「...、んっ」
洗濯物を干す手を止め、ぺろりと舌を出して唇を舐める。ピリッという痛みと共に鉄に似た味が口内に広がり、思わず顔を顰めた。
「一度なっちゃうとなかなか治らないんだよなぁ...これ」
洗いたての手ぬぐいを物干し竿に掛けながら、ため息まじりに独り言ちる。
今年も、唇が乾燥する時期がやってきた。
天高く馬肥ゆる秋。空は抜けるような青空で、からりとした風に洗濯物が良く乾きそうだ。
しかし、そんな気持ちの良い天気とは対称的に、私は暗い溜息をついた。
気になってついつい舐めてしまうのだが、そうすると余計に傷が悪化してしまう。喋る時も食べる時も唇にピリピリとした痛みが走るのは、毎年地味に苦痛だった。
しかし、これでも鬼殺隊の端くれ。鬼との戦闘や修行で負う傷に比べれば、唇の小さな亀裂なんてかすり傷以下だ。こんな事で蝶屋敷を訪ね、「なにか薬をください」と言うのも申し訳ない気がする。
洗濯物を干し終え、どうしたものかと考えながら廊下を歩いていると、曲がり角でなに柔らかい物にぶつかった。
「わっ...!」
まるで大きな水風船にでもぶつかったかの如く、ぐらりと体勢が崩れる。
「きゃ!?ごめんなさい!」
寸での所で尻もちをつかずに済んだものの、目の前に広がる胸元にギョッとした。自分のものと比べると、その大きさの違いに悲しくなる。
大きく開いた隊服、いまにも零れ落ちそうなたわわな胸に、桃と若草の明るい三つ編み。
私を抱きとめたのは恋柱・甘露寺蜜璃さんだった。
「甘露寺さん...!申し訳ありません、お怪我はありませんか?」
本来なら隊員である自分の方が道を譲らなければならないのに、なんて失礼な事をしてしまったのだろう。
しかし、当の恋柱はそんなことを全く気にしていないようだった。
「私こそごめんね...!なまえちゃんの方こそ痛い所はない?私、力が強いから...」
「全然大丈夫です。考え事をしていたもので...申し訳ありません」
深く頭を下げると「そんなに謝らないで!」と甘露寺さんが慌てて手を振る。
「私も考え事してたの!今日の晩ご飯は炊き込みご飯がいいな〜なんて...えへへ。なまえちゃんは何考えてたの?」
「え?私は...、私は...えっと...」
まさか柱である彼女に「唇が切れて痛いんです」とは言えず、もごもごと口ごもってしまう。なんと言うべきか逡巡していると、
「あぁ!!なまえちゃん、血が出てる!!」
ガシッと顔を捕まれ、思わず「ふぁ?」と情けない声が出た。若草色の大きな瞳が、私の唇を凝視する。
「きゃー!どうしよう!?私がぶつかった時に切れちゃったのかな...?!せっかくのなまえちゃんの可愛い唇が...!ごめんなさい...!」
「ちが、甘露寺さん、誤解です...!」
「どうしよう...!どうしよう...!」
半べそで繰り返す甘露寺さんに、こちらの頭の中まで「どうしよう」でいっぱいになってしまう。
結局、これまでの経緯を全て話す事になってしまった。
▽
「よかった〜!私が怪我させちゃってたらどうしようかと思った〜!」
ぎゅう!と抱きつかれ、その力強さにびっくりする。さすが煉獄さんの元継子、常人の八倍の筋力と言われるだけはある。
ぽかぽかとあたたかい縁側に並んで座りお茶とお菓子を囲むと、ちょっとした女子会のようになってしまった。
「そういう事なら、なまえちゃんに良い物あげる!」
「良い物?」
ごそごそと羽織の袖をまさぐり彼女が取り出したのは、小さな貝殻だった。
美しい花模様が描かれた貝殻を受け取り、そっと蓋を開けてみる。
中には薄紅色の艶々したものが入っていた。
「紅...ですか?」
「しのぶちゃん特製の保湿もできる紅なの!これからの時期とっても重宝するんだ〜!蜂蜜とか薬草とか自然な物を使ってるから、誰でも安心して使えるのよ!」
「でも、せっかく胡蝶さんが甘露寺さんにくださった物を私が頂くわけには...」
「大丈夫!しのぶちゃんには私からちゃんと言うし、私がなまえちゃんに貰って欲しいんだから!」
「しかし...、」
「なまえちゃん」
ぐんと低くなった声に、思わず息を飲む。
真剣な表情で手を握られると、女同士であるはずなのに胸がドキドキした。
「私、なまえちゃんともっと仲良くなりたいの...。勿論、なまえちゃんが嫌じゃなければだけど...」
「そんな、嫌だなんて思ってません!」
私の言葉に「よかった〜!」と表情を和らげた甘露寺さんだったが、その表情は長続きしなかった。目を伏せ、ぽつぽつと言葉を続ける。
「ただでさえ鬼殺隊は女の子少ないし...。こんな事言うとアレだけど、明日には会えなくなっちゃうかもしれないでしょ?だから私、一日一日、その時その時のときめきを大切にしたいんだぁ」
それは、鬼殺隊なら誰もが痛いほど理解出来る言葉だった。
今日笑顔で話した相手が、次の日にはいない。
そんなことが日常茶飯事なのだ。
柱と隊員。立場は違えど、私の事を友達のように慕ってくれている甘露寺さん。煉獄さんの継子だった彼女にとっても、師範瀕死の知らせは恐ろしいものだったはずだった。
そっとその背を撫でると、甘露寺さんの顔にやっといつもの笑顔が戻った。花が咲いたような笑みに、こちらもつられて微笑む。
「それにね、女の子はいつだって元気で可愛くなきゃ!なんと言っても、素敵な殿方は素敵な女の子が好きだもの。うじうじしてる暇なんてないの。ほら、こっち向いて!」
綺麗な薬指が貝殻から紅をすくい、私の唇をそっと滑る。乾いた唇が潤い、傷の痛みが和らいだ気がした。
紅をさした私を見て、甘露寺さんが歓声をあげる。
「はぁあ〜、なまえちゃん可愛い!すっごく可愛い!本当に可愛いから使って!も〜可愛いぃ〜!」
「ほ、褒めすぎです...!」
可愛いを連発され、自分でもわかるほど耳まで赤くなってしまった。
▽
「すみません、遅くなりました」
「なまえか!気にするな、ちょうど本を読み終えた所だ」
湯気が上がる粥を持って部屋を訪ねると、煉獄さんは大きな目をより大きく見開いて私のことを迎えた。元気そうなその姿に、心の中でホッと息をつく。
あの後もすっかり甘露寺さんのペースに嵌ってしまい、気がつくと昼になっていたのだ。
食事をしやすいように煉獄さんの上体を起こし、背中に枕や座布団を詰める。未だ包帯だらけの大きな手に、粥の入ったお椀を差し出した。
「今日は玉子粥です。熱いのでお気をつけて」
「...、う〜ん」
いつもなら「うむ!」と元気な返事と共にお椀を抱え、「もっとゆっくり!」というこちらの言葉を気にも止めずお粥を平らげる煉獄さんだ。
しかし、今日はじっとこちらを見つめてくる。
どうしたのだろう。もしや体調が良くないのではないかと、胸が黒くざわついた。
「もしかして、何処か具合が?」
「いや、身体は日に日に良くなっているし、体調に問題は無い!」
いつも通りのハキハキとした受け答えに、思わず拍子抜けしてしまう。体調が悪い訳では無いらしい。では、なぜ粥を受け取ってくれないのだろう。どうしようかと逡巡していると、煉獄さんがにっこりと笑った。
「“ふーふー”」
「はい?」
「“ふーふー、あーん”がいい!」
「......」
ニコニコと笑う煉獄さんに「...なるほど」と合点が行く。
煉獄さんは怒っている。というより拗ねている。
「気にするな」と言いつつ、自分を半日も放ったらかし、食事まで遅れた部下をわざと困らせて楽しんでいるのだ。
確かに、無限列車から帰還した直後は、満身創痍の煉獄さんに対し自ら“ ふーふー、あーん”をした事もあった。
しかしそれはあくまで看病の一環であったはずだ。
“俺に毎日味噌汁を作ってくれないか”
煉獄さんにそう言われたのは、まだ記憶に新しい。これまで睦言を交わしたことのなかった二人の仲が、あの一言で急展開を迎えていた。今の私にとって“ふーふー、あーん”はとても勇気のいる行動だ。
「......今日だけですよ」
「うむ!」
元気な返事にため息をつきそうになりながら、覚悟を決めて匙を手に取った。
玉子でとろみのついた粥は、時間が経ってもなかなか冷めない。一口分をすくい上げ、湯気の上がる粥にふー、ふー、と息を吹きかけた。
そんな私を見る煉獄さんはとても楽しそうだ。恥ずかしいのであまり見ないで欲しいと思いながら、息を吹き続ける。
そろそろ食べやすい温度になっただろうか。「はい、あーん」と私が匙を持ち上げた、まさにその時だった。
ちゅ。
唇に、柔らかいものが重ねられた。ほんの一瞬、しかし永遠にも感じられたその行為に、からんと手に持っていた匙が落ちる。
大きな瞳が嬉しそうに細められるのを、ぽかんと見つめる。
顔が離れてからも、何をされたか理解するのにたっぷり十秒を要した。
「〜〜〜っ!な、何をしてるんですか!人が一生懸命お粥を冷ましてる時に...っ!」
「いや、ついな」
「つい...!?」
「あんまり怒ると、折角の紅が台無しだ」
「...!」
「とても似合っている」
振り上げた拳が、空中でわなわなと震える。
これまで、それほど自分の身なりに興味を持ったことはなかった。化粧も最低限で、相手を不快にさせなければ、清潔であればそれでいいと思っていた。
しかし、今日の甘露寺さんの言葉で、それらが一変してしまった。
“素敵な殿方は素敵な女の子が好き”
いつもと違うと気付いて欲しくて。
少しでも可愛いと思って欲しくて。
元は唇の乾燥と痛みを和らげるためのものだった。しかし、淡く色付いたその薄紅を差した瞬間、自分も一人の女である事に改めて気付かされた。
拳を下ろせば、包帯だらけの大きな手がそっと頬を撫でる。指先が唇をなぞり、あっという間に耳まで赤くなった。
「もう一度してもいいか?」
「...、駄目に決まっています」
「まぁ、そう言うな」
咎めても、また唇が重なる。
軽く、深く、強弱をつけながら角度を変えて。
紅が煉獄さんの唇に馴染むを感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。
唇の痛みさえ忘れるほど、蕩けるように甘い口付けだった。