ふふさん

斜向かいにある廻し部屋から漏れ聞こえてくる甲高い嬌声が、頭の中でしつこく反響していた。
姉さんの客である、燃えるような髪と同じ色の瞳を持つ男は私と同じものが聞こえているはずなのに、まるでなんでもないような顔をして背筋をぴんと伸ばして座っていた。今日は大入りで姉さんのお客が何人も来ているのをちらりと見かけたので、きっとこの部屋に戻ってくるのは大分後になるだろう。いや、もしかしたら、今夜は戻ってこないつもりかもしれない。

「あの、お酒は」
「ん? あぁ酌は結構だ。酒は飲まん」
「そう、ですか」
「名前は何か飲むか? 頼んでもいいんだぞ」
「い、いえ。わっちもお酒は飲めません」

 彼の名は煉獄という。遊郭に来る客は様々だが、彼はその誰とも違う雰囲気を纏っていた。上等な織物の着物は流行り物でもなく、かと言って古臭くもない。隙のない礼儀正しい所作に政府の役人かとも思ったが、それにしては時折見せる表情が柔らかく人懐っこい。何をしているのか、どこから来たのか、他の客たちが聞かずとも語るような身の上話は一切しない不思議なこの男が気になるのは仕方がないことだ。

 姉さんの名代として、このお客が退屈しないようにと何か会話の糸口がないか必死に探してみる。このまま黙っていれば漏れ聞こえてくる姉さん方の高い声を二人で長々と聞くことになってしまうだろう。

「…煉獄様は、なにがおすきですか」

 絞り出した声はだんだんと小さくなり、最後の方は消え入るような声になってしまった。いくら会話に困ったからと言って不躾な質問であると分かっていながらも、二人きりの部屋で無言でいることは耐えられなかった。恥ずかしくなって隣に座る彼の顔が見れなくなり、ほとんで手のつけられていないお膳に目を落とす。くすりと彼が笑った気配がして、横目でそっと伺うと端正な顔に笑みを浮かべていた。

「なにがすきだと思う?」

 伸ばしていた背を少し曲げるようにして胡座をかいた彼の所作を眺めながら、彼の好きなものを考える。遊郭が似合わない人だけれど、ここに来るのだからやはりすきなものは女人だろうか。しかし彼の眼差しからは、花魁の客から時折向けられる、お客をとれない振袖新造を値踏みするような好色なものは感じられない。

「遊郭にいらっしゃるので女人がお好きかと思いました。でも、煉獄様は、ちょっと他のお客人とは違う風にお見かけします」
「そうなのか。俺はここに馴染んでいないのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが…なんというのでしょうか。煉獄様は花魁のことも、私のこともみだりに触れたりされませんし…いつもお話しして帰られているので…その、色事に興味がないのかと」

 私の言葉に耳を傾ける煉獄様のお顔には面白がるような笑みが浮かんでいて、最後には声に出して笑われてしまった。

「そうか、やはり床入りをしない客は変だったか。女性は好きだが、しかし俺はどうもこういった店で…というのは性に合わなくてな。ちょっと調べ物で来ているんだが…すまないな、俺は君たちの時間を無駄にさせているな」
「お金さえ払ってくださるのなら、遊女にとっては煉獄様のようなお客人ばかりの方が幸せです」

 突拍子もない質問から始まった会話だったが、煉獄様が楽しそうにしてくれたことにほっとする。彼の笑い声につられるように小さく笑い返すと、火が灯ったような不思議な瞳を細めて優しい目をしてくれた。

「…そうだな。そうか、名前ももう少しすれば客を取るのだろうな」
「水揚げは遊女にとって一人前の証ですからね。わっちも、いつかは…」

 殿方と同衾する、という言葉はなぜか口には出せなかった。
遊郭に売られた時点で私のやるべきことは最初から決まっている。今まさに廻し部屋で行われているような行為を、これから私はするのだ。姉さんたちが夜にだけ出す甘い声の意味を、そのうち私も知るのだろう。そのことを強く意識することはなかったのに、どうしてか煉獄様を前にすると、ひっきりなしに聞こえてくる媚びたような甘い声が嫌になる。こんな声を出す女になると彼に思われたくなかった。そんなことを思っても、どうしようもないことなのに、それでも嫌だと思ってしまう。急に胸の奥が痛くなった気がして、口紅が崩れることが分かっていながらきゅっと唇を噛む。

「逃してやりたいな、遠く、日の光しか当たらないところへ」

 そっと包み込むように煉獄様の手が指先に重ねられた。初めて触れた彼の手は硬く、まるで乾いた木の幹のようにかさついていた。その言葉を聞いて、ようやく彼がこの場所に似合わないと思う理由が分かった気がした。彼はどこまでも朝の空気のように清廉なのだ。まとわりつくような夜の闇に染まらない、澄み切った朝一番に山際を照らす淡い光のように。

 ゆっくりと指先を絡めるように、彼の手を握り返す。厚みのあるこの手を握って走っていけば、私はこの夜の世界から逃げ出せるのかもしれない。

 そんな夢を見てしまった。


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