血の気が引く。
その言葉の本当の意味を、私は初めて理解した。


産屋敷の庭にある井戸の水は、まるで雪解け水のように一年中冷たい。
鬼や一般人に見つからないよう、幾重にも隠された里であることも関係があるのだろう。普段から生活用水として使っているその水は、どこか特別な力を秘めているような気がしてならない。
聞けば、蟲柱である胡蝶さんも、この水で薬や毒を調合しているという。

「人の身体の多くは水分ですから、良い水は良い身体を作るとしのぶ様が仰ってました。薬の調合だけでなく食事の煮炊きにもいいですよ」

そう教えてくれたのは蝶屋敷一のしっかり者、アオイさんだ。
どこまでも透明に澄んだ冷たい水は、今日のように田畑の実りを洗い清めるのにも重宝する。汲み上げた水で汚れを落とすと、濡れた野菜の肌が朝日にきらきらと光った。冷たさで指先が悴むのも忘れ、次々と野菜を洗う。

(今日は何を作ろうかな...)

食材に触れているだけで、つい口元が綻ぶ。
何を食べても「うまい!」と言うあの方だ。鬼殺隊の隊員として身の回りのお世話を始めて数ヶ月が経つが、あの方が好き嫌いを言ったり食事を残している所を見たことが無い。何を作っても喜んでくれるその姿は、見ていてとても気持ちがいい。

しかし、柱という特別な立場であるからこそ、食事には常に気を配りたい。
健全な精神は、健全な肉体に宿るという。
厳しい鍛錬で鍛え上げたあの方の肉体を、美味しく栄養豊富な食事で支えるのが私の役目だった。

きっと今日か明日には任務を終えて、この屋敷に戻って来るだろう。お腹を空かせたその人が、文字通り燃えるような髪をなびかせて帰ってくるのを想像するだけで、胸がきゅんと高鳴る。

(薩摩芋が入った具沢山のお味噌にしようかな...)

野菜を洗い終え、笊に上げて水を切る。艶々と光る薩摩芋をふんだんに使った献立も決まり、ふぅ、と一つ息をついた。
重い笊を抱えて厨の方に足を向けた、まさにその時だ。

ふわり、視界の端を黒いものが横切った。井戸の淵に見慣れた鳥がとまった事に気が付き、思わず足を止める。
あの方が日々の連絡で使っている鴉だ。人懐っこく食いしん坊なこの鴉に二人でご飯をあげる時間が好きだった。

「おかえり。どうしたの?」

もうすぐ帰る、というあの方の伝言でも伝えに来たのだろうか。だとしたら、急いで食事の支度をしなければならない。
おいで、と鴉に手を伸ばした、まさにその時だった。

「煉獄杏寿郎、瀕死の重症ー!」

鴉の鳴き声が、一瞬理解できなかった。

「ーえ?」
「煉獄杏寿郎、上弦の鬼との戦闘の末、瀕死の重症ー!蟲柱が救護中!」
「っ、...あ、え?」

意味のない音を吐き出す事しか出来ない私より、よほど流暢に言葉を紡ぐ鴉。ぺこり、頭を下げるような仕草をすると、あっという間に飛び去って朝日に溶けて消えてしまった。
指先から頭、爪先まで、まるで身体中の血液が凍りついたようだ。鴉の言葉が冷たい身体を駆け巡り、そのまま砕け散ってしまいそうになる。
力の抜けた腕から笊が落ち、弧を描いて地面を転がっていく。あの方が大好きな薩摩芋も、その身を血飛沫のように泥で汚した。





「煉獄さん、まだ目を覚ましませんか」

背中に掛けられた蟲柱の声に、黙ったまま小さく頷く。
目の前の清潔な布団には、一人の男が眠っていた。身体中を包帯で固定されぐったりとしている様は、思わず目を背けたくなるほど痛々しい。
あの日待ち焦がれた、なんでも「うまい」と言ってくれるひと。
炎柱・煉獄杏寿郎その人だった。


二百人の乗客と三人の新人隊員を庇いながらの、上弦の鬼との戦闘。
左目は潰れ、骨は折れ、出血多量。胡蝶さんが現場に到着した時、煉獄さんの腹には鬼に突かれた穴が空いていたという。

「炭治郎くん達には「傷を塞ぐ方法はない」と言ったそうですが、煉獄さんは御自身でも無意識のうちに止血の呼吸を続けていたようです。傷を受けた後も暫くは意識があり、なんとか持ちこたえました。さすが煉獄さんですね」

胡蝶さんの言葉に、また小さく頷く。ポロリと落ちた涙が、白い布団に吸い込まれて消えた。

鴉から知らせを受けてから、既に二ヶ月が経過していた。
鬼に比べ、人間の身体は脆い。傷を負えば回復には時間がかかるし、治らない場合だってある。鬼殺隊として鬼と戦うという事は、その繰り返しなのだった。
胸に風穴が空けば、普通の人間は死ぬ。それでも戦い抜き、仲間や家族に言葉を残そうとしたというのだから驚きだ。一命を取り留めたのは、ひとえに炎柱としての気力と体力の賜物だろう。
さすが煉獄さん。
本当に、そうとしか言いようがない。

小さな手が肩に添えられ、縋るように胡蝶さんを見上げる。あたたかい手が、今にも崩れ落ちそうな身体を必死に支えてくれているように感じた。
「これも炭治郎くん達から聞いたのですが」と、胡蝶さんが再び口を開く。

「煉獄さんが戦った鬼は、戦闘中に何度も「鬼にならないか」と煉獄さんを誘ったそうです。しかし、煉獄さんはそれを断り続けた。鬼殺隊の柱として当然といえば当然ですが、私には別の意図もあったのではないかと思うんです」
「...別の意図?」

思わず首を傾げた私に、胡蝶さんは小さく微笑む。

「...ときになまえさん、元は藤の家のご出身だそうですね。お料理がとても上手だとアオイから聞きました」
「......はい。煉獄さんが私の屋敷に滞在したときに声をかけて頂いて...。数ヶ月前から煉獄さんの身の回りのお世話をしています。お食事も、私が...」
「煉獄さんが戻ってからお料理は?」

胡蝶さんの問いに、思わず口を噤んでしまう。
少しでも煉獄さんのそばにいたい。
目が覚めた時、一番に駆け寄りたい。
そう思うようになったのは、果たしていつからだろう。
愛の言葉を交わした訳でも、将来を約束した訳でもない。しかし、互いを特別な存在として想う気持ちは二人とも一緒だったように感じる。

この二月の間、私は料理どころか自分の寝食さえ疎かで、心配したアオイさんが蝶屋敷から食事を差し入れてくれている。しかし、せっかく作ってもらった小さなおにぎりでさえ、手に付かない日も多かった。
答えられない私に、胡蝶さんが諭すように言う。

「まずは貴女がしっかり生きなければ。後で誰かに食事を運ばせますから、まずはそれを食べて、少し休んでください」
「...はい」

返事をすれば、胡蝶さんもこくりと頷く。歳はそう変わらない筈なのに、やはり柱の言葉には有無を言わせぬ力があった。

「煉獄さんが目覚めた時、なまえさんが倒れていたらきっと悲しみます。煉獄さんに美味しい食事を作ってあげるためにも...ね?」
「...わかりました」

私の返事に頷いた胡蝶さんが、ふわりと羽織を靡かせて立ち上がる。「また様子を見に来ますね」と言葉を残し、音もなく部屋を後にした。

“煉獄さんに美味しい食事を作ってあげるためにも...”

胡蝶さんの言葉が、心の中に静かに揺れていた。





包丁を握るのは久しぶりだったが、使い慣れた道具はすぐに手に馴染んだ。
薩摩芋を一口大に切り、他の野菜と共に鍋に入れる。鰹節でとった出汁で柔らかくなるまで煮込み、火を止めてから味噌を溶き入れた。
器によそい、最後に小口切りのネギを乗せる。

どうか、煉獄さんにこの香りが届きますように。

薩摩芋の味噌汁を盆に乗せ部屋に戻ると、当たり前だが煉獄さんの目は閉じたままだった。
枕元に料理を置き、布団の上から腕のあたりにそっと触れる。筋肉質な腕に巻かれた包帯は、今朝取り替えたばかりだ。

「煉獄さん、お食事の時間ですよ」

短く、言葉をかけてみる。料理から昇る湯気が、その一言に微かに揺れた。
煉獄さんからの返事はない。

「煉獄さん、食べないなら私が食べちゃいますよ。いいんですか」

もう一度声を掛ける。
しかし、やはり返事はなかった。

当たり前といえば当たり前の反応だった。いくら煉獄さんがなんでも「うまい」と言ってくれる大食漢とはいえ、料理の匂いなんかで昏睡状態から目を覚ますはずがない。
これが現実だ。当たり前すぎて溜め息も出ない。
それでも、目に熱いものが込み上げた。

目が覚めて欲しかった。
いつものように「うまい」と言って欲しかった。


まだ湯気の上がる料理だが、煉獄さんが口をつけないなら私自身も口をつけることはないだろう。いっそ鍋ごと捨ててしまえば気分が晴れるだろうか。盆に手をかけた、まさにその時だった。

「ーょ...も、や...」

聞き慣れた口癖に、思わず盆から手を引っ込めた。
幻聴だと思った。煉獄さんを慕うあまり、ついに頭がおかしくなったのかと。

しかし、違った。グッと太い眉が寄せられ、無事だった方の瞼がひくひくと動く。傷が痛むのだろう、布団の中で包帯だらけの身体が軋んでいるのがわかった。
奇跡が、起こったのだ。

「煉獄さんっ...!動いちゃ駄目です!!お怪我が...!!」
「ッ...、なまえ...」

薄く開いた瞼から琥珀のように煌めく瞳がのぞく。
目が霞むのだろう。「なまえ」「なまえ」とうわ言のように名前を呼びながら、ぬくもりを探すように布団から腕を出した。
傷に響かないよう、しかししっかりとその指先を握る。涙がポロポロと溢れて、男の指先を濡らした。

「はい!なまえです!ここに居ます!煉獄さん、目が覚めたんですね...!よかった...!よかった...っ!」
「、よ、もや...」

なにか言おうとしている煉獄さんの口元に、耳を近づける。身体中に激痛が走って呼吸さえ辛い筈なのに、なんと煉獄さんは深く深呼吸をした。大好物の湯気を潰れた肺いっぱいに吸い込み、子供のようにくしゃりと笑う。

「...よもや、また腹が減る日が来るとは思わなんだ..」





胡蝶さんに言われたのだろう。食事を持ってきてくれたのは、彼女の継子である栗花落カナヲだった。
命令以外の事を自発的にする事は少なく、何をするにも硬貨の表裏で決める口数の少ない美少女。瞬時にこちらの現状を把握したのだろう。すぐに胡蝶さんを連れてきてくれた。

「まさか、本当に料理で目覚めるとは...」

胸に聴診器を当てながら、驚きを隠せないように胡蝶さんが呟く。

「傷は深いので許可を出すまでは絶対安静ですが、心拍は安定しています。食事は胃に負担をかけない粥を少しずつ。食後にはこちらの薬湯を飲んで頂きます」

どろりとした液体が入った湯呑みを差し出し「ちょっと苦いですけど...」と胡蝶さんが言う。ちょっと所かかなり苦そうだが、煉獄さんは任務前と同じように笑顔で言った。

「...よもや。胡蝶がそう言うのならば、仕方があるまい。身体は鈍るが今は休む事に専念しよう」
「はい。くれぐれもご無理のないよう。また明日検診に来ますね」
「うむ。よろしく頼む」

聴診器と薬箱を持った胡蝶さんが、今度は部屋の隅に控えていた私に優しく微笑む。小さな手がするりと伸びてきて、労るように頬を撫でた。

「貴女も、元気になりましたね」
「はい。ご心配をおかけしました」
「いいえ。またお話しましょう。蝶屋敷にも遊びに来てくださいね」

恋愛相談、いつでもお待ちしてます。
ぽそりと自分にだけ聞こえるよう呟かれた言葉に、思わず顔が熱くなる。どうやら蟲柱に隠し事は出来ないらしい。クスクスと笑う胡蝶さんに、穴があったら入りたい気分だった。

「どうした?」
「なんでもありません」
「えぇ、なんでも」

煉獄さんの言葉に、女子二人で顔を見合わせて笑った。





「ー母上に、会ったのだ...」

胡蝶さんを見送り、食事と苦い薬を摂り終えた煉獄さんがぽつりと呟いた。

「...すみません。今、なんと?」

何かの聞き間違いかと思い聞き返したが、すぐに答えは返って来なかった。不思議に思いそっと布団を覗き込めば、そこには既に夢うつつの炎柱がいる。
とろとろと微睡みながら、煉獄さんの唇が動いていた。

「...聞いたのだ。「自分は果たすべき事を全う出来たか」と。...母上は「立派に出来ましたよ」と言ってくださった...。嬉しかった...」

煉獄さんの言葉に、胸がじんと熱くなる。
いつだったか、煉獄さんから御家族の話を聞いたことがあった。
炎柱である尊敬する父、強い信念を持った身体の弱い母、自分に瓜二つの優しい弟。
弟がまだ小さいうちに母は病で亡くなり、自暴自棄になった父は酒浸りとなった。どんなに励んでも弟は剣才に恵まれず、自身が炎柱となった今も、家族仲はギクシャクしているという。

人は死に行く時、それまでの人生の走馬灯を見ると聞く。極限状態の末、煉獄さんは亡き御母上の面影と再会したのかもしれない。

「ー傷は深く、俺も直ぐ逝くのだろうと思っていた。...でも、母上は俺を一緒に連れて行ってくださらなかった...。それどころか「好いた女性を守るのも、強く生まれた男の責務です」と仰った...」

母上らしいな、と乾いた笑いが部屋に響く。
好いた女性。心の中で、今聞いた言葉を繰り返す。気がつくと、煉獄さんの琥珀色の瞳がこちらを見ていた。

「俺に毎日味噌汁を作ってくれないか、なまえ」

身体中がのぼせたように熱くなる。

「鬼になれば人しか食えぬ。...俺は君の作る料理が好きだ」

差し出された包帯だらけの指先をそっと握れば、煉獄さんの顔に笑みが浮かんだ。安心したように目を閉じ「早く粥以外のものが食べたい」と呟く。

煉獄さんは今度こそ眠りに落ちたようだ。規則正しい寝息を愛しく思いながら、私は何度も頷いていた。
元気になったら、美味しくて栄養のあるご飯を沢山作ります。大きな鍋いっぱいに薩摩芋のお味噌汁を作ります。
煉獄さんを私が守ります。煉獄さんが私を守ってくれるように。

いつまでも。いつまでも。





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