夏休みになった。
最初の一週間で殆どの課題を終わらせた私は、クーラーの効いたリビングで毎日のようにあの本を開いて過ごしていた。
春休み、図書室で一人課題を進めていた私に煉獄先生がくれた本。少しだけカバーの端が丸まった、教師と生徒のラブストーリー。もう十数回は読んでいて、内容も殆ど覚えてしまっている。

あの日、煉獄先生は「読み終わったら感想を聞かせて欲しい」と言ったが、幸か不幸かなかなかタイミングが合わないまま夏休みに入ってしまった。飲食禁止の図書室でコーヒーを飲んだ私への罰。二人で過ごしたその甘い時間とは裏腹に、追加された課題は予想以上の難題となって今も私に伸し掛かっている。
なにせ内容が内容だ。煉獄先生にそんな気は無いとはいえ、先生の事が好きな私からすれば意識せずにはいられなかった。

『私、先生の事が好きです』

物語を読む度に、素直に想いを告げる主人公を羨ましく思う。私も煉獄先生にそう言えたらいいのに、と分不相応な事を思わずにはいられなくなる。物語に没頭すればするほど、主人公の言動に引っ張られる感覚があった。
煉獄先生に告白したい。好きだと伝え、先生の口から答えを聞きたい。
しかし、そう思えば思うほど、自分の中の優等生がストップを掛ける。

目が合えばゆったりと微笑んでくれる煉獄先生。小テストで満点をとれば紙からはみ出そうなほど大きな花丸をくれ、机間巡視の際はその骨ばった指でそっと私の机を撫でて行く。見つかった不要物。甘すぎるコーヒー、おでこに触れた指先。その一つ一つが、私にとって何よりも大切な時間だった。
そしてそれを手放す勇気など、私には無い。

今のままでいいんだ。
胸のモヤを払うように本を閉じ、私は静かに自分へと言い聞かせる。
告白なんかして、先生を困らせるべきじゃない。追加の課題も未提出のままでいいじゃないか。そうすれば、私たちはずっとこのままでいられる。わざわざ余計な事を言って、今の幸せを壊す事などないんだ。
小さくため息を吐いた、まさにその時だった。

テーブルの上に置いていた携帯がぶるりと短く振動した。あの鳴り方はきっとLINEだろう。緩慢な動作で手に取れば、画面には“梅ちゃん”の文字が表示されている。
十中八九、内容は夏休みの課題の事だろう。前回、(私の再三の忠告を無視して)春休みの課題をばっくれた梅ちゃんは、先生方から追加課題のフルコースをくらったのだ。
きっと今回も『課題見して』と泣きつかれるのだろう。あるいは『アンタも手伝って(怒)』かもしれない。同じ追加課題でも随分な違いだな...と苦笑して画面をタップすれば、予想外の文章が目に飛び込んでくる。

『一緒に夏祭り行こ!!!』

遊ぶ気満々の文章に、私は思わず頭を抱える。夏休み前にも散々「課題はちゃんとやりなね」と忠告したというのに、彼女には全く響いていないようだった。ここまで忠告を無視されると、いっそ清々しくさえ思えてくる。美しい親友に遠く思いを馳せていると、すぐに次の文章が送られてきた。

『ちな、アンタに拒否権無いから』

本当に、何処までも傍若無人な親友である。断る気はない。ないけれども「そういうとこだぞ!」と一言突っ込みたくもなる。
吹き出しの下では、可愛い猫のスタンプがこちらにウインクを飛ばしている。その顔がどことなく梅ちゃんに似ていて、私はもう一度溜息を吐いた。





『17時にここ来て!202ね』

夏祭り当日の朝、梅ちゃんからそんなラインが届いた。下に続くURLをタップすれば位置情報が開き、近くの市営団地が表示される。202とはきっと梅ちゃんが住む部屋の番号の事だろう。いつだったか、彼女から「うち、お兄ちゃんと二人暮らしなんだ」と聞いた覚えがある。

16時55分。お気に入りのワンピースに身を包み、私は古い団地の階段を上がっていた。202の部屋番号の横に“謝花”の文字を確認し、黄ばんだチャイムを押す。
ドタドタという足音が聞こえたのも束の間、錆の浮いたドアがばぁんと勢いよく開いて、あわやぶつかりそうになった。慌てて避けた私に「名前久しぶりー!」と梅ちゃんが飛び付いてくる。「もうちょっとでぶつかるとこだったよ...」と冷や汗をかきながら、私もその背に腕を回した。

既に準備万端といったところだろう、黒地に白い梅柄の浴衣を着た梅ちゃんは、まるでお祭りのポスターから飛び出してきたような美しさだ。「綺麗だね」と褒めれば、梅ちゃんは「当たり前でしょ?」と当然のように言い放つ。

「くだらない事言ってないで、ほら、入って入って」
「え?このままお祭りに行くんじゃないの?」
「いーから!ほら、早く!」

いつも以上に派手なネイルに手を引かれ、私はドタバタと玄関へと上がる。脱いだサンダルを揃える事も許されないまま、軋む廊下を進んだ。
“UME”のネームプレートが下がった部屋に入る直前、通り過ぎたリビングから「おぉい、客かあ?」と野太い声が飛んでくる。姿こそ見えないが、きっと学校一の不良と名高いお兄さんだろう。これは一言挨拶せねばと一瞬足を止めたが、梅ちゃんがそれを許さなかった。

「親友の名前だよ!後でおにいちゃんにも紹介するからぁ!」

そう言って、梅ちゃんは私を自室へと押し込んだ。


家具の殆どがショッキングピンクで統一されたその部屋は、まさに彼女のお城だった。
6畳ほどのスペースには天蓋付きのベッドがあり、めくれ上がった布団の上には服やバッグがごちゃごちゃと積まれている。女優ミラーのついたドレッサーには所狭しとコスメが並び、彼女のメイクへの関心の高さが伺えた。
それに引き換え、部屋の隅にはパンパンに膨らんだスクールバッグが無造作に転がっている。きっと夏休みに入ってから一度も課題を開いていないのだろう。うっすらと埃の積もった鞄に同情した私に、「じゃ、脱いで」と梅ちゃんが言った。

「へ?脱ぐって何を?」

私の言葉に、梅ちゃんの顔がみるみる険しくなる。どうやら私は、また彼女の地雷を踏んだらしい。親友であるはずなのに、私はつい知らず知らずのうちに彼女の怒りに火を付けてしまう。
チッ、舌打ちをした梅ちゃんが、女豹のように吠えた。

「そのダッサイ服に決まってんでしょー?!夏祭りは浴衣!常識じゃない!!」

ホント手がかかるんだから!と、梅ちゃんはあっという間に私のワンピースを剥ぎ取ってしまう。家に上がってまだ2分と経っていないのにこの仕打ち。親友とはいえ、流石に酷すぎるのではないだろうか。

「酷いよ梅ちゃん!そのワンピお気に入りなのにー!」
「うっさい!こんなガキっぽい服処分よ!処分!」
「そんなー!」

抗議の声を上げた私に、梅ちゃんがばさりと大きな布を被せる。甚だ納得いかないが、人様の家でいつまでも下着姿でいるわけにもいかない。仕方なく袖を通せば梅ちゃんはさっと衿を合わせ、腰紐で丈を調節した。見下ろした彼女の表情がこれまでにないほど真剣で、私は思わず口を噤む。

私が袖を通したのは、柔らかな生成りに淡い紫のあやめが咲いた、綺麗な色の浴衣だった。あっと言う間にお端折りを整えた梅ちゃんに「これ、梅ちゃんの?」と問えば、「アンタの為にあたしが縫った」と予想外な答えが返ってくる。

「えっ、梅ちゃんが?!」
「何よ、あたしが浴衣縫っちゃ悪いっての?」
「そうじゃないよ!だって、すごく上手だから...!」

下から睨めつけられ、私は慌てて首を横に振る。先ほどまであんなに抵抗していたというのに、今は興奮が抑えられなかった。
生地も縫い目もぴんと整っていて、言われなければ既製品と見間違う程の出来栄えだ。「すごい...梅ちゃんすごいね」私の言葉に梅ちゃんはぽっと頬を染め、照れ隠しのように「これ、ここで持ってて」と私の肩に帯をあてる。言われた通りに帯を掴むと、シャリ感のある樺茶の帯があっという間に背中で花を咲かせた。

「梅ちゃんが浴衣の着付けが出来るなんて知らなかったよ」

そう呟いた私を、梅ちゃんは今度はドレッサーの前に座らせる。どうやら今からヘアメイクも始まるらしい。手の平にワックスを取った梅ちゃんが言いにくそうに口を開いた。

「...うち、あたしとお兄ちゃんの二人暮らしでしょ。大学行って勉強なんてガラじゃないし、将来は何か手に職をつけたいんだよね」

ぶっきらぼうな梅ちゃんの言葉に、私は激しく頷く。自己中心的で不良、進路希望なんて糞食らえという彼女が、実はきちんと将来を見据えていた事に涙が出そうだった。
長い爪で器用に髪を編み込みながら、梅ちゃんがはにかんだように笑う。

「服とかメイクとか好きだし、アンタみたいな子をあたしの手でもっともっと可愛くしてあげたいんだ。浴衣はその練習」
「梅ちゃんなら出来るよ!私応援する!」
「ふふ、ありがと」

パールのついたピンで髪を止め、梅ちゃんはアイシャドウのパレットを手に取る。「目、つむって」真剣な声に目を伏せれば、目蓋の上に薄くラメが乗せられた。睫毛の間を埋めるようにアイライナーが動き、目尻の所ですっと払われる。
「目、開けて」優しげな声に目を開ければ、そこにはいつも以上に艶やかな親友が微笑んでいた。薄く開いた唇にぽってりとグロスを乗せれば、彼女の最高傑作の完成だ。「やっば」携帯を手にした梅ちゃんが、私に向かって何度もシャッターを切る。

「名前超可愛い。やっぱあたし天才だわ」
「うん、天才。ほんと天才」

振り向いた私のおでこを、梅ちゃんが「調子良すぎ」と笑いながら小突く。不良のお兄さんに見送られ、私達はカランコロンと下駄を鳴らしながら神社へと歩いた。





普段は人気のない神社も、夏祭りである今夜だけは存分に賑わっていた。星が光り始めた夕空に赤い提灯が連なり、どの出店からも威勢の良い声が飛んでいる。真夏の夜の美しい情景に、私は胸が高鳴るのを感じていた。

浴衣で夏祭りだなんて、幼稚園の時家族で来て以来だ。梅ちゃんと親友にならなければ、こんなふうにおめかしをして夏の夜を楽しむ事もなかっただろう。荒っぽいやり方は別として、優しい友人に感謝である。

「浴衣のお礼に、今日は私が何か奢るよ」

そう申し出れば、梅ちゃんは「まじ?!」と少女のように瞳を輝かせる。何せ最近は私が梅ちゃんに奢ってもらってばかりだったので、この機会にお返しをと思ったのだ。
「焼きそばとー!たこ焼きとー!チョコバナナとー!」と指折り言う彼女に、私は「お手柔らかに」と苦笑いを零した。こう見えて、梅ちゃんは結構な大食いなのだ。破産まで追い込まれては堪らないと嗜めれば、梅ちゃんは何かを閃いたように手を鳴らした。

「じゃあ、まずはかき氷がいい!」
「はいはい。じゃあかき氷屋さんを探そっか」

二人仲良く手を繋いで、私達は一つ一つ出店を見て回る。こっちの店は安い、あっちの店は大盛り、とお喋りしながら参道を歩き、ついに自家製のフルーツシロップが売りというかき氷屋を発見した。
私はあまおう、梅ちゃんはマンゴーのかき氷を堪能し、色のついた舌を出し合って微笑む。あっかんべーをした写真を何枚も撮った。

その後も、たこ焼きやベビーカステラ、射的やヨーヨー釣りをして遊んだ。「ねぇねぇ、次は綿飴食べよ!」とはしゃぐ梅ちゃんに手を引かれ、私達は一際甘い香りを放つ出店に並ぶ。一つの綿飴を友達と分け合う。そんな些細なことでさえ、私には初体験だった。
もう少しで私たちの番、というその時だ。


にわかに、境内の方が慌ただしくなった。何事かと騒ぎの方に顔を向けると、数人の少年がこちらに向かって走ってくるのが見える。何やら酷く慌てているようで、中には恐怖に顔を歪めている子もいた。
その中に見覚えのある顔を発見し、私は「あっ」と声を上げる。たんぽぽのような髪を怒られる度に「だから地毛って言ってんでしょーが!」と泣く彼を何度も見たことがあった。

「我妻くん!」

手を振って声を掛ければ、涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔が驚いたように私を見る。目があった瞬間、その瞳にハートマークが見えた気がした。

「えっ?!苗字さん?!?!えっ?!?!めっちゃ可愛い!!浴衣めっちゃ可愛い!!こんな所で出逢うなんて奇遇だね!?もしかして君が俺の運命の人なのかな?!?!」

早口で捲し立てる我妻くんを、梅ちゃんが「んなわけないだろ」と殴る。「何すんだよ!俺と苗字さんの熱い夜を邪魔するな!!」と叫んだ我妻くんを、梅ちゃんはさら蹴り飛ばした。

「うっさいブス。ブスが感染るから近寄んないでくれる?」
「はぁあああ?!なんなのこの人?!なんなのこの人?!失礼にも程があるんじゃないの?!?!仮にも同じ学校の生徒に向かってさぁああ!!」

いがみ合う二人の間に割り込み、私は「まぁまぁ」と二人を引き離す。不良で荒っぽい梅ちゃんと風紀委員である我妻くんは、普段から何かと言い合いになる事が多かった。
しかし、今は夏休みなのだ。学外では不良も風紀委員も関係ない。

「なんだか騒がしかったけど、向こうで何かあったの?」

そう私が問えば、我妻くんはハッと我に返って「そーなんだよ苗字さん!」と私の手を握った。うん、別に手は握ってくれなくてもいいんだけど。

「こんな所で言い合いしてる場合じゃない!やばいんだよ、早く逃げないと...!」
「だから何から逃げろってのよ。ちゃんと説明しなさいよブス」

梅ちゃんの辛辣な言葉に、我妻くんが「今説明するとこじゃぁん!」と泣き叫ぶ。

「キメ学の先生方が見回りしてんの!なんでも去年、うちの学校の生徒がこの祭りで暴れたらしくて、キメ学生は夜8時までに帰宅しないとヤバイらしい!捕まった奴は説教のうえ反省文5枚だってよ!!」
「えぇ!?」

入学以降無遅刻・無欠席である私でさえ、そんな話は一度も聞いたことがなかった。梅ちゃんはと言うと、反省文という言葉に思い切り顔を顰めている。
急いで巾着から携帯を取り出せば、時刻は20:34。既にタイムリミットを大幅にオーバーしている。

「奴らもうすぐそこまで来てる、苗字さん達も早く逃げ...−ッ!!!」

そこまで言って、我妻くんはピタリと硬直した。みるみる顔が青くなり、「ひぁ、ウッ...、」と引きつった声を上げる。「我妻くん?」不思議に思った私の呼び掛けにも、彼は全く答えなかった。
見ると、我妻くんの後ろに大きな白い影が立っていた。絵の具のこびりついた指先がぽん、と我妻くんの肩を叩き、みしみしと音を立ててくい込んでいく。

「よぉ、御三方。派手に楽しんでるか?あぁ?」
「...う、宇髄先生、」

私の言葉に、派手好きな美術教師がにたりと笑う。宝石のついたヘアバンドが、提灯の灯りを受けててらてらと光っていた。この人に捕まったらどうなるか、想像するだけで身の毛がよだつ。

「っ、逃げるよ!」

梅ちゃんが私の手を引くと同時に、ドン!と大砲のような音が鳴り響く。次々と上がる花火の合間に、我妻くんの悲鳴が聞こえた気がした。

「さぁ、楽しい狩りの始まりだ」

美術教師の言葉に、後ろにいた男達が楽しそうに笑った。



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