ゼットさん

※救われない・残酷

 斜向かいにある廻し部屋から漏れ聞こえてくる甲高い嬌声が、頭の中でしつこく反響していた。
 遊女たちは甘ったるい声で啼いているが、その実情は悲惨なもので、いったい何人の女性たちが手ひどく扱われて泣き啜り地に這いつくばったことか。性病に侵され亡くなる者もあとを絶たず、また、逃げ切れると信じて走り抜けた少女は若い男衆に髪を掴まれ引き倒されてはひどい折檻を受け、ときには亡くなり、時には性器を潰され、やァやァお前もう病を持ったらいらないよと放り捨てられやっと足抜けができても、もう子も産めぬ生も永らえぬ今世にひとりきり。あゝ愛しあのひとと信じて身ごもった子は堕ろされ、身請けなど夢のまた夢。よっぽどの美貌がなけりゃ花魁になるための手習いすら受けれぬ。べんべべんと弾く弦の音、琵琶法師が謳うのは平家物語か。鈴を転がす声がもうそれは聞いたよ、違うのを聞かせて頂戴と華を咲かせるうつくしい笑みも、お天道様の下で咲くのは儚い一瞬。髪を洗うのは月にいっぺん昼見世も休みだと、上裸のまろやかな肌を晒して彼女たちは楽しそうに笑った。
 ひどい運命だと嗤うだろうか、悲しい定めと憤るだろうか、死ねばその体躯はただの塵芥。寺にぽいと投げ捨てられ名も刻まれず死んでいくだけ。死体の山の一部となって、鴉に食われリャ終い。こんなものなくなっちまえばいいのにと、嘆いて幾星霜。どういうことか、私はまだ生きているのである。

「花魁、そろそろ死にたい、」

 そう零すと慌てた彼女はとっさに私を抱きしめて、頬を撫でる。

「やだやだそんなこと言わないでよ名前、死んだら寒いし痛いじゃない!アタシやお兄ちゃんと居れば大丈夫だから、ね?もう少し一緒に居ようよ」

 彼女はいつまで経っても子供のようで、幼稚で、あどけなくて、しかし、ひどく残虐だった。彼女が鬼になったら性格が残虐となったのではない、彼女は、純粋なまでに悪で、いたいけだった。まるで幼子、赤子と同等なのである。あれ、なんで私はこの子と一緒に居るのだっけ、と思って、見目ばかり成長した彼女を撫でた。梅、可愛い梅。いいこね、いいこ。

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

 ひどく美しい妹と、とても強い兄が居るらしい、と内儀(おかみ)さんが聞いたのは、春のことだった。うららかな日差しのなか、やっとの思いで花魁まで上り詰めた私の禿にしたいと内儀さんが言うので、いったいどんな子が来るのかと思ったら、本当に美しくて息をのむほどだったけれど。あなたは大きな瞳でくりっと私を見上げるから、まるで昔餌付けをしていた猫のようで可愛らしくて。気性が荒くて口も悪いけれど、私を花魁と呼びなさいと言ったのに、お姉ちゃんお姉ちゃんと呼んで懐くから、やめなさいなんて言えなくて、私は本当の妹のように可愛がったわ。遊女なんて嫌いで、はやく落籍されてしまいたい、こんな生き方、もういやだと日々を泣いて過ごしていた私の、あなたは小さな希望になった。可愛いかわいい梅、大丈夫、私があなたを立派な遊女に──……。

「おい!知っているか、梅がお武家さまの目を簪で突いたらしい!!」

 すぐさま引っ捕らえられたあなたは、縄で縛り上げられ、侍たちが掘ったひと一人分のまるで墓穴のようなそこへ、梅を突き飛ばす。ああやめて、お願い。やめて。泣き叫ぶ私をみんなが止める、歌を詠めても琴を弾けても、三味線を弾けたって男を悦ばせることができたって!!!大切な子ひとり助けることもできないの。お侍さまお願いです、その子は私の大切な妹なんです、どうか殺さないで。そう縋りつくことすら許してもらえずに、喉が裂けて血の味がしたって、振り払って共に火に巻かれることすらできない。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛………」

 みるみるうちに皮膚が爛れ真っ先に髪が火に巻き上げられる。これじゃ足りん、と言って侍は油売りから壺を奪って彼女へ注ぎ足すのだ、梅の悲鳴などではない、地獄から響く声が、痛みにひしゃげてもんどり打って穴の中を暴れている。痛い痛い、いたいよおにいちゃん、おねえちゃん、ああああ、ああああ。あなたの姉はここに居ます、気を失うことすらできない痛み、熱い、あつい、いたい、いつまでも断末魔は続く。昼の通りに響いて誰もが顔を顰め目を思わず背けるというのに、私はその光景から目を離せない。ああ、梅、かわいい梅、痛いでしょう熱いでしょう、苦しいわよね、つらいわよね、ごめんね、ごめんね、痛みを分かち合うことすらできなくて、ごめんね…………。
 気が強くて、口が悪くて、気立てが良いなんて嘘でも言えないようなお転婆娘。それでも、お姉ちゃんと、鈴を転がした声で私の身体に抱きつくから、もう、全部許してあげたくなって、仕方ない子ね、って、私は、あなたを抱きしめて、ああ、梅。梅…………。
 髪一つ、残りもせずに。あなたはただの真っ黒なかたまりと化してしまった。
 お侍様は、特別金を積んでいるわけでもないくせに、代官の威を借り狐のような顔で、この程度では許してはやらんぞと、花魁をよこせ、抱かせろ、と言って、私の腕を掴みまだ開く時間でもないのに、郭の上等な部屋に私を連れ込んだが、私があまりにもさめざめと泣いてしゃくりあげるため興を削がれたのか、せっかくだから兄も殺してしまおうと、それから会いに来ると下卑た顔で笑った。それならば、梅のお兄さんに逃げろと知らせねばと、縺れる脚を必死に動かして郭の外へ躍り出る。そうだ、梅の遺体も、弔ってやらねば、と、後先も考えず髪を振り乱す私の前に現れたのは、まっくろな塊となってしまった梅を大切そうに抱きかかえる、細身の少年。

「あなたが、梅のおにいさん、……妓夫太郎ね、」
「ああ……あんたが、梅がお姉ちゃんって、慕ってた女郎か……」

 彼ごと、そっと腕の中に抱きしめる。梅は、もう死んでしまったのだろうか、きっと痛いわよね、辛かったわよね、もう死んでいたほうがいいのかもしれない。

「私も逝くわ、この子と一緒に」
「そうか……そりゃ、梅も喜ぶに違いねえ」

 しんしんと、いつの間にか雪が降り始める。遊女など体力はないから、私が梅を抱きかかえて歩くことはできず、また、ろくに食事も摂っていない妓夫太郎が梅ごと地面に倒れ伏した。ああ、このままでは私がひとり、無様に生き残ってしまう。髪に引っかかったままの豪奢な簪をひとつ抜いてそっと心の臓へ宛がう。上体を起こした妓夫太郎が、手を添えてくれた。手伝ってくれるらしい、瞳を合わせると微笑みあって、ぶすり。一突き。どくどく溢れる鮮血、鋭い痛みがじくじくと胸から体中を侵食していって、唇からごぼりと血ごと噎せた。痛い、いたいのに、ああ、あなたは、もっと痛かったのだろうと、涙が溢れる。ごめんね、梅。ごめんね……。
 はやく生を手放してしまいたくて、瞳を伏せる私たちの傍へ、近寄る人影と、かざされる手。唇へ滴る血。それを意図せず飲み下してしまって、身体の組織がすべてぐるりと作り変えられる痛みで、世界は一変したのだ。

「ねえねえ、お姉ちゃん、蕨姫って名前どうかしら、可愛い?」
「ええ、可愛いわ、梅。梅は姫、って名前をつけるのが好きなのね」
「うん!だって、言ってくれたでしょ、お姉ちゃん」

 ──……あなたはまるで、お姫様のように可愛らしいわ、梅。

「だから……姫を使おうって思ってるのよ!私はいつまでも、おねえちゃんのお姫様なんだから!!」

 得意げに胸を張って、貰ったばかりの上弦の称号が浮かぶ瞳を弧に曲げる。あどけない瞳、いつまでたっても変わらないのね、あなたは。私は、あれ、なんでここに居るんだっけ……ぼんやりそう思って、彼女の分身である大きな帯が張り巡らされた穴ぐらのなかで一人三味線を抱えている。何年、何十年、何百年と、こうしてぼんやりしているような気がする。時折、梅が食べなきゃだめだと言って差し出してくるなにかを咀嚼して、時折、ハシラが来たと言って私をどこかへ隠すけれど、ハシラってなんだろう……。私、どうしてここにいるんだろう。いつも、そうやって疑問に思ってもどこか思考に靄がかかってしまって身動きなんか取れないのだけれど。この日はなぜか、外へ出よう、という気になって、三味線を片手に初めて穴ぐらの中から出た。外は、真っ暗闇、ぼんやり浮かぶおつきさま。煌めく星々。冬だからか空気は冷えていて身を刺すようではあるが、だからこそ大気が澄んでいて、一気に思考が冴える。そうだ、私は……鬼になってしまったのか。
 ずっとぼんやりとしていたのに、急に“人間らしく”脳みそが働き始めて、私は人間を食べながらこうして生きのさばっていたのだと理解した。
 裏路地とはいえ、花街の夜は明るく活気づいているため、突っ立っている私に気づいた着流しの男が、酒に酔った真っ赤な顔で近寄り腕を掴む。

「イヒヒ、きれいな姉ちゃんじゃねえか、アンタ、女郎か?なんで突っ立ってんだ。……なんも喋りやがらねえ、ええい、ここでやっちまうか……」

 抵抗する気も起きず、地面に引き倒され散らばる髪を横目に眺める。いつの間にやらこんなに伸びて、手入れもしていないのに艶々しいのは鬼がゆえか。人間ではなくなってしまったのだと、着物をひん剥かれながら思っていた矢先。私はなんの抵抗もしていないのに、目の前の男が吹き飛ばされる。踊る影は、吹き飛んだ男を見て、自分でふっとばしたくせに驚き目を丸くしてから、再び私を見下ろす。その瞳が更に丸くなるから、ああ、私はわかったのだ。この人は、鬼を狩るものなのだと。


※※※


 始めは、裏路地で女性を引き倒しことに及ぼうとしている不届き者がいるのだと思って男を蹴り飛ばした。微弱だが鬼の気配もあったので、てっきり男が鬼なのかと思ったが、どう考えても鬼の気配は組み敷かれていた女性から漂っていた。しかし、どの鬼にも見たことがないほど、不可思議な雰囲気を纏った彼女は、ぼんやりと俺を見上げる。襲いもしてこない。俺と瞳がかちあうと、ありがとう、と囁いた彼女は、乱れた衣服を整えるがその場に座り込んだままだったので、咄嗟に片手を差し出し、引っ張り上げてやる。白魚のような手は細く、少し力を入れると折れてしまうのではないかと恐ろしかったが、しかし、この存在は鬼であって、すぐ切り捨てねばならないというのに、それができなかった。職務怠慢だ。

「……鬼を狩るひとが居ると聞きました。あなたが?」
「あ、ああ、……そうだ。俺の務めは、鬼を狩ることだ」
「そう……」

 絹糸のような黒い髪がさらりと流れ、緩慢な動きでこちらを振り仰ぐ。瞳同士がぶつかって、俺は、ああ、もうだめだ、と思った。生まれてこの方恋などしたこともなく、妻を娶る気もなく、女性というものに興味を抱かなかったというのに。この時、始めて、胸を強く殴られたような衝撃が、俺を襲った。儚く、うつくしく、そして、その瞳に気高さを抱いた女性。しかし、彼女は、鬼なのである。
 怠惰を極め腰に差しっぱなしの日輪刀に手をかけ、鯉口を切るか、いやしかし、例外などあるはずもなく、この頚切り落とすことこそが使命。ましてや、これが演技で本性は市井に巣食いし鬼なのだとしたら!今すぐ殺さねばならないのに、俺はそれができずに居る。指先を震わせ、柄に手を置く俺を、彼女は泰然としてそよぐ風を感じ緩やかに微笑むのである。

「何を迷っているの、」
「俺は……、あなたを、殺したくないのかもしれない」
「不思議な人。何人もの鬼を殺めたのでしょう?」

 しなやかな指が伸ばされ、頬に添えられる。それだけで分かった、このひとは、鬼である以前はきっと、とても優しくたおやかな女性であったのだろう、と。妄想だろうか、願望だろうか、それでも構わない。この人を殺したくなかったが、彼女は人に非ず。ぬらりと引き抜く刀を前にしても、彼女は俺の頬へ手を添えたまま、穏やかに微笑んでいる。月光に煌めく刃をかざし、その細首へ宛てがった。

「名を、……教えては、くれませんか」 
「…………、名前、と。あなたは?」
「煉獄杏寿郎。あなたの、死への手向けに」

 素敵な名前ね、と言って、微笑んだその表情のまま、ごとりと、彼女は地面へ転げ落ちた。切断面から塵になっていく、後も残らず。まだ残ったままの頚をそっと膝に乗せ、頚ごと切り落としてしまった髪を指に撫でる。なめらかで、うつくしい、まさに烏の濡羽のような黒髪だった。頚ひとつのまま、淡い色の唇がわななく。

「かんざしを、」

 ぽとり。着物から落ちた簪は、身体の一部から生成されたものではないらしく、塵になる気配はないため手で拾えば、いったい何年前のものか、朽ちかけたぼろの簪である。これが、一体なんなのだろうかと瞳を向けると、彼女は唇に弧を描いて微笑む。

「あなたに、あげる」

 言葉が告げきられる前に、彼女は、かき消えて久しく、跡形も残らなかった。


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