」と首を傾げる。
「せっかく助かったというのに、あまり嬉しそうではないな!」
「そんな事ないですよ。迷子になりかけていたので、本当に助かりました」
「ふむ。でも君は今、何か違う事を考えていただろう」
図星を突かれ、私は微かに眉根を寄せる。「当ててみせようか」お狐様の言葉に、自然と身体が強張った。
「君は、何かを忘れたふりをしているな」
どくん、と心臓が跳ね上がるのを感じた。確かに私には、忘れたふりをしている事が一つだけある。
煉獄先生から出された追加の課題。変化を恐れるあまりに「未提出でいい」と自分に言い聞かせた、教師と生徒のラブストーリーの感想。
「もう結論は出ているのだろう。何故、わざわざ忘れたふりをする?」
「......だって、」
「だって?」
口籠った私に、お狐様が問う。その声があまりに優しくて、私は自分が幼稚園生にでも戻ってしまったような気がした。
忘れ物をした事を優しく諭され、だって、だって、と駄々を捏ねて泣く少女になった気分だ。こうなる事がわかっていたから、忘れたふりをしていたというのに。
「...困らせ、ちゃうから」
「うん?」
「...主人公みたいに、『先生の事が好き』って、私も言いたくなっちゃうから...」
「ふむ」
「だから...、ずっと言えなくて...、」
ぽろ、と熱い滴が頬を伝う。やっと言えた事の喜びより、言ってしまったという罪悪感の方が強かった。こんな風に想いを告げられて、泣かれて。絶対に迷惑なはずなのに、お狐様はそっとその両手で私の頬を包み込む。
あたたかな手にゆっくりと上を向かされる。お面にあいた穴から、猛禽類に似た大きな瞳がこちらを見下ろしていた。きゅっと目尻の上がった、私の大好きな優しい目。この目に捕まったが最後、絶対に逃げる事は出来ないのだ。
『−ずっとこの時を待ってたよ』
くぐもった低い声が、甘く私の鼓膜を揺らす。
それは、あの本を読んだ人にしか分からない、教師と生徒のやり取りだった。神聖で、不道徳で、二人だけの秘密のやり取り。まさか彼の口からその台詞が出るとは思ってもみなかった。
流れる雲が黄色い月をゆっくりと覆っていく。辺りが闇に包まれた時、何かが私の唇に触れた。
その後どうなったのか、正直あまり覚えていない。お狐様の大きな手に手を引かれ、気がついた時には境内の裏へと到着していた。目の前には記憶通りの抜け道があり、遠くには市営団地の灯りが見て取れる。
「家まで送れずすまない。まだ見回りがあるのでな」
お狐様の言葉に、私はふるふると首を横に振る。なんだか夢の中にいるようで、頭も身体ものぼせたようにふわふわとしていた。
そんな私を見て、お狐様は握った手にぎゅ、と力を込める。絡み合った指先は、俗に言う恋人繋ぎというやつだ。名残りを惜しむかのように、太い親指が私の指を擦る。
「その浴衣、とても良く似合っている」
「ありがとう、ございます」
「気をつけて帰りなさい」
「...はい」
「これを」
ズボンのポケットに手を入れたお狐様は、そこから銀色に光るカードケースを取り出した。中から1枚抜き出し、胸ポケットのボールペンで何かを走り書きする。差し出された物をおずおずと受け取れば、それ紛れもない名刺だった。
“キメツ学園 社会科教諭 煉獄杏寿郎”
印字された名前の横には、手書きの電話番号が記されている。
「課題を提出したご褒美だ」
そう言ってお面を取ったお狐様は、やっぱり大好きな煉獄先生だった。
▽
「最っっっっ悪」
市営団地の前で再会した梅ちゃんは、ほぼ手ぶらの私を見るなり開口一番そう言った。彼女の前のアスファルトには、謎の白い塊が幾つも転がっている。不思議に思って拾い上げると、それは丸まった原稿用紙だった。
「梅ちゃん、捕まっちゃったんだね...」
私の言葉に、梅ちゃんが「あ゛ーーー!」と月に向かって吠える。
「信じらんない!ほんっっっとに信じらんない!冨岡のやつ、いつか絶対コロス!」
しわくちゃの原稿用紙を拾ってはきれいに広げながら、私は「ハハハ...」と乾いた笑いを零す。かく言う私も煉獄先生に捕まったクチなのだが、原稿用紙なんて渡されていなかった。と言う事は、反省文は書かなくていいという事だろう。今回の追加課題は免れたわけだ。
煉獄先生からもらった名刺は、既にお財布に大切にしまってある。先生に会った事が梅ちゃんにバレたら「なんで名前だけ!」とまた怒られるだろう。彼女の事だ、「口止め料として課題を手伝え」と言い出しかねない。
「なにぼんやりしてんの!浴衣の畳み方教えるから早く来なさいよ!」
ぷんぷんと怒る親友に「はぁい」と返事をして、階段を上がっていく梅ちゃんを小走りで追いかける。今夜の出来事は、もう少し梅ちゃんにも秘密にしておこうと思った。
お面越しに触れ合った唇は、まだ真夏の夜の熱を残している。