狼火

ふらりと立ち寄った店の陳列棚に懐かしい物を見つけ、思わず手を伸ばすと自分のものより一回り大きな手とぶつかった。

「あっ、すみません...!」

慌てて本棚から手を引きながら相手の方を見れば、そこには会社帰りと思われるスーツ姿の男性が立っている。「いえ、こちらこそ」と男性も小さく頭を下げた。眉は太く、吊り上がった大きな瞳はすぐそこに貼られた万引き防止のステッカーによく似ている。怖、と思ったのも束の間、にっこりと笑ったその顔が思いのほか優しくて驚いた。

すっと男性が腕を上げ、その長い指を本の背表紙に掛ける。そのまま音もなく抜き出すと「良かったらどうぞ」となんの躊躇も無くこちらに差し出した。予想外の出来事に、私は「いやいやそんな!」と慌てて手を振る。

「どうかそのままお持ちになってください!私は大丈夫ですから!」
「いや、ほぼ同時でしたし、こういう時は女性に譲るものですから」
「いいんですいいんです!その本、私昔持っていて!ちょっと懐かしいなって思っただけですから!」

そう説明すれば、男性はきょとんと目を丸くする。「そうですか」と呟くと、改めて手にした本に視線を落とした。
水色のドレスに身を包んだお姫様が、階段に落とした硝子の靴を振り返っている表紙。誰もが知っているグリム童話の『シンデレラ』だ。子供の頃、またこれなの?と呆れる母にせがんで毎晩のように読んでもらった。

「...では、お言葉に甘えてもいいですか?」

申し訳なさそうにこちらを伺う男性に、どうぞどうぞと手を差し出す。「ありがとうございます。仕事で使うので、正直助かりました」と再び頭を下げた男性に、思わず首を傾げてしまった。
スーツにネクタイ姿の男性が、どんな用事でシンデレラを仕事に使うのだろう。
そんな思いが顔に出ていたのだろう、男性が「あぁ、」と気付いたように口を開く。

「実は、自分は近くの高校で教師をしていまして。近々行われる文化祭でこれの劇をやることになったんです」
「あぁ、じゃあそれは台本だったんですね」

なるほど、と手を打てば、男性は何故かうーん...と首を傾げる。

「それはそうなんですが...。実は男性教諭ばかりでやるおふざけ劇なんですよね。自分は何故か王子役なのですがお姫様も男ですし、果たしてどれほど原作が残るかどうか…」
「あぁ、それは…」

きっと原作とは程遠い出来になるだろう。同じ事を思ったのか、絵本を手にした男性がハハハ...と笑う。

「せっかく譲って頂いたのに、こんな理由で申し訳ない」
「いえいえ、きっと楽しい劇になりますよ」
「…あなたのような人がお相手だったら、自分ももう少しヤル気が出るんですがね」

では、自分はこれで。そう言って男性は微笑み、レジの方へと歩いて行く。大きなリュックを背負ったその後ろ姿を、私は絵本売り場に棒立ちになったまま見送った。

呆れられるほど読んだ絵本の王子様に、ついさっき出会ったばかりの男性の顔が重なる。…ガラスの靴が無い場合、王子様とはどうやったら再会できるのだろう。鈍い頭でそんな事を考える。

バッグの中に仕舞っていた携帯が震えている。どうにか我に返って携帯を取り出すと、ディスプレイには親友からのメッセージが表示されていた。

甘露寺蜜璃:母校の知り合いから文化祭のチケットを貰ったんだけど、良かったら名前ちゃんも一緒に行かない?


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