狼火

斜向かいにある回し部屋から漏れ聞こえてくる甲高い嬌声が、頭の中でしつこく反響していた。余程荒っぽい客が来ているのだろう。「やめて」「堪忍して」と、もはや悲鳴に近い女のそれを聞きながら、天元は忌々しげに小さく舌打ちを零した。
黴臭い布団の上でごろり、寝返りを打ちながら目を瞑って女の声に耳を澄ませる。艶かしい声があちこちで上がる中でも尚、その女の悲痛な声音は目立っていた。

金になる客…ー所謂太客を捕まえておくために、遊女は特別な技を使う。声の出し方、首の傾げ方、床の中での甘え方。自分に惚れた男を思うがままに操る手練手管を、この街の女達は皆下の毛も生え揃わぬ頃から身体に叩き込まれる。

しかし、先程からこの布団部屋へと聞こえてくるその声は、そんな手練手管からは程遠いものだった。音だけ聞いていれば強淫だ。店の若い衆は何をしているのかと天元は苛々しながらまた寝返りを打つ。
鬼を探してこの街に来て数週間。
…ー高い揚げ代を払っているのだから何をしてもいい。そう勘違いしてやってくる男のなんと多いことかと、天元は何度も呆れていた。
生きた人間をモノ扱いし、駄目になったら捨てる。
天元はそういう人間が大嫌いなのである。

「くっ、うっ、うぅん…!」

まるで子犬の鳴き声のような嬌声が上がった後、辺りはしんと静かになった。男が果てたのだろう。暫くすると部屋の襖が音も無く開き、中から一人の遊女が顔を出す。
あちこちほつれた島田をそっと手で押さえるその顔はまだ幼く、頬にははっきりと涙の跡が残っている。残滓を洗い流しに行くのだろう。その細く小さな背中を、天元はなんとはなしに追いかけることにした。

女が入って行ったのは店の中でも最奥。そこに内風呂があることを、天元は事前の下調べで知っていた。内風呂と言っても、そこにはただ水の入った桶がでんと置かれているだけだ。簡単に身体を流した後、遊女はすぐに次の客の元へと向かわなければならなかった。

天元がそうっと中を除き見れば、女はこちらに背を向けて襦袢を脱いでいる所だった。腰の帯はそのままに、肩だけ着物を落としたその女の身体に、天元は思わず息を呑む。
白く華奢な肩から腰にかけて幾つもの傷…ーそれもつい今しがた出来たばかりであろう、赤く腫れ上がった傷から目を離す事が出来なかったのだ。

「…お前、」
「!」

思わず声を掛けてしまった天元に、女は驚いた様子で入り口に立つ男を振り返った。慌てて胸元を整えるその様は、やはり女が遊女になってまだ日が浅い事を感じさせる。

「…見て、しまったでありんすか」
「あぁ、見た」
「……」

女は眉根を寄せてと俯きながら、所在なさげに自身の指先を弄る。天元のことを別の部屋の客だと思ったのだろう。暫くして「わっちにつくお客様は、みんなこういった事がお好きな方ばかりで…」と諦めたように笑った。

「嫌じゃねぇのか」
「…そりゃあ痛いのは嫌でありんすけど、お客をとらないとおまんま食いっぱぐれちゃうし」
「……」
「わっちが働かねぇと、田舎の妹まで売られっちまいとうすから」

…その妹は今頃別の店で客を取ってるだろうよ、と言いたいのを天元はグッと我慢する。そんなこと、目の前の遊女だってとっくのとうにわかっている筈だった。
苦界十年。借金のカタに売られた女の多くは、大抵が暗く悲惨な最後を遂げる。病気、足抜け、無理心中。この世界には生きる選択肢より死ぬ選択肢の方がずっとずっと多いのだ 。

「逃げたいなら、」
「え?」
「もし逃げたいなら手を貸すぜ」

思わずそう口に出してしまったのは、女の背にあった傷跡のせいだ。ぷっくりと赤く腫れ上がった、妙に細長い火傷跡。無理矢理押さえつけられ、熱い煙管を押し付けられた跡が天元自身の背中にもある。
目の前の女は客から。
天元は実の父親から、長年に渡って虐げられてきた。

「.…お前、名は」
「…藤浪」
「違う。此処での呼び名なんかに俺ぁ興味はねぇんだよ。お前の、お前自身の名前を聞いてんだ」
「…名前、と申しんす」
「そうか、名前か」

「おい名前、よぉく聞け」言い聞かせるようにそう言って、天元は女の目の前に自身の大きな手を差し出す。

「俺と来い。そうすりゃあ俺がいつでも腹いっぱい飯食わして、ド派手に幸せにしてやっからよ」

客から苛まれる女など、この世界には幾らでもいるのかもしれない。それでも尚、天元は目の前の女を救ってやりたいと思うのだ。
あの日、死にものぐるいで里を抜けた自分たちのように。


女の細い指先が男の手に重なる。自分がこの男の四番目の妻になる事など、この時名前は予想すらしていなかった。

その日、ある妓楼から一人の遊女が消えた。


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