ある夏の日の朝。小鳥の声で目を覚ますと、いつも通り煉獄さんに抱き締められていた。
薄く開いた唇からはすやすやと規則正しい寝息が漏れ、伏せられた長い睫毛が時折ふるりと震える。輪郭にうっすらと生えた髭まで愛おしく思いながら、私は背にまわされた太い腕をそうっと持ち上げた。

「......む、ぅ、」

煉獄さんは小さく唸ったが、その大きな瞳が開く事はなかった。こんなふうに腕の中から抜け出すのももう慣れたもので、その度に煉獄さんは「よもや!またなまえを朝まで捕まえていられなかった!」と悔しがるのだ。

静かに隣の部屋へ移り、寝巻き代わりの浴衣を肩から落とす。桐箪笥から白藍の着物を取り出し、ゆっくりと腕を通した。
襟元と裾に大きな牡丹が染め抜かれたそれは、先日煉獄家で譲り受けたお義母様のものだ。夏はよく汗をかくので、着心地も見た目も涼やかな絽の着物は本当に有難かった。羽衣のように美しい着物を身にまとい、薄化粧をして外に出る。


鼻歌まじりで私が向かった先は、庭の奥にある小さな畑だった。艶々と光る茄子や胡瓜の横を通り過ぎ、里芋の植えられた畝へと歩いていく。傘に似た大きな葉にはつるんとした朝露が乗っていて、私のお目当てはまさにこれだった。

そうっと葉っぱを傾け、文机から持ってきた硯に朝露を落とす。硯の池部分がいっぱいになるまで続け、零さないようにそろそろと家へ戻った。
玄関を開けると丁度起きてきた煉獄さんと鉢合わせる。顔を洗ったあとなのだろう、髭も綺麗に剃られ、さっぱりとした顔つきだった。滑らかになった顎から手を離した煉獄さんが、草履を脱ぐ私に向かって悔しそうに微笑む。

「おはよう!また逃げられてしまったな!今度こそ逃すまいと思っていたのだが」

煉獄さんの言葉に「おはようございます」と返しながら、私はくすりと笑みを零す。

「私はお化粧も朝御飯の準備もありますから...。煉獄さんはもっとゆっくり寝ててもいいんですよ?」
「む!確かに朝餉も大事だ!しかし目が覚めた時一人なのが寂しくてな。たまには俺と朝寝坊してくれると嬉しい」

そう言った煉獄さんの瞳が、ふと私の持つ硯に止まる。「して、それは?」と聞かれ、私は「あぁ、」と口を開いた。

「里芋の葉から朝露を取ってきたんです」
「里芋?」

芋という単語に、煉獄さんの眉がぴくりと動く。一番好きなのは薩摩芋だが、煉獄さんはどんな芋も大好きなのだ。興味深々な顔に、硯の朝露を見せる。

「はい。昨晩急に祖母の言葉を思い出して…。七夕の日の朝、里芋の朝露でお習字をすると字が上手になるそうですよ」
「そうか!今日は七夕だったか!」

壁に取り付けられた日めくりを見て、煉獄さんが声を上げる。「そう言えば、母上も昔そんな事を言っていたな」と思い出したように言った。

「七夕の日の朝露は天水≠ニ言うのだったか。なんでも天の神様からの授かり物だとか」
「はい。地域によっては織姫の涙≠ニも言うらしいですよ」
「彦星に会える嬉し涙で習字か。風流だな!」

煉獄さんの言葉に私は大きく頷く。

「はい。せっかくですから、素敵な風習にあやかろうかと思って」
「? あやかるも何も、なまえは元々字が上手ではないか」

不思議そうに首を傾げる煉獄さんに、私はんん...、と曖昧に頷く。
確かに、私はわざわざ練習しなければならないほど字が下手な訳では無い。特別上手い訳でもないが、煉獄さんをはじめ他の人からも字が綺麗だと褒められる事は多かった。
ではなぜこんな事をしているのか。気恥ずかしいが、この流れでは言わないわけにもいかないだろう。

「......祝言の招待状を、少しでも綺麗な字で書きたくて」

私の言葉に、煉獄さんはぽかんと口を開く。
先日、煉獄さんのご実家を訪ねた際にお義父様が言った「祝言でもなんでもさっさと挙げてしまえ!」という言葉。聞いた時は驚きの方が大きかったが、日に日にその言葉を意識してしまう自分がいた。まだ何も決まっていないのに、もう招待状の心配をしているのだ。
あぁ恥ずかしいと顔をそらした次の瞬間、逞しい腕に強く抱き締められる。

「わっ!ちょ、零れる!零れちゃいます!」

ちゃぷん。傾いた硯から零れた朝露が床に小さなシミを作ったが、煉獄さんは気にも止めなかった。それどころか、今度こそ逃がさないとばかりにぎゅううっと強く抱き締められる。

「朝餉を食べたら、いつ祝言を挙げるか決めよう」
「...はい」

苦しいほどに抱きしめられながら、私はこくりと頷く。

「俺も一緒にあやかる。二人でとびきり良い招待状を書こう」
「...はい。一緒に」

玄関で抱き合ったまま、近付いてくる唇にゆっくりと目を瞑る。柔らかな唇が自分のそれに重なり、幸せで胸がいっぱいだった。





招待状を書き終えた後、二人で近くの森へと出かけた。いつだったか岩柱の悲鳴嶼さんに会ったその森には竹が生えており、七夕に使う笹を取りに来たのだ。

「なかなか丁度良い太さの竹がありませんね」

竹林を縫うように進みながら、私は少し先を行く煉獄さんに声をかける。どの竹も青々と太く、立派な物ばかりだった。

「竹はどんどん大きくなるからな!春に出た筍が一日で三尺以上伸びることもあるらしい」
「通りでどれも立派なわけですね」

空が狭く見えるほど茂った竹を見上げ、ふぅと小さく息を吐く。あまりに大きい竹だと、切るのも持って帰るのも大変だ。どうしようかと二人で悩んでいると、森の奥から人の気配がした。
さく、さく、と落ち葉を踏みしめる音が近づいてきて、煉獄さんの眼差しが急に険しくなる。

「...なまえ、俺の後ろへ」

煉獄さんの低い声に、私は静かにその背に隠れる。此処は鬼殺隊の隠れ里。まだ日も高いため相手が鬼である可能性は低いが、煉獄さんの表情から強い相手であることが解った。


日に日に体力が戻っているとは言え、煉獄さんが受けた傷は深い。今は二週に一度になった胡蝶さんの診察でも「柱としての復帰は難しいでしょう」と言われたばかりだった。
煉獄さん本人がその診察をどう受け止めたかは解らない。ただ一言「そうか」と言った煉獄さんはその後もいつも通りで、私もそれ以上その事には触れなかった。


さく、さく、という足音は今も続いている。日輪刀の代わりに鋸を構えた煉獄さんは、近付いて来る足音に全神経を集中させている。
鬼が出るか蛇が出るか。ガサガサッと大きな音を立て、目の前の薮が揺れる。緊張する私達の前に現れたのは、

「こんな所で何してるんですか」

長い髪に何枚も笹の葉をつけた、霞柱の時透無一郎くんだった。



「時透か!以前と気配が違っていたから一瞬誰だか解らなかったぞ!」

ばしばしと肩を叩く煉獄さんに、時透くんは「思っていたよりお元気そうですね」と呟く。歳は十四、五歳だろうか。一見ただの男の子だが、彼は刀を手にしてたったの二ヶ月で柱まで登り詰めた天才だ。

「上弦の伍を倒したと聞いたぞ。また腕を上げたのだな!」
「僕一人で倒したわけではありません。炭治郎や玄弥...、他にも沢山の人が助けてくれたおかげで勝てました」
「そうか!なんだか人間的にも成長したな!」

微妙に失礼な煉獄さんの言葉にも、時透くんは無表情のままだ。「えぇ、まぁ」と淡々とした様子で相槌を打ち、「色々あったので」と付け加える。

「ところで、色んな人から煉獄さんの復帰が近いと聞きました。そうなんですか?」
「む!時透にまで話が行っているとは。風の噂はなかなか侮れんな!」

核心を避けるような煉獄さんの言葉に、時透くんは一瞬眉を顰める。何かを察したのだろう。幼い顔はすぐに元の無表情に戻り、今度はその丸い瞳を私の方へ向けた。時透くんの視線に気付いた煉獄さんが「あぁ、そうか!」と私の手をとる。

「時透は会うのが初めてだったか?みょうじなまえ、俺の妻になる人だ!」

妻という響きに顔を赤くしながらも、私は時透くんに頭を下げる。「よろしくお願いします」と言うと、時透くんは「どうも」とあまり興味なさげに言った。

「ご結婚されるんですね。おめでとうございます」
「あぁ、ありがとう!近々招待状を送るから、良かったら祝言にも顔を出してくれ!」
「はい。行けたら行きます」

快活な煉獄さんと悠々とした時透くんは対照的で、見ているとなんだか面白い。「そうだな!来れたら是非来てくれ!」と笑う煉獄さんは、なんだか時透くんのお兄さんのように見えた。行けたら行く、なんて不確かな返事をしているが、きっと時透くんは祝言に来てくれるだろう。そんな予感がする。

「それで、お二人は何をしにこんな所へ?」
「あぁ、七夕の笹を切りに来たのだ!しかしなかなか手頃なものがなくてな、困っていた所だ!」
「へぇ…、七夕」

時透くんの硝子のような瞳が一瞬小さく光ったような気がした。次いで自分が歩いて来た方を指差し、ゆっくりと口を開く。

「此処からもう少し歩いた所で、さっきまで稽古をしていました。試し斬りで何本か竹も切ったので、それなら七夕に使うのに良いでしょう」
「そうか、それで頭に沢山葉っぱが乗っているのだな!」

煉獄さんの言葉に、時透くんは不思議そうに首を傾げる。どうやら今の今まで自分が葉っぱだらけな事に気付かなかったらしい。二人で髪に絡んだ葉を取ってあげると、時透くんはちょっとだけ恥ずかしそうな顔をする。「…もう大丈夫です」と照れ隠しのように私達の手を避けた。

「じゃあ、僕はこれで」

すい、と霞のように私達の間から抜け出した時透くんが、思い出したようにこちらを振り返る。

「なまえさん、お幸せに。
煉獄さん、約束忘れないでくださいね」
「む?!」

驚いた顔の煉獄さんに、時透くんはくすりと笑って去っていく。「…約束ってなんですか?」私の問いに、煉獄さんは目を見開いたまま答えなかった。





その後、時透くんの切り落とした竹に丁度良い長さの物を見つけた私達は、さっそくその竹を家に持ち帰った。軒端に固定された笹は夕方のぬるい風に揺れ、さらさらと乾いた音を立てている。

「兄上ー!」

煉獄さんと私が笹を見上げていると、弟の千寿郎くんが手を振って歩いてくるのが見えた。こちらも負けじと手を振り返す。今日は三人で七夕の節句を祝うのだ。

「よく来たな千寿郎!途中迷いはしなかったか?」
「はい、大丈夫でした。頼まれていた物もちゃんと持ってきましたよ!」

そう言って、千寿郎くんは小さな風呂敷包みを差し出す。包みの結び目を解くと、そこには色とりどりの七夕飾りがあった。
長寿を表す折り鶴、豊作と大漁を願う網飾り、災いから守ってくれるという紙子。千寿郎くんの丁寧な仕事ぶりに思わず顔がほころぶ。

「とっても可愛い。ありがとう千寿郎くん」

私がお礼を言うと、千寿郎くんは擽ったそうに笑った。可愛い義弟が出来て本当に幸せだ。

それぞれ一枚ずつ短冊を手にとり、願い事をしたためる。どんな願いを書いたかは短冊を飾るまで秘密、と三人で約束した。千寿郎くんが作ってきた飾りを先に括り、「じゃあ、せーので短冊を見せ合いましょう」という義弟の言葉に頷く。

「せーのっ!」

煉獄さんが赤、千寿郎くんが黄色、私は青の短冊をそれぞれ差し出す。黄色と青の短冊には同じ事が書かれていた。

兄上のお身体が早く治りますように 千寿郎=@
煉獄さんのお身体が早く治りますように なまえ

「俺は本当に幸せ者だな」と煉獄さんが嬉しそうに言い、私と千寿郎くんは顔を見合わせる。どちらも心からの願いだった。
「兄上の願い事も見せてください!」千寿郎くんが手にとった赤い短冊を見て、私は小さく息を呑む。

いま一度、炎柱に 杏寿郎

短冊から顔を上げれば、炎と同じ色の瞳と目が合う。やっぱりな、という思いだった。あの日、目を覚ましたその時からずっと煉獄さんは「いつかは鬼殺隊に復帰する」と言っていた。たとえ誰に何を言われても、その決心は揺るがないのだ。
遠い昔を懐かしむように、煉獄さんが短冊を見つめる。

「約束を、思い出したのだ」
「...約束って、時透くんが言っていたあれですか?」
「あぁ、そうだ」

煉獄さんの言葉に、私と千寿郎くんは静かに耳を傾ける。


霞柱・時透無一郎には兄弟がいた。兄の名は時透有一郎。口が悪く、その気性の荒さは鬼殺隊への入隊を誘いに来た御内儀を追い返すほどだったという。
ある暑い夏の晩、開け放たれたままの戸から鬼が入ってきた。必死の抵抗の末、無一郎がなんとか鬼を倒したが、深い傷を負った有一郎は結局助からなかった。
最愛の兄を目の前で亡くした無一郎は、そうして鬼殺隊にやってきた。


「時透が柱になると決まった時、俺は彼の肩を叩いてこう言ったのだ。「柱として共に頑張ろう」と」
「兄上…」

煉獄さんの言葉に、千寿郎くんの瞳が小さく揺れる。刀の色が変わらなかった千寿郎くんにとって、柱である兄は何よりの誇りだった。
柔らかな微笑みを返し、煉獄さんは言葉を続ける。

「今なお鬼と戦っている後輩たちに「あとは頼んだ」と言う事は容易い。しかし、それでは強く生まれた者として示しがつかないと俺は思う。誰に何と言われようと、たとえどれ程時間が掛かっても、命ある限り俺は努力を止めない。必ずや、また炎柱になってみせる」
「…また胡蝶さんに叱られてしまいますね」

苦笑いしながら私が言うと、「その時はどうか一緒に叱られてくれ」と煉獄さんも笑った。きっともの凄く怒られる事だろう。でも、煉獄さんと一緒ならちっとも怖くない。

「僕もっ、僕も蟲柱さまに一緒に叱られます!」
「よもや!それは心強いな!」

赤い短冊を握りしめたまま声を張り上げる千寿郎くんを、煉獄さんが大きな手でわしわしと撫でる。
どうか願いが叶いますように、と三人で短冊を結んだ。



夕飯は千寿郎くんと一緒に厨に立ち、山のように素麺を茹でた。涼しげな硝子皿に小口切りにしたオクラと共に飾り付ければ、見た目も可愛い食べる天の川の完成だ。

「いただきます!」

三人で手を合わせ、つるりと冷たい素麺をすする。煉獄さんの食べる量は現役の頃と比べればかなり少ないが、それでもだいぶ食べられるようになった。

「うまい!やっぱり夏は素麺だな!」
「はい、兄上!」
「ゆっくりよく噛んで食べてくださいね。食後には西瓜が冷やしてありますから」

やったぁ!とはしゃぐ千寿郎くんに、私と煉獄さんは顔を見合わせて微笑む。

笑い声の響く家の遥か頭上、夏の大三角形がきらりと瞬いた。


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