店先に並んだバケツには色とりどりの花が生けられ、春の柔らかな風にそよそよとその花弁を揺らしている。甘い香りを放つそれらの中から特に元気なものを手に取り、「すみません、これをください」と水やりをする店主に声をかけた。
買い求めたのは白・黄・紫の菊の花だ。全部で十本の菊を二束に分けてもらい、代金を支払う。
またどうぞ!という店主の声に見送られて店先に戻れば、そこには早咲きの向日葵とにらめっこをする煉獄さんの姿があった。すぐにこちらに気がついて「なまえ!」と手を挙げるその顔は、まさに花が咲いたような笑顔だ。駆け寄るこちらまでつい笑顔になってしまう。
「お待たせしてしまってごめんなさい!どれにしようか迷ってしまって...」
「気にするな!花の善し悪しは俺にはわからんからな。なまえの選んだ花なら母上も喜ぶだろう!」
そう言うなり、煉獄さんは私の腕からするりと花束を受け取る。それほど重い物ではないとはいえ、病み上がりの煉獄さんに荷物を持たせるわけにはいかない。「私が持ちますから」とすぐさま手を伸ばしたが、「君が持つのはこっちだ」と煉獄さんは花束の代わりに自身の左手を差し出した。
「花を持つ君も魅力的だが、今日はこっちが良い!人通りも多いしな!」
そんな風に言われてしまっては、どうしたって断ることは出来ない。差し出された手におずおずと自分の手を重ねれば、きゅっと優しく包み込まれる。
今日はこれから煉獄さんのご実家に行く事になっている。菊の花を買い求めたのも、煉獄さんのお母様にお供えする為だった。
「こんなふうに街を歩くのは久しぶりだ!」
人の行き交う大通りを歩きながら、煉獄さんが嬉しそうに言う。上弦の参から受けた傷はまだ完治していないものの、ゆっくりとした動作であれば日常生活に支障をきたす事も少なくなっていた。
眼帯を付けた端正な横顔を見上げ、私は口を開く。
「歩き疲れたらすぐに教えてくださいね。「くれぐれも無理をさせないように」って、胡蝶さんからも釘を刺されてるんですから」
「わかっているとも!だが、せっかく屋敷の外に出られたんだ。少しくらいはしゃいでもいいだろう?」
そう言って、煉獄さんが私の指に自身の指を絡める。先程より強く繋がった手がじん、と熱を持った。人通りが多くはぐれやすいとはいえ、人前でこんなに堂々と手を繋いだのは初めてだ。なんだかのぼせてしそうで、思わず煉獄さんから目を逸らす。
「君を家族に紹介出来るこの日を、ずっと楽しみにしていたんだ。俺が羽目を外し過ぎないよう、しっかり手綱を握っていてくれ」
「も、もう煉獄さんたら...!」
そうたしなめつつも、煉獄さんの言葉一つ一つに頬が緩んでしまう。これからご家族に会うというのに、こんなに緊張感がなくて大丈夫かと自分で自分が心配になるくらいだ。きっと私もはしゃいでいるのだろう。
「おーおー、お熱いこったなァ」
にやけそうになる頬を手で押さえていると、後方から聞き覚えのある声が飛んできた。ハッとして思わず手を引っ込めようとしたが、煉獄さんの手がそれを許してくれない。
振り返れば、そこにはつんつんとした白髪の男が着流し姿で立っている。大きく開いた襟元から覗く痛々しい傷跡。風柱の不死川実弥さんだった。
「おぉ、不死川ではないか!こんな所で会うとは奇遇だな!」
はつらつとした煉獄さんの言葉に、不死川さんは「ハッ」と吐き捨てるように笑う。
「今日は久々の非番でな。たまにゃあ街でもと思っただけだァ。...それにしても、随分と元気そうじゃねぇか。アァ?炎柱さんよォ」
そう言うと同時に、鋭い双眼がじろりと煉獄さん、次いで手を繋いだ私へと向けられる。血走った目からは敵意こそ感じなかったが「これが噂の煉獄の女か」と品定めされているような気がした。
あまりの威圧感に思わず首をすくめたが、相手は煉獄さんと同じ柱だ。小さく頭を下げれば、不死川さんは興味なさげにフンと視線を逸らした。
煉獄さんに向き直り、イライラとした様子で口を開く。
「たまの逢い引きも結構だが、身体が治ったならさっさと復帰しろよなァ。テメェのがいないとせっかくの柱合会議もまとまりゃしねェ。相変わらず冨岡の野郎はいけすかねェしよォ」
そう言いながら不死川さんはガシガシと頭を掻く。水柱である冨岡さんの言葉足らずは、鬼殺隊士なら誰でも知っている有名な話だ。短気で義理堅い不死川さんにとって、冨岡さんの不言実行はさぞ癇に障るのだろう。
「むう!君と冨岡が仲良くするのが一番だが、必要とされていることは素直に嬉しいぞ!一刻も早く復帰できるよう善処しよう!」
「おー、よろしくたのまァ」
投げやりな返事をした不死川さんの目が、ふと煉獄さんの抱えた花束に留まる。瞬間、その鋭い瞳がほんの少しだけ憂いを帯びた気がした。
「...誰かの墓参りか?」
薄い唇から出た言葉は、春風に乗って消えてしまいそうなほど静かだ。少し意外に思いながらも、そのまま二人のやり取りを見守る。
「うむ!今日はこれから実家に帰ろうと思っていてな。母の仏前に供えようと、つい先程なまえに選んでもらったのだ!」
「...そうかィ」
先ほどより幾分か和らいだ瞳が、再び私を見据える。「お前、なまえっつったか」とぶっきらぼうに名前を呼ばれ、私は思わず姿勢を正した。
「は、はい!」
「もしこれから手土産を買うつもりなら、この先にある《きめつ庵》に行くといい。そこそこ美味いもん揃ってるぜ」
「え?あ、はい!」
何を言われるかと思えば、風柱が口にしたのは聞き覚えのある和菓子処の名前だった。雛祭りの日の夜、甘露寺さんと伊黒さんが買ってきてくれた見た目も可愛らしい桜餅。あれもたしかきめつ庵のものだったはずだ。礼を言って頭を下げれば、不死川さんは「気にすんなァ」とつまらなそうに言う。
「仏さんに供えるのはおはぎって相場が決まってんだろ。しっかりゴアイサツしてこいやァ」
そう言い残して、不死川さんはさっさと歩いて行ってしまう。「また会おう不死川!」と叫ぶ煉獄さんに、不死川さんはひらりと後ろ手で手を振った。
▽
右に煉獄さん、左にきめつ庵の包みを手に、大通りを抜ける。もとは武家屋敷だったのだろう、大きな屋敷が立ち並ぶ通りを二人で歩いていると、ひと際立派なお屋敷の前に一人の少年が立っているのが見えた。
竹ぼうきで懸命に枯葉を集める少年に、私は思わず「あっ」と声をあげる。その横顔があまりにも煉獄さんに似ていて、狐にでも化かされたのかと思った。
「千寿郎ー!」
煉獄さんが花束を持った手を振って叫べば、少年―煉獄さんの弟である千寿郎くんがハッと顔を上げる。くりくりとした大きな目が煉獄さん、次いで隣の私へと向けられ、幼さを残す顔にぱっと笑みが広がった。ご家族との初対面に、私にもやっと緊張感が戻ってくる。
「お帰りなさい兄上!それからなまえさん、ですよね?」
「はい。みょうじなまえと申します。はじめまして」
私の言葉に、千寿郎くんは「お待ちしていました」といっそう笑顔になる。八の字に下がった太い眉が可愛らしかった。
「はじめまして、煉獄千寿郎です。兄の手紙はなまえさんのことばかり書いてあって、お会いできる日をずっと楽しみにしていました」
「兄を支えてくださってありがとうございます」と千寿郎くんは丁寧に頭を下げる。あまりの礼儀正しさにこちらが恐縮してしまうほどだ。
「そんな、私はなにも...!むしろ私が煉獄さんに助けて貰っているばかりです!」
「ふふっ、お話したい事が沢山あるんです!立ち話もなんですから中へ入りましょう。さぁ、どうぞ」
「相変わらずしっかりしているな千寿郎!良い弟を持って俺は幸せだ!」
ニコニコと笑い合う煉獄兄弟に続いて、私も大きな門をくぐる。どちらが年上かわからない二人のやりとりに、私もつられて笑顔になった。
手土産のおはぎを差し出すと、千寿郎くんはとても喜んでくれた。「私も食べていいんですか...?」と目を輝かせ、慣れた手つきでお茶まで用意してくれる。ぱくり、おはぎにかぶりついた千寿郎くんが「とっても美味しいです...!」と言ってくれたので、良いお店を教えてくれた不死川さんに心の中で感謝した。
「ところで千寿郎、父上はどうした?」
五つのおはぎをぺろりと平らげた煉獄さんが、六つめに手を伸ばしながら問いかける。その言葉に、千寿郎くんはおはぎを持ったまましょんぼりと項垂れた。
「実は、お酒を買いに出て行ってしまいました...。兄上となまえさんがもうすぐいらっしゃるから、と一応止めたんですが...」
申し訳ありません、と頭を下げる千寿郎くんの頭を、煉獄さんがぽんぽんと撫でる。
「千寿郎のせいではないから気にするな!ならばまず母上に挨拶に行くとしよう!」
なまえこっちだ、と言う煉獄さんについて廊下を歩いていくと、広々とした庭が見渡せるお座敷に案内された。部屋の隅には細やかな細工が施された立派な仏壇が置かれ、辺りにはしんと神聖な空気が漂っている。仏壇に埃一つ積もっていないのは、きっと千寿朗くんが毎日のように綺麗にしているからだろう。煉獄さんの手から花束を受け取り、花立てに菊を生ける。
小皿に乗せたおはぎも一緒に供え、まずは煉獄さんが仏壇の前に座す。線香に火を点けてリンを鳴らすと、手を合わせて目を閉じた。
「母上。杏寿郎、ただいま帰ってまいりました。俺の...−」
一呼吸置き、煉獄さんが再び口を開く。
「俺の大切な人も一緒です。必ず守ると誓います。どうか、母上も見守っていてください」
煉獄さんの言葉一つ一つに、目頭がじんと熱くなる。
無限列車での戦闘直後、極限状態にあった煉獄さんはお母様に会ったという。お母様―...瑠火さんは、煉獄さんが立派に責務を果たしたことを褒めると同時に「しかし、好いた女性を守るのも、強く生まれた男の責務です」と息子を現世に送り返した。
煉獄さんと場所を入れ替わり、今度は私がリンを鳴らす。目を伏せ、胸の前で手を合わせた。
―煉獄さんを私達のもとに帰してくださりありがとうございました、と。
―不束者ですがよろしくお願い致します、と。天国のお母様に届くよう、強く強く願う。
「ありがとう、なまえ」
煉獄さんの大きな手が、私の肩に触れる。その手が今なおあたたかい事に、私は深く感謝した。「こちらこそ、お母様に会えて嬉しいです」そう言えば、煉獄さんが嬉しそうに目を細める。本当ならお墓参りもしたいところだが、それはまた別の機会に行くことになった。
「さて、これで母上へ挨拶も終わったな!」
報告を終えた安堵もあったのだろう。大きく伸びをしながら、煉獄さんが口を開く。
「とは言え、父上が返ってくるまで何をして過ごそうか。剣の稽古はまだ胡蝶から止められているしな...」
「あっ、兄上!」
部屋の隅で成り行きを見守っていた千寿郎くんが、思い立ったように声をあげる。
「なまえさんがいらっしゃったらやりたいことがあったんです!少しだけ、なまえさんをお借りしてもいいですか?」
「え、私ですか?」
突然の指名に困惑しつつ、私は千寿郎くんを見つめる。何が何だか解らないものの、しっかり者の千寿郎くんが危険な事をさせるとも思えなかった。
いいですか?と目で問えば、煉獄さんは「なまえが構わないなら俺も構わない!」と頷く。大好きな兄の同意も得られて嬉しかったのだろう、千寿郎君の顔がぱっと華やいだ。
「良かった!なまえさん、こっちです!」
千寿郎くんに手を引かれ、私は仏壇の間を後にする。位牌に向かって微笑む煉獄さんの横顔を、私は一生忘れないだろう。
*
「なまえさん、準備はいいですか?」
「あ、はい!大丈夫だけど、本当にいいのかな」
「勿論です!さ、さ、こちらへどうぞ。兄上も待っていますから!いきますよ、せーのっ」
じゃーん!という声とともに、千寿郎くんが障子を引く。もう何個目かわからないおはぎを手にした煉獄さんが、私を見て「おぉ!!」と声をあげた。
ここに来るまでに着ていた桜色の色無地を脱いだ私は、今は萌黄色の小紋を身に付けていた。薄緑に白の小花が散った柄は上品でありつつ爽やかで、気温が上がるこれからの季節にもピッタリだ。
千寿郎くんがやりたかったこと。それは、私にお母様の着物を着せる事だった。
「母上の着物か!また随分と懐かしい物を見つけてきたな!」
よく似合う!という煉獄さんの言葉に、私は顔を赤らめる。褒められるのは勿論嬉しいが、人様の家で着物を着替えるのはなんだか落ち着かなかった。
「箪笥の整理をしていたら出てきたので、悉皆屋さんに相談して綺麗にしてもらったんです。他にも沢山あるんですよ!」
そう言って、千寿郎くんは別の着物を私の肩に掛ける。今度の着物は藤色の訪問着だ。これもこれもと出てくる着物はどれもシミひとつない綺麗なものばかりで、私は千寿郎くんの進めるままに着物を羽織ったり脱いだりした。
「父には捨てろと言われましたが、私にはどうしても出来なくて...。兄上が見たらきっと喜ぶと思ったのです。私は殆ど覚えていないけれど、兄上の方が母上と過ごした時間は長いから」
「...そうか。兄のためにありがとうな」
そう言って、煉獄さんはくしゃりと弟の頭を撫でる。「なまえも、ありがとう」煉獄さんの言葉に、私は笑顔で首を横に振った。お母様の着物に袖を通すのは畏れ多いが、煉獄さんと千寿郎くんが喜んでくれるならなんだってしてあげたい。
「なまえさん、次はこれを...」
千寿郎くんが山吹色の紬に手を伸ばした、まさにその時だった。
ガラリ、と玄関の引き戸が開く音がして、私達三人はハッと顔を見合わせた。きっと煉獄さんのお父様が帰ってきたのだろう。慌てて部屋を片付け、すぐに玄関に向かう。
玄関で下駄を脱ぐお父様を見て、私はまたも「あっ」と声をあげそうになる。髪の色、眉の形、大きな琥珀色の瞳に至るまで、お父様もまた煉獄さんとそっくりだった。否、煉獄さんがお父様に似ていると言ったほうが正しいのかもしれないが、さすが名門煉獄家。その血の濃さに呆然としそうになる。
「父上!お帰りなさいませ!」
煉獄さんが大きな声で出迎えれば、お父様はぎくりと身じろぎする。「杏寿郎...」と答えた声は小さく、大怪我を負った息子との再会にどんな顔をしていいのかわからないようだった。
しかし、煉獄さん自身はそんな父を気にする風でもなく、いつも通り声を張り上げる。
「お久しぶりです!千寿郎からすでに聞いているかと思いますが、今日は俺の大切な人を連れて参りました!なまえです!」
「はじめまして、みょうじなまえと申しま...」
煉獄さんに続いて口を開けば、ガシャン!という大きな音にそれを遮られる。音がした方に目をやると、お父様が持っていた酒瓶が粉々になって玄関に散らばっていた。手が滑って落としてしまったのだろうか。つんとした酒の匂いがこちらまで漂ってくる。
「―...る、か」
無精ひげにふちどられた薄い唇から、亡き妻の名前が漏れる。既に酔っているのだろう、酒で濁った瞳が信じられない物を見るように私を見ていた。お母様の着物を着た私を、亡くなった恋女房と見間違えているのだ。
「父上!大丈夫ですか?!」
千寿郎くんの言葉に、お父様はハッとして我に返る。粉々となった酒瓶と濡れた着物に視線を落とし、「あ、あぁ」と生返事をした。「なにか拭くものを持ってきます!」と言う千寿郎くんを押しのけ、「...着替えてくる」とよたよたと廊下を歩いて行ってしまう。
「...大丈夫でしょうか」
千寿郎くんの言葉に、私と煉獄さんも顔を見合わせる。「とりあえず、部屋で待ってみよう」という煉獄さんの言葉に従い、私たちは玄関を後にした。
居間へ戻り、三人でおはぎを食べながらお父様を待つ。煉獄さんが四つ、千寿郎くんが二つのおはぎを完食した頃、やっと廊下から足音が聞こえてきた。そろりと開いた障子の隙間から、着換えたお父様が現れる。「これ、兄上となまえさんが買ってきてくれたんですよ」と千寿郎くんがおはぎを差し出したが、一瞥しただけで手を付けようとはしなかった。
「...あの」
私が口を開けば、三つの同じ顔が一斉にこちらを向く。一瞬ギョッとしたものの、なんとか言葉を続けた。
「先ほどは驚かせてしまい申し訳ありませんでした。奥様の大切なお着物までお借りしてしまって...」
千寿郎くんの願いとはいえ、この着物はお父様の思い出の品でもあるはずだ。手をついて頭を下げれば、お父様が「あ、あぁ」と口を開く。呼気にはまだ酒臭さが残っているものの、意識ははっきりしているようだった。
「いや、こちらこそ挨拶も碌にせずすまなかった。客人に見せていい態度ではなかったな」
しかめ面ではあるものの、その声は思っていたよりずっと穏やかなものだった。「みょうじなまえと申します」と改めて自己紹介をすれば、お父様も「二人の父だ。槇寿郎という」と名乗ってくれる。
煉獄さんと同じ大きな瞳が、私の事を見つめる。「着物、か...」寂しいような、なにかに憤っているような、そんな声が漏れた。
「着物は...、随分前に千寿郎に捨てさせたから、もう無いと思っていた」
畳に視線を落とすお父様に、私は静かに続きを待つ。
「杏寿郎から聞いて知っているかもしれないが、瑠火...、俺の妻は病弱でな。一緒に外を歩いたり出来ない分、なんとか喜ばせたくてよく物を贈った。君が今着ているその着物も、俺が妻に送ったものだ」
お父様の言葉に、私だけでなく息子二人も驚いた顔をする。そんな話を聞いたことは無かったのだろう。自分たちの知らない父と母の物語に、静かに耳を傾ける。
「結局ほとんど着る機会もないまま、妻はこの世を去った。妻が息を引き取った時、俺は任務でな。傍にいることも出来ず、家に戻ってからは遺品を見るのも嫌で箪笥の中に放り込んでしまった。...まさか千寿郎が捨てずにとっておいたとはな」
「...すみません。父上の気持ちも知らずに、私は...」
大きな目からぽろぽろと涙を零しながら、千寿郎くんが頭を下げる。幼い弟をかばおうと煉獄さんが口を開いたが、お父様は手を挙げてそれを制した。
「解っている。千寿郎が杏寿郎を思ってやったことだろう。もういい。こういうのもなんだが、おかげで俺も目が覚めた」
節くれだった手で顔を擦り、お父様はハァ...とため息を吐く。無精ひげに手をやったまま「杏寿郎」と煉獄さんを呼んだ。
「幸せにする覚悟はあるのだろうな」
途端、辺りの空気がびりびりと震え、頬が焼ける様にひりついた。声ひとつで空間を支配するほどの力。これが元炎柱の本気なのかと、首筋を汗が伝った。
しかし、煉獄さんも負けてはいない。大きな瞳に炎を宿し、父の言葉に食らいつく。
「はい。彼女に救われたこの命、最後まで彼女のために燃やすと誓います」
「...二言はないな」
「はい」
ならいい、という言葉と同時に、部屋に穏やかな空気が戻ってくる。安心したのだろう、はー...と千寿郎くんの肩から力が抜けた。
「なまえさん」
「はい」
お父様の呼び掛けに、今度は私が答える。
「...これからも杏寿郎を頼む」
義父の言葉に、私は静かに頭を下げた。
▽
「緊張しました...」
とっぷりと日の暮れた帰り道。手を繋ぎながらそう零せば、行灯を持った煉獄さんはハッハッハ!と豪快に笑い声をあげた。「笑い事じゃないんですけど...」と軽く睨んだが、「いや、すまない!ついな!つい!」となおも煉獄さんの笑いは止まらない。
あの後、私たちは千寿郎くんが作った料理で早めの夕餉を共にした。おめでたい席だということもあったのだろう。早々に酔ったお父様が「それで、子供はいつ作るんだ」と言い出し、千寿郎くんと私は同時にお茶を吹きだした。
「なっ、なんてことを仰るんですか父上!兄上の怪我だってまだ治りきっていないというのに...!」
千寿郎くんがたしなめたが、酔いの回ったお義父様は止まらない。
「大事な事だろう!そもそも未婚の男女が一つ屋根の下にいることの方が問題なのだ!祝言でもなんでもさっさと挙げてしまえ!」
「うむ!一刻も早く父上のご期待に沿えるよう善処します!」
と、てんやわんやの大騒ぎだった。
「認めてもらえて良かった」
煉獄さんの言葉に、私も深く頷く。
「ここに置いておくといつか酒代になってしまうから」という理由で、お義母様のお着物は私が譲り受ける事になった。あんな話を聞いてしまった後で頂くことは出来ないと最初は断ったのだが、「君が着てくれた方が妻も喜ぶ」とお義父様に言われ、ありがたく頂戴することにしたのだ。
今日あった出来事を一つ一つを思い出しながら、私は着物の襟に手を置き、幸せを噛みしめる。
着物に散った白い花柄は、きっとドウダンツツジだろう。漢字では灯台躑躅、満点星とも書く。鬼殺隊に身を置く私たちの行く先はきっと平坦なものではない。それでも、この着物の持ち主が、きっと明るい未来を照らしてくれる。
「怪我、早く治しましょうね」
「あぁ!皆のため、なまえのため、子供のためにな!」
「それはまだいいです...」
二人の頭上高くに、満天の星が煌めいていた。