羨星

五〇分という授業時間をどのように感じるかは、教師の腕にかかっていると思う。
面白い授業ならば集中して短く、つまらなければだらけて長く感じる。それは、新任教師だろうがベテラン教師だろうが関係のない事だ。
 

新任である彼女の授業運びは、決して上手とは言えない。たどたどしく、授業時間内に一コマ分の内容が終わらないこともしばしばである。
しかし、懸命に授業をする彼女の姿は本当に健気で、いつまででも見守っていたくなる。零にとって、彼女の授業はどの教師のそれより短く感じられた。
 
「春日野の 若むらさきの すり衣 しのぶの乱れ 限り知られず―…」

机と机の間をゆっくりと移動しながら音読する彼女を、教科書に目を落としながら気配だけ追いかける。
本当に、嵐のような恋だった。
古典作品を読む彼女の声は、凛としていながらとろりと甘い。これまでに何度彼女のことを想像し、自身でその昂りを慰めたことか。授業中であるにも関わらずふつふつと下腹部に熱が集まるのを、零はなんとか耐えなければならなかった。
教壇に戻った彼女が、教科書から目を上げる。

「伊勢物語の第一弾、初冠を読みました。この初冠とは元服、今でいう成人のことです。現在の日本では成人と言えば二十歳ですが、昔の成人はもっと早く、十一歳から十七歳くらいまでの間に行われることが多かったそうです」

昔だったら、皆さんももう大人の仲間入りですね。彼女の説明に、生徒数名が「へぇ〜」と頷く。その反応が嬉しかったのだろう、桜色の唇が嬉しそうに弧を描いた。その唇に触れてみたいと、零は強く思う。

「元服し、大人として認められた主人公が、塀の向こうにいる女性に歌を詠んで送ります。『私の心は、この衣のねじれ模様のように乱れています』と。とても情熱的ですよね。こんなラブレター貰ってみたいものです」

真面目な彼女の珍しい冗談に、生徒たちの間からクスクスと笑いが漏れた。自分で言った冗談に、彼女自身も顔を赤くして笑う。
笑わないのは、零だけだ。
 

ラブレターを貰ったことは、これまでに何度もある。「好きです」とか「付き合って下さい」と書かれた紙を目にするたび、零は溜息を吐いて景光に伝言を頼んだ。
親友づてに返す言葉はいつも同じ。「ごめん」だ。

零には絶対に叶えなくてはならない夢がある。警察官となり、この国を、日本を守っていくことだ。互いに想いあっている人ならまだしも、一方的に寄せられる想いに応えている時間は無い。
だからという訳でもないが、ラブレターを書いた経験も零にはなかった。携帯やパソコンが普及した現代で、わざわざ紙に書いて想いを伝えるなんて馬鹿らしいとさえ思っていた。そんなことをしたいと思う相手もいなかった。

 
しかし、今は違う。彼女には違う。彼女から「ラブレターが欲しい」なんて言われたら、たとえ授業中の冗談でも本気にしてしまう自分がいる。

「このように、昔の人々は歌や文を送り合ってお互いの想いを伝えました。女性は簡単に顔を見せられない時代だったので、まずは男性からアプローチをする場合が多いです」

先ほどの歌を板書する彼女の背中を見つめながら、零はシャープペンシルに力を込める。ぽきり。芯が折れ、ノートの端を汚した。
零の座る席からは、黒板に向かう彼女の顔色までは伺えない。教室という狭い空間、歩けばほんの数歩で彼女のもとにたどり着けるのに、授業中、しかも教師と生徒という関係がそれを許してくれなかった。

その背中を、後ろから抱きしめたい。
首筋に口付けたい。肌の匂いを嗅ぎたい。膨らみに触れ、もっと甘い声を聴いてみたい。
思春期の青い妄想は、春の嵐のように激しく吹き荒れる。
 
引き出しからルーズリーフを取り出し、シャープペンシルをノックする。カチカチ、という音がやけに響く気がした。指の先が白くなるほど力を込め、ゆっくりと手首を動かす。

かくとだに えやは息吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる想ひを
 
それだけ書いて放課後、彼女の靴箱に入れた。
 
(羨星…星を羨む。手の届かないものを羨むこと。また、自分もそうなりたいと願うこと。作者造語)
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