女とは準備に何かと時間の掛かる生き物である。

冷たい水を被ってしっかりと身体を清めた後、この日のために用意したまっさらな肌襦袢を羽織る。肩に掛けられた長襦袢に袖を通し、衣紋を抜いて前を合わせていると「ちょっとごめんね」という声と共に後ろから腕が伸びてきた。

「後になって着崩れちゃうと大変だから...。苦しかったら言ってね!」

甘露寺さんの言葉に大きく頷けば、緩んでいた腰紐がぎゅっと強く引かれる。あまりの強さにウッと声を漏らしそうになったが、寸での所で我慢した。
こんなのはまだまだ序の口だ。この後にも山ほど帯や小物を身に付けなければならないのだから、腰紐の一本や二本で泣き言を言ってはいられない。美しい刺繍の施された帯や着物は想像以上に重く、着付ける側にも相当な腕力が必要なのだ。剛腕な甘露寺さんにはぴったりの仕事だった。

甘露寺さんによる着付けが終わると、今度は髪の準備だ。大きな鏡台の前に腰を下ろせば、櫛を手にした胡蝶さんがふわりと私の背後に降り立つ。「綺麗な髪ですねぇ」歌うように言いながら、その小さな手で私の髪を掬い上げた。櫛を差し込み、上から下へと何度も撫で付ける。

「懐かしい。昔はよくこうして姉さんの髪を梳きました」
「お姉様も髪が長かったんですか?」
「はい。しのぶももっと伸ばしたらいいのに、とよく言われました。でも、私は今の髪型が気に入っているので」

長いと診察の際も邪魔になりますからね、と胡蝶さんは言う。怪我人を預かる事の多い彼女らしい理由だった。

「胡蝶さんのほんのり藤色の髪、私好きです」
「ふふ。私もなまえさんの髪好きですよ。さらさらで真っ直ぐで、旦那様とは随分違うんですね」

そんなふうに私を揶揄いながら、胡蝶さんは一筋の乱れもなく髪を高く結い上げる。「さぁ、出来ましたよ」姉の呼び掛けに、後ろで待っていたなほちゃん、きよちゃん、すみちゃんがわっと駆け寄ってきた。

「なまえさん、おめでとうございます!」
「とってもお綺麗です!」
「お姫様みたいです!」

口々に誉めそやしながら、三人は私の頭に本鼈甲の簪を差し込んでいく。「ありがとう」一人一人にお礼を良い、私は三つの身体をいっぺんに抱き締めた。小さな六本の腕がぎゅっと私にしがみつく。なんだか自分にも妹が出来たようで嬉しかった。


「さぁ、それでは最後の仕上げを致しましょう」

そう言ったのは、我らがお館様の御内儀・あまね様だ。その後ろには長女のひなき様、次女のにちか様も控えている。二人ともその小さな手にちんまりとした盃を一つずつ掲げていた。
「お願い致します」ぺこりと頭を下げれば、あまね様の真っ白な指先が私の顎を掬い上げる。そっと瞼を下ろし、唇を薄く開いた。

小さな紅筆を手に取ったあまね様は、その穂先をほんの少しだけひなき様の持つ盃に浸した。しっとりと水を含んだ穂先を、今度はにちか様の持つ盃に当てる。内側に塗り付けられた玉虫色があっという間に鮮やかな紅色に変わり、柔らかな穂先を紅く染め上げた。
見る角度で色の変わる玉虫色は良質な紅の証だ。江戸時代、その紅をふんだんに使った“笹紅”は女性達の憧れであった。

「古より、紅は魔除けの色として人々の生活に彩りを添えてきました」

そう言いながら、あまね様が私の唇に紅を差す。ひやり。紅く染まった筆先が唇を滑る度に、私はこれまでにあった出来事を思い返していた。
藤の家紋の家に生まれ、煉獄さんと出会って一年と少し。辛い事もあったが、それ以上に沢山の幸せがあった。
ことん。鏡台に筆を置く音に、私はゆっくりと目を開く。

「美しい紅色の唇は、燃え盛る炎と同じ色。煉獄様となまえさん、おふたりの未来に幸多からん事を鬼殺隊一同お祈り申し上げます」

あまね様が深々と頭を下げる。胡蝶さん、甘露寺さん、三人娘もそれに倣った。
私も畳に手をつき、ゆっくりと頭を垂れる。ぽとり、大粒の涙が一粒だけ畳を濡らした。

「ありがとうございます」

紅く光る唇で心からの感謝を伝える。
今日、私は煉獄さんと祝言を上げるのだ。



身支度のためにお借りした蝶屋敷を出ると、外には既に黒の紋付に身を包んだ煉獄さんが待っていた。目が合った瞬間、元より大きな瞳がより一層大きく見開かれる。まるでこの世の物とは思えない何かを見たような顔だ。どこか変かと慌てていると、後ろにいた宇髄さんが「オラ」と煉獄さんを蹴り上げた。

「なぁに派手に呆けてんだよ。らしくねぇぞ、煉獄」
「あ、あぁ」
「お前の為に粧し込んでんだ。何か言う事あんだろが」

宇髄さんの言葉に、煉獄さんはきゅっと唇を引き結ぶ。凛々しい眉に力を込め、ずんずんとこちらに向かってきた。
思わず後退りそうになった私の手を、煉獄さんがぎゅと手に取る。緊張しているのだろう。普段からあたたかな指先が、今日は燃えるように熱い。

「...すまない。美しい君を前にしたら、急に声が出なくなってしまった」
「...ちゃんと綺麗ですか?私」

ほんの少し拗ねたように言えば、煉獄さんの手にグッと力がこもる。炎と同じ色の瞳がいつも以上にきらきらと輝いて見えた。

「あぁ。こんなに美しい人が今日から自分の妻になるなんて信じられない。綺麗だ、なまえ」
「ふふ...。私も、こんなに素敵な方が今日から自分の旦那様になるなんて不思議な気持ちです」
「あー、ハイハイ。惚気はその辺にしとけ、日が暮れちまうわ」

呆れたように手を振る宇髄さんに、私達は顔を見合わせて笑う。確かに今からこんな調子では幾ら時間があっても足りないだろう。
それでも互いに伝えておきたかったのだ。この人と一緒になれる自分はどれ程幸せ者なのかと。

「行こう!」

煉獄さんに手を引かれ、花嫁行列はゆっくりと会場である産屋敷邸へと進む。おめでとうございます、お幸せに、と至る所から花吹雪が飛んだ。





私たちの祝言は産屋敷邸の大広間で行われた。普段は柱しか上がることの出来ない聖域も、今日だけは大勢の人で賑わっている。畳の上には真っ赤な毛氈が敷かれ、大きく開け放たれた障子からは美しい庭が見渡せた。漆塗りの高脚膳には鯛や赤飯といった祝いの料理が並び、列席者の目と鼻を楽しませている。

「今日は待ちに待った杏寿郎となまえの祝言の日だ」

まるで波紋のように部屋に伝わっていくお館様のお声を、私と煉獄さんは部屋の外の廊下から聞いていた。決して大きい声ではないのに、お館様が口を開いただけでその場がしんと静まるのだから不思議なものだ。

「炎柱である杏寿郎と、杏寿郎を支えたなまえ。大切な子供たちの大切な日に立ち会えた事、当主としてとても嬉しく思うよ。どうか皆も二人の未来が明るいものになるよう共に祈っておくれ」

さぁ、お入り。お館様の言葉にくいな様とかなた様が襖を引く。新郎新婦が姿を現すと、部屋は割れんばかりの拍手に包まれた。


金屏風の前に揃って腰を下ろせば、私たちの前に大中小の盃が置かれる。三三九度。本来は神様を前にして行う儀式だが、煉獄さんも私も、目に見えぬ神より目の前の仲間達を信じて盃を交わそうと決めていた。
当主であるお館様自ら銚子を取り、まずは煉獄さんの盃に酒を注ぐ。いち、に、さん、と煉獄さんは三度盃に口をつけると、その盃を私の方へと差し出した。
大きな手から盃を受け取り、今度は私の盃に酒が注がれる。大勢の人を前にして飲むお酒は少量でもかなり酔いそうだ。全て飲むとひっくり返ってしまいそうで、最後の一回は飲む真似だけにした。

「おめでとう。これで二人は正式な夫婦だ」

お館様の言葉に、煉獄さんと私は深く頭を下げる。「ありがとうございます」顔を上げながら煉獄さんが恭しく口を開いた。

「鬼達がなりを潜めているとはいえ、我ら鬼殺隊は今なお戦いの最中。そんな時に祝言を挙げるお許しを頂きました事、お館様をはじめ御列席の皆様に厚く御礼申し上げます」
「いいんだよ杏寿郎。こんな時だからこそ、嬉しい事は皆で共有しなければね」

お館様の言葉に、その場にいた全員がうんうんと頷く。これから先、鬼殺隊は更なる苦境に立たされる事になるだろう。もしかしたら今日この場に集まってくれた仲間とさえ、二度と会えなくなる日が来るかもしれない。
しかし、それでも私達は戦い続けるのだ。たとえ仲間が倒れても、愛する人がいなくなっても、命ある限り鬼舞辻無惨を倒す。その覚悟を持って此処に居る。

「大丈夫だ」

同じ事を考えていたのだろう。煉獄さんが私の手を取り、ぎゅっと強く握る。

「たとえどんな苦難が待ち受けていようとも、俺と君が離れる事は無い」
「はい」
「心はいつも一つだ。必ず幸せにする」
「私も、煉獄さんを絶対に幸せにします」

そう答えれば、煉獄さんが眉を下げて笑う。
この人と一緒なら私はいつだって、どこだって、大丈夫だ。





一通り儀式を終えるとその後はいつも通り、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎとなった。宇髄さんは持ち前の美声で歌を歌い、不死川さんはお祝いの紅白饅頭をアテにちびちびと呑んで玄弥くんに絡んでいる。伊黒さんと甘露寺さんは理想の祝言について熱い議論を重ね、胡蝶さんはカナヲちゃんと何やら内緒話をしていた。カナヲちゃんは常々「師匠ともっと稽古がしたい」と言っていたからきっとその事かもしれない。
炭治郎くんは千寿郎くんと料理話に花を咲かせ、時透くんは鯛の中にあるという鯛の形の骨を一人黙々と探している。善逸くんは心地好い音で三味線を奏で、悲鳴嶼さんは飲み過ぎた槇寿郎さんの背中をさすっていた。

「なまえ」

伊之助くんの関節外し芸を見て笑っていると、水柱の冨岡さんが私の隣にやってきた。はい、と返事をすれば、冨岡さんは黙って徳利を差し出す。
実は、今日つけている鼈甲の簪は冨岡さんからお借りした物だった。本来なら私からお酌に行かなければならない所だ。盃を手に取れば今にも零れそうなほどなみなみと酒を注がれる。

「簪、ありがとうございました。とても大切な物をお借りしたのにお礼が遅れてしまって...」

申し訳ありません。頭を下げながら今度は私が徳利を取る。

「気にするな。誰かに使って貰えて姉さんも本望だろう」

冨岡さんの言葉に、思わず唇をキュッと引き結ぶ。
冨岡さんのお姉様・蔦子さんは、まだ幼かった冨岡さんを庇って亡くなったという。鬼さえ現れなければ、この簪は翌日の祝言で蔦子さんの髪を飾るはずだったのだ。せっかく誂えた嫁入り道具は、一度も使われることの無いまま幼い義勇少年に形見として残された。私たちの祝言の招待状が届くまで、ずっと蔵の奥に仕舞い込んでいたと言う。

「...蔦子姉さんにも、こうして酌をしてやりたかった」

大切な人が自分を庇って亡くなった。その重圧が如何程のものか、私はよく知っている。

「...頂きます」

藤の花が描かれた盃を持ち上げた私は、グッと一息にその中身を飲み干す。正直に言えば、お酒はそれほど得意ではなかった。今日の分の許容量は先程三三九度でもう超えている。
それでも飲なければならない。目の前の男の止まった時間を動かすためにも。冨岡さん自身に幸せになって貰うためにも。

一息で飲むとは思っていなかったのだろう。飲み慣れぬ酒にヒリヒリと喉を焼かれながら盃をおろせば、冨岡さんは驚いたようにこちらを見つめていた。にっこりと笑って見つめ返せば、深い水底のような瞳がほんの一瞬だけ揺らめく。

「私、幸せになります」
「...あぁ」
「冨岡さんも、幸せになってくださいね」

冨岡さんが口を開きかけた、まさにその時だった。

「あー!冨岡が人妻口説いてるー!」

宇髄さんの言葉に、私と冨岡さんはびくりと肩を揺らす。どうやら随分酔いが回っているらしい。大の男が「いーけないんだーいけないんだー!」とまるで子供のように指さして揶揄ってくるのだから三人のお嫁さんも大慌てだった。「ちょっと天元様!」と須磨さんが叫んだが、酔って気が大きくなった宇髄さんには聞こえなかったようだ。「オメーも隅に置けねぇなぁ冨岡ぁ」宇髄さんの言葉に釣られ、その場にいた全員がこちらを見る。勿論、煉獄さんも。

「ち、ちがいますよ!ちょっと二人でお話していただけです。ねぇ、冨岡さん」

私は慌てて釈明したが、冨岡さんは「あぁ」と無表情で答えただけだった。これでは宇髄さんと私、どちらに肯定しているか分からないではないか。

「...冨岡、良い度胸だな」

刀を手にした煉獄さんがゆらりと立ち上がる。それほどお酒は飲んでいなかったはずだが、やはり病み上がりの身体には少量でも酔いが回るらしい。「煉獄さん!違いますから!冨岡さんもちゃんと説明してください!」とその後も誤解を解くのに難儀した。





「はー......」

大きく息を吐き出しながら、二人同時に布団に倒れ込む。
朝早くから重たい衣装に身を包み、次から次へとやってくる列席者の相手をする。用意された食事に手をつける暇もなく、何度断っても酒ばかり勧められるのだから困ったものだった。片付けを終え、やっと家に帰りついた時には辺りは既に真っ暗になっていた。朝のうちに布団を用意しておいて正解だったと思う。

「疲れたな...!」
「疲れましたねぇ...」

二人同時に同じ言葉を言ってしまい、私達はまた顔を見合わせて笑う。それでもやってよかったと心から思えるのは、こうして相手の笑顔が沢山見られたからだろう。

「今日はこのまま眠ってしまいましょうか」

もうほぼ完治したとはいえ、煉獄さんはまだまだ病み上がりだ。これ以上無理をさせる訳にはいかないと布団を掛けてやれば「ちょっと待った」と手首を掴まれる。

「その、今日は...」

語尾を濁す煉獄さんに図らずもその先を察してしまい、なんだかこちらまで赤くなってしまう。今日は夫婦となって初めて過ごす夜、いわゆる初夜である。分かってはいる。けれども、煉獄さんの身体のことを考えれば
到底承服出来そうにない。

「でも、煉獄さんはまだ無理の出来ないお身体ですし...、今日はお疲れでしょう?」
「大丈夫だ!この日をずっと待っていた。俺は−...!」
「それでも、今日は駄目です」

優しい声音でそう言えば、煉獄さんは目に見えてしょんぼりする。その様がなんだか叱られた子犬のように見えてちょっと可愛かった。

本音を言えば、私だってそういう事がしたい。いつか見た夢のように、今すぐ肌を合わせて快楽の海に沈んでしまいたい。
しかし、それでは駄目なのだ。疲れている時は無理矢理にでも休ませなければ、この人はきっと無理をする。妻として、健康を預かる者として、これからは絶対に無理はさせないと今日皆の前で誓ったばかりだ。

ふっと行灯の灯りを吹き消せば、当たりはあっという間に闇に包まれる。二人して同じ布団に潜り込むと、太い腕がグッと腰を抱き寄せた。「なら明日だ」と煉獄さんが悔しそうに言う。

「君も疲れているだろうからな。美しい妻に免じて今夜は我慢しよう」
「ふふ、ありがとうございます」
「でも、明日はするからな。容赦しないぞ」
「...どうかお手柔らかに」

そう言って分厚い胸に額をくっつければ、煉獄さんが「それはどうだろうな」と小さく笑う。頬に落とされた口付けを合図に、私はゆっくりと目を閉じた。




私たちが祝言を挙げた数ヶ月後、筆舌に尽くし難いほど大きな戦いがあった。沢山の人が傷付き、何人もの仲間が帰らぬ人となった。杏寿郎さんは宇髄さん・槇寿郎さんと共に禰豆子ちゃんの警備に当たり、私は煉獄家で千寿郎くんと一緒に仏壇の前で手を合わせ祈った。
どうかこの長く辛い夜が、一分一秒でも早く明けますように、と。

戦いが終わり、鬼殺隊が解散してもなお、仲間を失った私たちの心は癒えていない。それでも、この世にはもう恐ろしい鬼も、その鬼によって幸せを奪われる人もいないのだ。平和な世の中になったと何度も自分に言い聞かせる事で、何とか前を向いて毎日を生きていた。


「なまえ」

大好きな人が私の名前を呼ぶ。鬼のいない平和な世界で。私にしか使わない、甘く優しい声音で。

「はい、杏寿郎さん」

私も、その人の名前を呼ぶ。
今世も、来世も、千代に八千代に。



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