私が初めて“それ”を見たのは、小学校一年生の春。ピアノの発表会でメヌエットのト長調を弾いている時だった。
演奏の中盤、曲調が大きく変化する所で、鍵盤からヌッと腕が生えてきた。赤黒い、所々腐っているような気持ちの悪い腕だった。

私が悲鳴をあげて椅子から飛び退いた事により、発表会は中断。大人たちから「どうして演奏をやめたの?」と問いただされた私は「鍵盤から腕が」と必死に訴えたが、勿論誰も信じてくれなかった。
母にこっぴどく叱られた私は、その日から毎日2時間ピアノの練習をしなければならなくなった。

次にそれを見たのは、小学校二年生の時。スイミングスクールの昇級試験での事だった。
そのスクールでは月に一度、クラス分けのための試験が実施されており、平泳ぎが苦手だった私は既に二回このテストに落ちていた。
今回こそは何としても合格しなければならない。先生がタイムを読み上げる声を遠くに聞きながら、私は必死に水を掻いた。
あと数メートルで壁に手が届く。そんな時、右足に何か硬い物が触れた。このレーンで泳いでいるのは私だけのはずだ。驚いて後ろを振り向けば、そこには顔の無い人魚のような生き物が蠢いていた。
びっしりとフジツボで覆われた長い尾を不気味に揺らし、何も無い顔がにたりと私に嗤いかける。ごぼり、鼻と口から同時に水を飲んだ私は激しく咳き込み、結局試験はまた不合格で終わった。
帰りの車で泣きじゃくる私に、母は「来週から幼稚園生のクラスに移りなさい」と冷たく言い放った。


学年が一つ上がる度、そんなふうに怖い思いをする事が増えていった。彼らの出現は必ず私の何か失敗させ、その度に私は母から失望された。
また、それらは目が合うともっと寄ってくるので、私は何をするにも俯いていなければならなくなった。(そしてその事をまた母に叱られた)


いつしか、私は中学三年生になっていた。母は毎日のように「今年は受験生なんだからね」「中途半端な学校に進学したら承知しないんだからね」と私を脅し、机の端にどさりと難関校の問題集を置いた。
解いても解いても終わりの見えない課題の山。少しでも手を止めようものなら、母の持つプラスチック製の定規がバチンと私の手の甲を叩く。

「どうしてこんな簡単な問題がわからないの!?本当にグズなんだから!」

母の罵声に、私はのろのろと床に落ちたシャープペンシルを拾う。そんな私の事を嘲笑うかのように、とんとん、とんとん、とそれらが窓を叩いた。
……――本当に、頭がおかしくなりそうだった。


そんな日々が幕を下ろしたのは、その年の十二月二十四日。朝から雪のチラつくクリスマス・イブの事だった。
私が学校から帰ってくるなり、母は「おかえり!」と満面の笑みを浮かべて私のことを迎えた。普段から濃い化粧がさらに濃く、付けすぎた香水に頭がくらくらしそうになる。

「ただいま。どうしたの?」

きっと聞いた方がいいのだろうな、と私が気を使ってそう問い掛ければ、母は興奮した様子でこれから来客があるとのだ言った。

「とある都立高校の先生がいらっしゃるの!是非アンタに会いたいんですって!」
「......?高校の先生が、なんでわざわざ私に会いに来るの?」
「さぁ?どこでアンタの事を知ったか知らないけど、特別推薦のお話ですってよ!詳しいお話は母さんがするから、アンタは大人しく私の横に座ってるのよ。いい?」

母への返事に「はい」以外の選択肢は存在しない。仕方なく二階の自室に上がりマフラーとコートをハンガーに掛けていると、まるでタイミングを図っていたかのように玄関のチャイムが鳴った。
「なまえ!」「早く降りてきなさい!」「早く!」母の呼び声に私は渋々と階段を降りていく。

階段を降りきると、ちょうど余所行きの顔を貼り付けた母が玄関のドアを開ける所だった。そこに立っていた三人の人影に、私は思わず目を見張る。
どう見ても堅気には見えない中年男性と、長い黒髪を後ろで一纏めにした優しげな青年。そして、その一歩後ろに立つ、これまで見た誰よりも美しい顔をしたの白髪の青年。

呪術高専教師である夜蛾正道と、その生徒二人。
夏油傑と五条悟だった。

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