※性的な行為を連想させる描写がございます。苦手な方はくれぐれもご注意下さい
斜向かいにある廻し部屋から漏れ聞こえてくる甲高い嬌声が、頭の中でしつこく反響していた。毎日のように耳にし、慣れ親しんでいる筈だったそれは、今や私の心を騒がせ続けているのである。
「おい」
目の前の男が身動ぎすると、私はあからさまに身体を揺らしてしまう。視界の隅には、先程自分で脱ぎ捨てた着物が見える。彼の姿を直視出来ないのは、彼が発する威圧感によるものだけではない。彼がその身に纏う黒の詰襟服から覗く逞しい筋肉を帯びた身体が、非常に淫らに見えたからだ。
「どうしちまったんだァ? そんな俯いちまって」
「……っ!」
「見ろよ。顔上げろォ」
男の指が俯く私の顎を押し上げ、研ぎ澄まされた刃のように鋭い視線に晒される。すると男は悪辣な笑みを浮かべて私を見下ろすのだった。
◇
男がこの郭に通い始めたのは、つい一週間程前の事だった。初めはその目を引く風貌に、郭じゅうの遊女が色めきたったものだ。
別に男が特別見目の良い姿形をしているわけではない。纏う雰囲気は肌に倶利迦羅紋紋を刻む輩のそれを遥かに超える凄まじさで、一見すると逆に近寄り難い印象である。だが、彼の放つその圧倒的な雄っぽさに心を掴まれる遊女が後を断たなかったのだ。
この男と関われば何かまずい事が起きる。だがそんな第六感に反し、この男に見初められたいと絡みに行く遊女は多かった。しかし結局誰一人としてこの男と一夜を共に出来た遊女は現れなかった。男は今日も酒宴の繰り広げられる広間の隅で立て膝を立て、不機嫌そうに辺りを睨め付けていたのだ。
が。永遠に不変と思われたその均衡が、ほんの今さっき脆くも崩れ去ったのである。男は突然私を指差し、身支度もそこそこに私を廻し部屋へと連れ込んだのだ。
「……あの」
衝立で三つに仕切られた八畳間の割床が、私に当てられた仕事用の寝床だった。当初は無人だったこの部屋もすぐに人で埋まり、衝立の向こうからは私より三つ年上のお姉さん方が上げる甘い声が響き渡っている。
「……何故、わちきの事を」
「下手な廓詞は使うんじゃねェ。それより声は出すな」
「えっ、……っ!」
「聞きてェ事がある」
私をその場に組み敷きながら、男が耳元で囁く。ビクッと身体を震わせながら瞬きを繰り返すと、私の耳元から顔を離した男は鼻先が触れ合いそうな距離で私に詰め寄ってきた。
「この廓を訪れた客が、人知れず姿を消してるって噂を聞いた事はあるかァ」
寝耳に水だった。男の声はひどく真剣味を帯びており、とても遊女の寝床で発する声色ではない。私はたじろぎながらも、頭の中で男の質問の意図を必死に探っていた。
「え……えと」
「おい」
「!」
男の硬い親指が、私の唇を押し潰す。
「声出すなっつったろォ」
「……!!」
「そうだ。それでいい」
コクコクと頷く私を見て、男の指が離れていく。私の唾液で微かに濡れたその指を見て、心が騒がしくなった。私はかつてないほどに早鐘を打つ心臓を必死に落ち着かせながら、男から視線を逸らして思考を働かせた。
男の目的は何なのだろう。彼がこの廓の内情を探りに来た事は明白だ。だが、何故何の変哲もないこの廓なんかの内情を探るのかがわからない。それにどうして、男は声をひそめているのだろうか。私は声を出してはならないのか。
「でェ」
「っ!」
低く艶のある男の声が、私を現実へと呼び戻した。男が再び私の耳元に唇を寄せるとその吐息で耳朶が擽ぐられ、私は微かに身悶えする。
「先程の件だが」
「……」
「多平って成金の爺さんがいただろ。知ってるよなァ?」
最後に店に顔出したのは五日前で合ってんなァ? 男の問いに、私はコクコクと頷く。
「その爺さんに付いた遊女はどいつだ。駒って花魁かァ?」
首を振る。少々の間の後、私の頬に添えられていた男の手がそっと肌を撫でる。
「菖蒲とかいう女か」
「ち……がいます。未雪姉さん……です」
「へェ……。あの狐みてェな目付きの花魁か」
頷く。傍らでは、肌と肌とがぶつかり合う生々しい音と共に男女の喘ぎ声が響き渡っていた。私は視線を伏せながら、そっと男の顔を盗み見る。
男は、このような状況においても顔色一つ変えていない。生々しい情交の音は彼に聞こえていないのだろうか。それに彼の眼下には、乱れた襦袢一枚羽織った女がおとなしく組み敷かれている。
彼が私を抱きに来たわけじゃない事はなんとなくわかった。だが女の肌を前にして、ましてやこんな雰囲気のさなかにあっても、決してそういう気が起こらないというのはどういうわけだろう。
(別に……)
抱いてほしいわけじゃない。股を使わずに首を振るだけで金を取れるのなら、これほど楽な仕事はない。けれど私は何故、歯痒さにも似た気分を味わっているのだろう。よく見ると、男の顔がかなり整っているからだろうか。その惜しげもなく晒し出された逞しい肉体に、触れてみたいからだろうか。ちっとも乱れる事がないその顔を、私の手技で乱してみたいと密かに思ってしまったからだろうか。
毎日のようにこんな事を繰り返しているのに。他の男に抱かれても、こんな気分になんてなった事がないのに。何故私はこの男に組み敷かれただけで、うっすらと発情してしまっているのだろう。
「おい、聞いてんのか」
「っあ」
一瞬気を抜いてしまったのがいけなかった。言葉と共に男の吐息が耳にかかった瞬間、私の口からは甘い声が漏れてしまう。ハッと我に返って口元を押さえてももう遅かった。男は微かに目を見開いて私を凝視しており、私は顔から火が出そうになりながら必死にそっぽを向く。
「ちっ、ちが」
「……」
「今のは別に……っ、あっ!」
身構える間もなかった。男は素早い動作で私の耳元に顔を埋め、フッと息だけを吹きかけてくる。
それは、今までとは明らかに違った意図を持った動きだった。私が再び漏らした甘い声を耳にすると、男は顔を至近距離に寄せたまま私に見えるように口角を上げてみせる。
「こりゃ悪い事をしちまったなァ」
「な……っ!」
「耳。我慢させちまって」
「……んっ」
耳を舐められただけでこんなにゾクゾクとしてしまったのは、何時ぶりだろう。顔を背けようにも男は私の頬をがっちりと押さえ込んでおり、おまけにずっと覆い被さられているため全く身動きが取れない。そうこうしている間にも男の唾液を纏った分厚い舌は私の耳朶を這い、落ち窪んだ部分までをも犯してくる。その勿体ぶった感触と間近で聞こえてくるその生々しい水音で、気が狂ってしまいそうだ。
「やっ……待、あ……!」
「感じてんのか? 声出すなっつったろォ」
「ん、んん……っ」
「ほら、耳ばっかに気を取られてんじゃねえよ」
「っ!」
男のもう片方の手が腰から尻への曲線を撫でている事に私は今更気が付いた。身体と身体が密着しているこの不自由な隙間の中でどうやったのかは知らないが、男はいつの間にか襦袢の裾を割り、私の脚を露出させている。
「さっきから脚モジモジさせてんの、自分で気付いてたかァ?」
「……っ! そ、そんな」
「欲しいんだろォ。これ」
男が私の手を取り、それに押し付ける。完全とまではいかないが、微かに存在を主張し始めているその感触に触れて、私は情けなくも生娘のように赤面してしまった。当然男は私のそんな様子を鼻で笑う。
「おいおい、そんなウブな反応してんじゃねえよ」
「そ……それより、いいんですか。何か聞きたい事があるんじゃ」
「あァ、いいわ」
「えっ……、あっ!!」
男の指は、いとも簡単にそこを探り当てる。軽く掬い取られただけで声を漏らした私を見下ろしながら、男は愉悦に満ちた邪な笑みを浮かべ、歪に口角を上げるのだった。
「身体に聞いちまった方が早そうだからなァ」