かさぶたは今も時々痛むけど
目を覚ますと、そこには見覚えのある天井が広がっていた。
柔らかな色合いの木目天井に、清潔感のある白い漆喰の壁。枕元に置かれた硝子製の水差しが、夏の木漏れ日を受けて部屋のあちこちに光の粒を散らしている。ちらちらと瞬くそれは小さな蝶が羽ばたいているようで、寝起きという事もあって未だ夢の中にいるような気分だった。
(此処は、蝶屋敷...)
ほのかに薬品の匂いがするベッドに横たわったまま、なまえは小さく身じろぎする。肌触りの良いシーツの下、右腕、左腕、さらには右脚、左脚、と順番に持ち上げ、身体がきちんと動く事を確認した。時折鈍い痛みが走るものの、今回も五体満足で帰還出来たことにひとまず安堵する。深く深呼吸し、ゆっくりと上体を起こした。
なぜ自分が此処に寝ているのか、なまえには全く思い出せなかった。たしか上官である不死川と共に任務に赴いたはずだが、待ち合わせ場所である産屋敷邸の前で立ち話をして以降の記憶がすっぽりと抜けている。
(...不死川様、怒ってるだろうなぁ)
元々怖い顔をさらに歪める上官を想像し、なまえは重いため息を吐いた。柱である不死川にとってただでさえ足手纏いであるはずの自分が、あろうことか気まで失ったのだ。さぞかしお怒りな事だろう。二〜三発殴られる位で済むと良いのだが。
ぶるり、不穏な想像に二の腕をさすりながら、なまえはゆっくりと床に足を下ろす。足を差し込んだスリッパがなんだかいつもより窮屈な気がしたが、きっと気のせいだろう。
(とりあえず顔でも洗おう...。なんか肌がジャリジャリする...)
ざらつく頬を撫でながら、なまえは部屋の隅にある洗面台へと近付く。横に置かれた水瓶から水をすくい、バシャバシャと顔を洗った。冷たい水を心地よく思いながらも、なまえははて?と首を傾げる。
肌のざらつきがいつまでたっても無くならないのだ。どうやら砂埃の類では無いらしく、いくら擦っても綺麗にならない。摘んで引っ張ってみれば微かに痛みが走り、それが肌にくっついているものだと解る。
(なんだこれ...、トゲ?)
細かなヤスリのような感覚に訝しみながら顔を上げれば、そこには四角い鏡が掛かっている。顎をつたった水滴がぴちょん、と洗面台に音を立てて落ちた。
そこに映った自分の姿に、なまえは思わず悲鳴をあげる。
「ぎ、ぎゃああああああっ!?」
そこに映っていたのは、真っ青な顔で悲鳴をあげる不死川実弥だった。
「なんでっ?!なんで私が不死川様にっ?!うそ、なんでぇえええ...?!」
鏡に映った傷だらけの顔が、今にも泣きそうにくしゃりと歪む。これは夢だ、絶対に夢だと自分に言い聞かせたが、いくら頬をつねっても痛いばかりで目が覚める事はなかった。
つまり、これは紛れも無い現実という事だ。
「なんで...、なんで...っ!」
地を這うような低い声まで上官にそっくりで、なまえはさらに混乱する。肌のざらつきはいわゆる無精髭で、水で洗って落ちるわけがなかった。
自分がいつの間にか上官になっているという事実に、なまえの膝ががくがくと震える。股の間にナニかが擦れるのを感じ、サーッと音を立てて血の気が引いていった。
「い、いやぁあああああああっ!」
「うるせェよ」
悲鳴をあげると同時に、スパン!と後頭部をはたかれる。聞き覚えのある声に振り向けば、そこにはなんと自分≠ェ立っていた。自分とは言わずもがな、いつもの見慣れたみょうじなまえである。怪我もほとんど無く、シャツの襟が大きく開かれている事以外は至っていつもと変わりない。
「えっ?!私?!なんで?!どういう事?!って言うか前あけすぎ...!」
そう言って華奢な肩を掴めば、今度はスパン!おでこをはたかれる。「うるせェっつってんだろクソがァ!」と赤い唇から聞き覚えのある暴言が飛び出した。
「俺の身体でギャーギャーわめくんじゃねェ!」
「俺の身体って...、もしかして不死川様ですか?!」
はたかれたおでこを押さえながら、なまえは潤んだ瞳で目の前に立つ自分を見つめる。
チッ、と放たれた舌打ちはきっと肯定なのだろう。
これは一体どういう事ですか???
「血鬼術ですね」
ぐすぐすと鼻を鳴らすなまえに、蟲柱の胡蝶しのぶはさらりと現状を述べた。ゆったりとした動作で聴診器を首に掛けると「そんなに泣かないで」と細い指先で涙を拭ってくれる。はたから見れば大の男を少女が慰めているという異様な光景だが、今はそんな事に構っている場合では無い。
「不死川さんからの報告によれば、おふたりは鬼との戦闘中に強い光を浴びました。どうやらその光が術の発動だったようですね。中身が入れ替わったなまえさんは目がくらんでそのまま気絶。不死川さんはなまえさんの身体のまま闘って鬼を倒したと」
自分が気絶している間にそんな事があったとは、なまえには思いもよらなかった。上官が鬼を倒した事にはホッとしつつも、聞きたい事があり過ぎてつい前のめりになる。
「も、元に戻るんですよね...?!」
蝶の羽を模したしのぶの羽織を掴み、なまえはおいおいと縋り付く。
「ずっとこのままじゃないですよね...?治りますよね...?」
「術をかけた鬼自身が死んだ場合、血鬼術は二十四時間程度で解けるのが通例です。おふたりの場合ならあと数時間で元に戻れるかと」
「よ...、よかったぁ」
安堵のため息を吐くなまえに、後ろに控えていた不死川が「クソがァ!」と吐き捨てる。相変わらず胸元は大きく開かれたままで、あまり動くと中身が見えてしまいそうだ。ガッ!とその細腕で白い髪を掴み、息が掛かる程顔を寄せてくる。
「随分おめでてェ頭だなァ?任務中に気絶するわ、人の身体でびーびー泣くわァ...。テメェのせいでこっちは全身筋肉痛だ。鍛え方がたりねェんじゃねェかァ?アァ?」
不死川の辛辣な言葉に、なまえは「ひぇぇ...」と悲鳴を上げる。柱である不死川にとって、女であるなまえの身体は脆すぎたのだ。
「申し訳ありません...」なまえが頭を下げれば、それを見ていたしのぶが「言い過ぎですよ不死川さん」と胸元全開の女を嗜める。
「現場を見ていたわけではありませんが、今回の件は不死川さんにも落ち度があるのでは?」
「あ゛ァ?俺の何が悪かったってンだ?蟲柱サマよォ」
薙ぎ払うように髪から手を離した不死川が、今度はしのぶへと詰め寄る。今にも掴みかかりそうな雰囲気になまえは大層慌てたが、しのぶはいつも通り穏やかに微笑んだままだった。
「柱として、もっと冷静に鬼に向き合うべきだったのでは?とお伝えしているんです。十二鬼月でもない、血鬼術頼りの鬼一匹。二人で協力すればすぐにでも頸を落とせたものを、不死川さんが一人で突っ走ったのでは?」
しのぶの言葉に、不死川がグッと口を噤む。ここに来て、なまえはやっとこれまでの事を思い出した。
今回の合同任務、不死川は最初から「鬼の頸は俺が斬る」と言って譲らなかった。なまえの事を「足手纏いだ」と言い捨て、いざ鬼を見つけた時も「テメェは手ェ出すなァ!」と一人で飛び出していった。
目の前が強い光に包まれたのは、まさにその直後だ。
「それは、コイツが愚図だから...!」
「不死川さんが思っているほど、なまえさんは愚図でもやわでもありません。階級もどんどん上がっていますし、柱からも「是非継子に」と引く手数多です」
「ンな事、」
俺が知るかァ!と言いかけた不死川だが、しのぶはそれ以上の言葉を許さなかった。
「なまえさん、寝言でもずっと不死川さんを心配していたんですよ。何度も何度も名前を呼んで...、見ているこちらが辛くなる位に」
「えっ」
「あ゛ァ?!」
しのぶの言葉に、なまえと不死川はふたり同時に声を上げる。自分の評判をこんな所で聞くのも恥ずかしいが、寝言を言っていたのはもっと恥ずかしかった。
ちらり、なまえは不死川を見上げたが、不死川はギリギリと歯を噛み締めるばかりだ。年下のしのぶに毎度言いくるめられるのが余程気に食わないのだろう。
「とにかく、おふたりはまだまだ安静の身です。術が解け、身体が無事元に戻るまでは私の屋敷で休んで頂きます」
しのぶはそう締め括り、さぁ行った行ったとばかりに二人の背を押す。「あと不死川さん、胸元はきちんと閉じてくださいね」と言い残し、診察室の扉を閉めてしまった。
廊下にはきよ・すみ・なほの三人娘が待っており、「さぁ、ベッドへ行きましょう!」「きっと元に戻れますよ!」「まずはお食事をお持ちします!」と口々に言う。
小さな手にグイグイと手を引かれ、なまえと不死川は再びベッドへ戻る事となった。
▽
救護室は静寂に満ちていた。
隣同士のベッドに横たわったなまえと不死川は、一言も喋らずにただその時を待った。一時間経ち、二時間経ったが、なかなかその時は訪れてくれない。
時折強く吹く夏の風が、庭の木々をざわざわと揺らす。昼食の粥もとっくに食べ終え、だんだんとなまえの目蓋が重くなってきた、まさにその時だった。
「悪かったなァ」
ぼそりと呟かれた言葉に、なまえは目を丸くする。一瞬風の鳴る音かと思われたそれは、意外な事に不死川からの謝罪だった。
「...何がですか?」そうなまえが問えば、不死川は「起きてたのかよクソがァ...」とぷいと顔を背ける。どうやらなまえが寝ていると思ったからこその謝罪だったらしい。
上体を起こし、なまえはおたおたと口を開く。
「その、謝らないでください。私が愚図なのは本当ですし、これからはもっと厳しく稽古しますから」
なまえの言葉に不死川は鬱陶しげに寝返りを打つ。
「...それもあるけどよ」ぶっきらぼうな高い声になまえは耳を澄ませた。
「...嫌だろうが。仮の入れ物とはいえ、嫁入り前の娘が身体中傷だらけなんてよォ」
「えっ」
「もうちっとの辛抱だから勘弁しろや」
一瞬頭が混乱したものの、なまえはすぐに理解した。不死川は自身の身体に走った傷の事を言っているのだ。
引きつれ、軋み、所々変色した傷痕。元に戻るまであと数時間とはいえ、入れ替わったなまえがその傷を嫌がっているのではないかと、不死川は心配しているのだ。
「......そんな事、考えてもみませんでした」
なまえの言葉に不死川は「ハァア?!」と目を吊り上げて振り返る。「普通嫌だろォがよ!」と叫び、丸い大きな目でなまえを睨んだ。
しかし、当のなまえはケロリとした顔で不死川を見る。
「だって、不死川様の傷は沢山の鬼を倒してきた証明じゃないですか。どれだけ攻撃を受けても必ず鬼の頸を落としてきた、いわば勲章みたいなものじゃないですか」
かっこいいですよ。そう素直に口にすれば、不死川はぽかんと口を開けてなまえを見つめる。
不死川の血は鬼を酔わせる血。稀血の中の稀血である。
利用するしかなかった。それで鬼が倒せるなら、自分がどれだけ傷付こうと構わなかった。
そんな不死川に、ある隊士は「もっと自分の身体を大切にしろ」と言った。自身を傷付ける戦闘方法に苦言を呈し、「俺はお前に自分の人生を諦めてほしくないんだよ」と泣きそうな顔で笑った。
またある隊士は、不死川の事を「鬼よりも鬼のようだ」と言った。身体中に走った傷痕を醜いと笑い、「きっとあいつは鬼から生まれたに違いない」と母まで馬鹿にした。不死川はその隊士を半殺しにし、二人には接近禁止令が出た。
そんな忌まわしい傷を、なまえは「かっこいい」と言う。
はたと気づくと、二人はそれぞれの身体に戻っていた。不死川は不死川の、なまえはなまえの、正しい身体に納まっていた。
「よかったぁ!術が解けましたね!」
はしゃぐなまえに不死川は「あぁ...」とぼんやりしたまま頷く。傷だらけの腕に目を落とし、指先で小さく撫でた。
これまでに何度この血を恨んだか知れない。日に日に増えていく傷を格好良いと思った事など一度も無かったのに、目の前で笑う女のたった一言でこれまでの暗い心が少しだけ救われる。
母を斬った時に負った傷も、仲間を守れずに負った傷も、あの傷も、この傷も、不死川が死に物狂いで鬼を倒そうとして負った勲章だった。
「それにほら。嫁入り前って言っても、もう既にこんな感じですし」
そう言って、なまえが診察着の腕部分をまくり上げる。そこにはこれまでの戦いでついたであろう傷痕がくっきりと残っていた。きっと他にもまだまだあるのだろう。そしてその傷一つひとつに、色々な思い出がある。
目の前の小さな女も、その勲章を掲げる一人なのだ。
「こんなんじゃ鬼を全部倒してもお嫁に行けるかどうか...」そう言って笑うなまえに、不死川が口を滑らせるまでもう少しだ。
「...馬鹿野郎」
そん時は俺が嫁に貰ってやるさ、と。