春休みの課題を学校の図書室で一緒にやらないか。
そう提案したところ、梅ちゃんはまるでエイリアンでも見るような目つきで私を見た。

若い女の子に大人気というこのクレープ屋に並びはじめて、もう少しで一時間が経つ。最初こそ二人で楽しくお喋りをしていたものの、ただでさえ短気な彼女に“長時間列に並ぶ”という行為は、やはり耐え難いものだったらしい。口数が減っていく梅ちゃんをなんとか盛り上げようと、私はあの手この手と手を尽くす。

「別のクレープ屋さんにする?ほら、こことかそんなに遠くないしクチコミもいいよ」

携帯のマップを見せながらそう声を掛けてみたが、梅ちゃんは険しい顔のまま首を横に振る。「だってここのが一番美味しいって、おにいちゃんが言ってた」と言われると、それ以上何も言えなくなってしまった。
梅ちゃんのお兄ちゃんは学園随一の不良で、頻繁に揉め事を起こす事で有名だ。小さい頃から面倒を見てくれたらしく、梅ちゃんはそんなお兄ちゃんが大好きなのだった。

十分、二十分と時間はのんびりと過ぎていく。何か話題はないかと散々考えあぐねた結果、先程の提案に行き着いたのだが、どうやら地雷だったらしい。形の良い眉がみるみると歪み、ピンク色の唇が「アンタ正気?」と私に向かって問いかける。
「正気だけど...」私が答えると、長いまつ毛に縁取られた梅ちゃんの目が、エイリアンを見る目からゴミを見る目に変わった。こんな顔をしても絵になるのだから、美人というのは本当に羨ましい。

「信じらんない、ほんっっっとに信じらんない」
「だって家やカフェでやるよりも、学校でやった方が集中出来るでしょ?」

私の言葉に「あーもーこれだからイイコちゃんはさぁー!」と梅ちゃんが空に向かって吠える。前に並んでいたカップルが驚いた様子でこちらを振り返ったので、私は「すみません、なんでもないので」と小さく頭を下げた。

「誰が休み期間中にわざわざ好き好んで学校に行くのよ?なんのための休みなの?遊ぶためでしょ?アンタ優等生のくせにホントは馬鹿なんじゃないの?!」
「またそんなこと言って...。休み明け直前に「課題終わってない!」って言ってきても知らないんだよ?」
「そんなこと言わないもん!」
「言うもん」
「言わないってば!なによ、名前のくせに生意気!」

きゃんきゃんと怒る梅ちゃんを、私はメニュー片手に冷ややかな目で見つめる。夏休みの課題だって最終日まで引っ張り、やれノートを見せろだの、写すのを手伝えなどと鬼のようにLINEを飛ばしてきた事をもう忘れたらしい。

「まぁ、梅ちゃんがそこまで言うならいいけど...。後で何か言ってきても手伝わないからね」
「ふん!」

そっぽをむいた彼女にメニューを渡しつつ、私は一人ふふっと微笑む。二月十四日、バレンタインデーに起こった悲劇は、なんやかんやありつつも私達二人に本当の友情をもたらした。

「いいもん別に。そうやって言いつつ、名前はあたしの事大好きだから最後は手伝ってくれるもん」
「その自信はどこから湧いてくるのかなぁ...」

まぁ間違ってないけどさ、とどこまでも前向きな梅ちゃんを尊敬しかけた時、やっと私たちの番が回ってくる。梅ちゃんはミックスベリー、私はアーモンドキャラメルのクレープを頼んだ。

「名前、ほらこっち向いて!」

すっかりご機嫌になった梅ちゃんの自撮りに付き合ったあと、やっとクレープにかぶりつく。
食べるまでにトータル一時間半かかったクレープは、梅ちゃんの奢りという事もあってとても美味しかった。





本当は、コーヒーよりも紅茶が好きだった。

高校生になってからなんとなくコーヒーも飲み始めたけれど、正直ブラックは苦すぎてあんまり好きじゃない。ブルマンとかキリマンジャロとか、味の違いもよく解らないので、お店で飲む時はソースやクリームが乗った可愛い物を選ぶ。

でも、あの日から私の舌は変わった。
変わってしまった。
紅茶やフラペチーノは殆ど飲まなくなり、お湯に溶かすインスタントコーヒーを飲むようになった。
「コーヒーを飲むなんて名前も大人になったのね」そう笑うお母さんに、私は「うぅん...」と曖昧に頷く。砂糖もミルクも山盛り二杯入れているこれが、大人の味だなんて到底思えなかった。

しかし、どうしてもそんなふうに作ってしまうのだ。あの日、あのコーヒーを飲むまで、先生は私にとって手の届かない人だった。すぐそこにいるけれどテレビの中の芸能人のような、雲の上の神様のような、遠い遠い存在。それでいい、見ているだけでいいと、ずっとずっと思っていた。

なのに、たった一杯、先生が「甘いコーヒーが好きなんだ」と笑ってくれただけで、決して美味しいとは言えないコーヒーが、ものすごく美味しい物にレベルアップする。好きな人の好きな物を、自分も好きになってしまう。恋の力ってすごいな、と自分でも感心する。

ステンレスボトルに激甘コーヒーを詰め、学校指定のバッグに入れる。「いってきます」とリビングに向かって声をかけ、いつもより空いた電車に乗って二駅先の学校に向かった。
先生に会えたらいいな、と心の中で思いながら。



“OPEN”の札が掛かった引き戸を開けると、古いインクと紙の匂いが全身を包む。本の多い所に行くとお腹が痛くなる、という人が世の中には結構な割合でいるらしいが、私はこのちょっと埃っぽいような匂いが大好きだった。

本の匂いを胸いっぱいに吸い込み、ぐるりと図書室を見渡す。梅ちゃんの言う通り、休み期間中にわざわざ学校の図書室に来る生徒は私以外にいないようだった。ぽかぽかとあたたかそうな窓際を選んで腰を下ろし、机の上に課題プリントを広げる。

「...ちょっとくらい良いよね」

テーブルの上にステンレスボトルを取り出し、きゅ、とキャップをゆるめる。湯気を立てるコーヒーをこくりと一口飲み込んだ。
言わずもがな、図書室は飲食禁止である。以前の私なら飲食禁止の場所にコーヒーを持ち込むなんて絶対にしなかっただろう。校則を破った事など一度もなかったのに、と自分でも不思議に思う。
あの一件以降、良くも悪くも私の中で色々なものが変わっていた。

「よし、今日で全部終わらせるぞ!」

ボトルを鞄に仕舞い、お気に入りのシャープペンシルを取り出して自分に気合いを入れる。
甘いコーヒーを飲んだおかげだろうか。なんだか頭がすっきりして、良い気分だった。



課題プリントは授業の復習が大半で、特に難しい内容のものではなかった。教科書や資料集と照らし合わせながら次々と空欄を埋めていく。

八割ほど課題を終えた頃、誰かが図書室に入ってくる気配がした。誰だろうと思わず顔をあげたが、入ってきた人物は本棚に遮られ、すぐに見えなくなってしまう。
もし顔を見ることが出来たとしても、それが知っている人とは限らないよな。そう思いなおし、再び課題に取り組む。今やっている歴史のプリントが終われば、課題は全て終了だ。


かたん、と目の前の席に誰かが座り、文庫本を開く。他にも席はあいているはずなのに、わざわざ私の目の前に座るなんて違和感があった。

まず頭に思い浮かんだのは梅ちゃんの顔だ。彼女なら私が学校の図書室で課題をする事を知っているし、目の前に座っても全くおかしくない。

なんだ。やっぱり梅ちゃんも来たんじゃん。自力で課題をやるなんて偉い偉い!褒めてあげようと顔をあげると、目の前に座っていたのは、

「っ、れんごく、せんせい、」

白いシャツに赤いネクタイを締めた、大好きな、煉獄先生だった。

驚いて固まる私に、先生は「しー...」と人差し指を口に当てるジェスチャーをした。図書室は飲食禁止であると共に私語も厳禁だ。固まったままの私のおでこを、先生の人差し指がとん、と押す。

「苗字、...集中」

その仕草、その一言に、一気に体温が上がる。
今にも沸騰しそうな頭を、首に力を入れてなんとか支えた。煉獄先生の指が、私に触れた。触れてしまった。集中なんか出来るわけが無い。

真っ赤な顔を見られたくなくて、手元の課題へと視線を落とす。先程までの集中力は何処へやら、震える腕をなんとか動かし、残りの課題を進めた。


三十分ほど経っただろうか。
やっとの事で課題を終えてペンを置くと、先生も読んでいた本から顔を上げた。

「おぉ、終わったか!」

文庫本を閉じた先生に、私は何を話せばいいのかわからなかった。会えたらいいなとは思っていたが、実際に会えたらどうするかなんてこれっぽっちも考えていなかったのだ。
「はい」となんとか返事をすれば、煉獄先生が微笑む。心臓に悪いので、そんなに優しく微笑むのはやめて欲しい。

「社会科準備室の窓から苗字が歩いてくるのが見えてな!教室に姿がなかったからここだと思って来てみたら、大正解だった!」
「そ、そうですか」
「うむ!休み期間中も課題をしに学校へ来るとは、苗字は本当に真面目だな!」

煉獄先生の言葉に、私は「ははは...」と笑う。頭の中で必死に次の言葉を探した、
煉獄先生とこうして話をするのは、コンドームの一件以来だった。筆箱の中に隠されていた、お菓子の包み紙に似たピンク色のコンドーム。摘み上げた時のぐにゃりという感触を思い出してしまい、机の下でそっと指先を擦る。

「別に、真面目なわけじゃないです。家やカフェだと誘惑が多くて集中できないだけで...。先生は土曜日もお仕事なんですね」

お疲れ様です、と付け足せば、煉獄先生は「ありがとう!」と向日葵のように笑う。

「春休みはやる事が多くてな!ちょっと息抜きがしたいと思っていた所だ!」

そう言って、煉獄先生は文庫本を持ち上げる。タイトルの下、“本屋大賞ノミネート作品”と書かれた白い帯が見えた。
煉獄先生がどんな本を読んでいるのか、すごく興味がある。タイトルを頭の中にメモし、帰りに本屋に寄ろうと決めた。

「......それにしても、苗字は本当にいい子だなぁ」

机に頬杖をついた先生が目を細め、ゆっくり、しみじみと言う。

「全然いい子じゃないですよ。普通です、普通」
「そんなことは無い!まだ学生なのに、目上の人への心くばりが上手だ。それに、普通の事を普通に出来る人は意外と少ない」

先生の言葉に、私は思わず苦笑いを零す。個性的な生徒ばかりのこの学園で、普通の事を普通にこなす生徒はとても貴重な存在らしかった。

「君ほど優秀な生徒は見たことがないぞ!もっと誇りに思うといい」
「...でも私、さっき駄目なことしちゃいました」
「ほう、それは珍しいな!一体何をしたんだ?」

目を丸くして驚く先生に、私は鞄の中からステンレスボトルを取り出して見せる。丸い筒の中でちゃぷんとコーヒーが揺れる感覚があった。

「飲食禁止の図書室で飲食しちゃいました」

ごめんなさい、と謝る私に、先生はぽかんと口を開ける。次いで「フッ、」と吹き出したかと思うとくつくつと肩を揺らし、終いにはお腹を抱えて笑いだした。

「フッ...!そっ、そうか!それは確かに駄目だな!ふふっ!そうか、図書室で飲食か...!ハハハハハ!」

君は本当に面白いな!と先生が笑い涙を拭う。怒られなかった事にホッとしつつも、何故こんなに笑われているのかはわからなかった。

「図書室で飲食をするなんて、苗字はいけない子だな」

クスクスと笑いながら、煉獄先生が言う。いけない子だなんて、これまでの人生で一度だって言われたことは無かった。その響きが少しだけ淫靡で、なんだかドキドキしてしまう。

「でも、先生だって図書室でお腹抱えて笑ったじゃないですか。私にはしーってしたのに」
「それは失敬!ただ、今回は面白い事を言った君が悪いだろう。不可抗力というやつだ」

先生のつり上がった目尻と琥珀色の瞳は、相変わらず獰猛な猛禽類を思わせる。その瞳に自分が映り込んでいるのが見えて、不思議な気分だった。

「では、そんな苗字にはこれをプレゼントしよう」
「えっ?」

煉獄先生が手元の文庫本をずい、と私に差し出す。微かに端の丸まったカバーが、さっきまで先生がこの本を開いていた事を示していた。

「いいんですか?」
「うむ!春休みの課題はさっき終わったのだろう?これはいけない苗字への、俺個人からの追加の課題だ。読み終わったら感想を聞かせて欲しい」
「は、はぁ...」

唐突な追加課題に戸惑いながらも、私は本を受け取る。パラパラとページをめくっていると、煉獄先生は「では、」と立ち上がった。

「そろそろ俺も仕事に戻るとしよう!親御さんが心配するといけないから、苗字ももう帰った方がいいな」
「はぁい」

課題や筆箱と共に、受け取った本をそっと鞄に仕舞う。どうしよう。コーヒーよりずっとずっとすごい物を手に入れてしまった。興奮でドキドキしながら、煉獄先生と一緒に図書室を後にする。

「準備室に戻るついでだ、下駄箱まで送ろう!」
「ありがとうございます、先生」

夕日の差し込む廊下を、先生と並んで歩く。来た時は“OPEN”だった札がいつの間にか“CLOSE”になっていることに、私は全く気づかなかった。





『で、名前だけ追加で課題出されたんだ』
「そうなんだよ〜。でも煉獄先生とお話出来たから別にいいんだ」
『おめでたい頭ね。アンタのそういうとこ、ほんっっっとに信じらんないわ〜』

帰宅後、梅ちゃんに電話で今日の出来事を話した。胸がいっぱいで、幸せで、一人で胸にしまっておけなかったのだ。梅ちゃんの言う通り、本当におめでたい頭だと思う。

『で、貰ったのはどんな本なわけ?もしかしてエロいやつ?』
「そんなわけないでしょ!まだ読んでないからわからないけど、恋愛小説みたい。ちょっと意外だよね」

私の言葉に、あんなにお喋りな梅ちゃんが急に黙り込む。「梅ちゃん?聞いてる?」と問いかけると、長い沈黙の後で『......ふーん』と低い声が返ってきた。なんだか不機嫌そうだ。

「梅ちゃん、どうかした?」
『別にぃー。どいつもこいつもおめでたくて嫌になっただけ』

あのセンコーこすい真似しやがって、と梅ちゃんが電話の向こうで吐き捨てる。

「うん...?よくわからないけど、とりあえず今から読もうかなって。じゃあ、梅ちゃんも課題頑張ってね」
『あ、ちょっと待っ、』

梅ちゃんが何か言いかけた気がしたが、気づいた時にはもう通話を切ってしまっていた。まぁいいか、と携帯を置き、鞄から文庫本を取り出す。


感想を聞かせて欲しいと言われたからには、端から端までしっかりと読み込みたい。次に煉獄先生に会った時、先生が驚くような、喜んでくれるような事を言いたいと思った。

大好きな煉獄先生の事を考えながら、いちページいちページ大切に読み進めていく。
その本が教師と生徒の恋愛を描いたものだと知るのは、もう少し先の話だ。


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