蝉声

中間考査、期末考査ともに、古文はほぼ満点を取った。

「降谷くん、今回もさすがだね」
「ありがとうございます」

回答用紙をわざとゆっくり受け取り、後ろ髪を引かれながら席に戻る。彼女ともっと話したい。そう思うのに、なかなかそんな機会は訪れてくれなかった。
 

新任である彼女は研修や出張で忙しく、授業時間以外も忙しなく働いているようだった。何かと理由を付けて職員室に行っても顔を見られることは稀で、景光の「学級委員になればセンセーと話す機会も増える」という目論見は完全に外れていた。
98という数字の上「素晴らしい!」と書かれた赤い文字に、胸がきゅんと疼く。たった一言でも、彼女から零だけに送られた大切な言葉だった。
 
「最高点は98、平均点は74点、40点以下の人は赤点です。赤点の人は明後日に追試があるので、間違ったところはよく勉強し直してくださいね。また、夏休みには補習授業があります。赤点の人は強制参加、他の人は自由参加です」
「えぇ〜…」

赤点を取ったのだろう。クラスメイトの声に交じって景光の声が聞こえたが、零は無視を決め込む。

「では皆さん、良い夏休みを。ちょっと早いけど号令」
「きりーつ、」

日直の号令で机や椅子を動かすガタガタという音が響く。

「れー、…ありがとうございましたぁ」

頭を下げ、彼女に礼をしたところでチャイムが鳴った。
もうすぐ、高校最後の夏休みだ。
 

「あの」

重たい辞典を何冊も抱えて歩く彼女を呼び止めれば、彼女は笑顔で「あぁ、降谷くん」と振り返った。シャンプーの香りだろうか。ふわりと鼻腔をくすぐる甘い匂いに、夏の暑さも相まってくらくらする。

「持ちます」

半ばひったくるように、彼女の腕から重い辞書を預かる。「え、あっ、でも」と慌てる彼女を押し切り、零は歩き出した。自分から動かなければ、これ以上の発展は見込めないと悟ったからだ。 

国語科準備室は、教室棟から少し離れた場所にあった。昼休みでも人通りの少ないそこは、二人だけの内緒話をするのに大変都合が良い。リノリウムの廊下をぺたぺたと並んで歩きながら、零はそっと口を開いた。

「…夏休みの補習授業、僕も出ていいですか」
「えっ」

前を向いたまま放たれた零の言葉に、彼女は平素から大きな瞳をより一層大きく見開いた。
驚くのも無理はないと、零も分かっている。学年トップである零が赤点組に交じって補習授業を受ける。それは、誰の目から見てもおかしな光景に違いなかった。

「授業やテストで分かりにくい所でもあった?」
「先生の授業はいつも分かりやすいし、楽しいですよ」

零の返答に、彼女の頬が微かに赤く染まる。生徒に授業を褒められて喜ぶ彼女を、素直に愛おしいと思った。

「そう言って貰えるのは嬉しいけど...。じゃあ、どうして補習に?理由を聞いてもいいかな」

彼女が心配そうに眉を寄せる。困った顔さえ可愛らしくて、もっと困らせてみたいという歪んだ気持ちが胸をざわつかせた。零が辞典を全て取り上げてしまったからだろう、手持無沙汰そうに後ろで手を組んだ彼女が口を開く。

「自由参加って言っておきながらこんなこと言うとあれだけど、学年トップの降谷くんが出てもあんまり勉強にならないかもよ?内容はあくまで赤点を取った子向けのおさらいだし…」
「構いません。基礎に戻ってやり直すのも勉強になりますから。...それにほら、ヒロの面倒も見なきゃでしょう?」
「…そう?諸伏くんは優しい友達がいて幸せだね」

了承しつつもどこか納得がいかないという顔の彼女に、零は心の中でほくそ笑む。夏休み中でも教師である彼女に会うためには、たとえ親友でも利用しなければならないのだ。

 
生徒に貸し出すための辞典などが置かれたその部屋は、本の日焼けを防ぐためいつもカーテンが閉められていた。薄暗く、古い紙の匂いの籠った部屋は、まるでサウナのようにじっとりと蒸し暑い。

「重いのに持ってくれてありがとう。助かりました」

辞書を受け取ろうとした彼女の首筋に、真珠のような汗が小さく光っていた。その粒を舌ですくい上げたいという衝動を、零は奥歯を噛み締めて堪える。先程の授業で首を擡げた下半身の熱はまだ引ききっていない。受け取った辞書を本棚に戻す彼女の背中を、零は生唾を飲んで見つめた。うっすらと透けた下着のラインから目が離せなくなる。 

全ての辞書を棚に戻した彼女は、ふぅ、と小さく息を付き額の汗をぬぐった。「あっついねぇ」彼女の瞳が零を映し、迷うように少しだけ揺れる。

「…そう、実は私からも、降谷くんに聞きたいことがあって」

どくん。零の心臓が大きな音を立てて跳ねた。

「へぇ、なんですか?僕に答えられるかな」

わざとおちゃらけた態度で零は口を開く。軽い口調とは裏腹に、心臓はばくばくと激しく鼓動を刻んでいた。

「…かくとだに えやは息吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる想ひを」

彼女の唇が、ゆっくりと和歌を読み上げる。そのぽってりとした唇が動く度に、零の背中は興奮でゾクゾクと震えた。
あぁ、きた。零は薄く微笑む。

「“あなたは知らないでしょう。私のこの燃えるような想いを”。名前は書いてなかったけど、あのお手紙の差出人は、降谷くんだよね…?」
 
夏虫の声が響く薄暗い部屋。彼女の丸い瞳が、蒼い瞳を真っ直ぐに見つめていた。
 
(蝉声…蝉の鳴き声)
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