桶になみなみと湯を張り、その中に手拭いを沈める。布が湯をたっぷりと吸い込んだのを見計らって引きあげると、今度は硬く絞って広い背中に当てた。
熱い手拭いが気持ちいいのだろう。はぁ...、と煉獄さんが息を吐き出す。

「傷にしみませんか?」
「大丈夫だ。気持ちがいいぞ」
「それはよかったです」

手拭いを当てては絞り、また当てては絞りを繰り返す。身体中に走る傷跡に心を痛めながらも、がっしりと筋肉をまとった背中を上から下へと順々に清めていった。

上弦の鬼との戦闘で負った煉獄さんの傷は、少しずつ完治に向かっていた。
最近は胡蝶さんの指導のもと、身体を動かす訓練も始まっている。朝の清拭を済ませた後、二人で蝶屋敷の道場へと向かうのが日課になりつつあった。
なほちゃん、きよちゃん、すみちゃんに支えられながら壁伝いに歩く煉獄さんは、まるで三人のお兄さんのようだ。
わあわあと楽しげに訓練に励む四人を見守っている時だった。

「よぉ、調子良さそうじゃねぇか煉獄」
「むっ、宇髄か!」

いつの間に隣にいたのだろう。声の主は、元音柱の宇髄さんだった。上背の大きさを感じさせない気配のなさは、さすが忍の里出身というところだろうか。
この方もまた吉原の戦いで負傷し、現在は柱を引退している。ゆったりとした着流しの懐に手を差した宇髄さんは、端正な顔に悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

「おう、その様子だと完治は近いな」
「うむ!皆のお陰で随分良くなっている!一日も早く柱に復帰し、一体でも多くの鬼を倒さねばなるまい!」
「相変わらず真面目なこった。まぁ、完治したら一丁ド派手に快気祝いでもするか」

なんでも派手が好きな宇髄さんらしい言葉に、煉獄さんの顔にも笑顔が浮かぶ。「ならばより励まねばならんな!」と、三人娘と一緒にまた歩き始めた。
煉獄さんの視線が逸れた瞬間を見計らっていたように、宇髄さんが私をコツンと小突く。

「...なまえよぉ。いつになったら俺の四人目の嫁になるんだ?」
「そんなお話を聞いたことは、これまで一度もありませんが...」
「ハッ!そんなに煉獄が好きか」
「うっ...!」

どうして柱の方々は、こういとも簡単に人の心の内を読むのだろう。私が顔に出しすぎるのだろうか。
思わず言葉に詰まると、宇髄さんが大袈裟に顔を顰める。

「お前ら、もうやることはやったのか?」
「っ...宇髄さん!!何てことを仰るんですか!」
「まだなのかよ。煉獄も意外とむっつりだな。病み上がりとはいえ、据え膳食わぬは何とやらだぜ」

宇髄さんが懐から手を抜き、こちらに何かを差し出す。訝しみながらも受け取ると、それはろう紙に包まれた

「...石鹸?」
「おう。お前にやる」

ころりとした丸い石鹸から、甘い花の香りがふわりと香った。



明治二十三年。それまで輸入に頼っていた石鹸が日本国内でも生産されるようになった。
しかし、いざ作られた石鹸の品質は外国のそれには遠く及ばなかった。やっと商品化したものも、庶民には手の届かない高級品だったという。
その後、時代の流れとともに工場の機械化と大量生産が進んだことで石鹸は安価になり、やっと庶民にも身近な衛生用品となった。

しかし、手の中にある石鹸はそれらの量産品とは違うようだ。丸みを帯びた形はよく見れば薔薇の花を模しており、匂いも格段に良い。

「これ、どうなさったんですか?」
「花街にいた鯉夏という花魁が「鬼退治の礼に」とくれた。俺も嫁も一線を退いたとはいえ、もとは忍だからな。派手な匂いのもんはなんとなく身体が受け付けねぇのよ」
「でも、それなら一緒に頑張った炭治郎くん達にあげたほうが...」
「野郎に物をやる趣味はねぇ」

キッパリと言い放たれ、それ以上二の句が告げなくなってしまう。どうしたものかと逡巡していると、宇隨さんがより一層意地悪に笑った。

「花魁御用達の石鹸だ。それであのむっつり助平を悩殺してやれ」
「悩殺って...」
「脳を殺す!派手な響きで良いな!」

呆れるこちらを他所に「ハッハッハ!」と高笑いをあげ、宇隨さんは一人満足そうに道場を去っていった。





「はぁあ〜...」

日が沈み、気温がぐんと下がるこの季節。一日の仕事を終え湯船に浸かると、思わず気の抜けた声が出た。
ちらりと洗い場の方に目をやり、なんとなく逸らす。しかし、自分でも気付かぬうちにまた目をやってしまい、罰が悪くなった。
洗い場の手拭いの上には、宇隨さんから貰ったあの石鹸がある。

“あのむっつり助平を悩殺してやれ”

宇隨さんの言葉が、何度打ち消しても頭から離れない。
煉獄さんのことをむっつり助平だなんて思ったことは勿論ない。しかし、最近触れることも触れられることも増えて心がモヤモヤするのも事実だった。

(あぁ、もう!)

湯船から上がり、石鹸を手に取る。濡れた身体に滑らせると、甘い香りの泡が全身を包んだ。



風呂からあがり自室に戻ろうとすると、暗い廊下を誰かが歩いている気配がした。もう随分遅い時間だ。誰だろうと暗闇に目をこらすと

「...煉獄さん!?」
「よもや!見つかってしまったか」

壁に手をつき、ゆっくりとこちらに歩いてくるのは、既に床に入ったはずの煉獄さんだった。

「どうされたんですか?お休みになったのでは...」
「なんだか目が覚めてしまってな。少し身体を動かせば眠気が来るだろうと思ったのだが、」

なまえが先に来たな!と煉獄さんが笑う。
目が覚めて...と本人は言っているが、きっと本心ではない。一刻も早く柱に復帰するため、隠れて自主練習をしていたのだ。気持ちがわかる分、怒る気も失せてしまう。

「...お身体が冷えます。お部屋に戻りましょう」
「そうだな!もう寝るか」

煉獄さんの手をとり、逞しい身体を支える。ゆっくりとした歩調で部屋に戻り、布団に横たわらせた。

「すまないな、なまえ」
「いいえ、おやすみなさい」

布団をかけようと腕を伸ばした時だった。煉獄さんがその腕を掴み、ぐんと引き寄せたのだ。あっ、と思った時には、既に煉獄さんの腕の中だった。ふわふわの髪が頬にこそばゆい。

「俺のせいでなまえが湯冷めしてしまったな」
「えっ」
「責任をとって温めさせてくれ」

冷えた足に煉獄さんの足が絡まってくる。
なんという暴論だろう。しかし、こうなる事を望んでいる自分がいる。
逞しい腕が腰にまわり、強く抱きしめられた。

「甘い匂いがするな」
「っ...!」

首筋に顔を埋められ、思わず声をあげそうになる。ちゅ、ちゅ、と肌を吸われる感覚は未体験で、出そうになる声を唇を噛んで耐えた。
いっぱいいっぱいの私がおかしかったのだろう。大きな手が背中を撫で、肌から唇が離れる。

「風邪をひいては困る。今夜はここで俺と共に寝たらいい」
「えっ!あの...」
「...風邪を引いた君を、今度は俺が“ふーふー、あーん”してあげても良いが」

うっ...、と言葉に詰まってしまう。
あれはするのもされるのも恥ずかしいのだ。

「...早く全快したいものだ」

肩口に顔を埋め、胸いっぱいに甘い香りを吸い込んだ煉獄さんが言う。

「でないとまぐわいも満足に出来ん」
「煉獄さん!!!」
「よもや、心の声が出てしまった!」

さぁ、おやすみ。と大きな手が髪を梳き、渋々目を瞑る。とても眠れそうになかったが、煉獄さんの身体から伝わってくる心地よい鼓動にいつの間にか寝入っていた。


規則正しい呼吸を繰り返すなまえの髪を、さらさらと指で掬う。絹糸のように音もなく落ちる髪をまた掬っては落としながら、杏寿郎は昼間の事を思い出していた。

宇髄がなまえになにか渡しているのは知っていたが、まさか石鹸だとは思わなかった。宇髄の事だ。なかなか進展を見せないこちらに親切半分、揶揄い半分という所だろう。

「...自分から言ったは良いが、これでは生殺しだな」

一人呟き、身体の熱を持て余しながら自身も目を閉じる。文字通り色香を放つ愛おしいなまえを、朝目覚めるまで夢の中で何度も抱いた。




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