選姓

「貴様...っ、人の妻に何を...!」

吉田が腕を伸ばしてきたが、その手が私に触れることは無かった。吉田の手よりずっと早く、彼がその胸に私を抱き寄せていたからだ。

「生憎だが、貴方にこの人は渡せない」
「ふ...、降谷くん...」

懐かしい名前を呼べば、彼の瞳が嬉しそうに細められる。大丈夫ですよ、と唇が動いた気がした。好奇にどよめく観衆。プライドを傷つけられたのか、吉田の肩がワナワナと震える。

「花嫁泥棒のつもりか...!?安いドラマじゃあるまいし、そんな事が許されるわけないだろう!」
「許されない事をしているのはどちらでしょうね、吉田さん」
「はぁ...!?」

零はスーツの内ポケットから携帯電話を取り出し、吉田の目の前に突きつけた。どこかの映像をライブで映しているようだ。目を凝らして見てみれば、それは先日渋谷にオープンしたばかりの吉田の店だった。まるでマジックでも披露するかのように、零が携帯電話を招待客に見えるように掲げる。

「さて、吉田さん。二年前、新宿で経営していた飲食店で未成年の従業員に酒の接待を行わせましたよね」
「えっ...?」
「なっ...、何を言ってるんだ!」

あからさまに挙動不審になる吉田を、信じられないという目で見つめる。結婚するにあたり、前科があるという話を聞いたことはこれまでに一度もなかった。
零が「おや、お忘れですか?」と首を傾げる。

「当時十六歳の少女に酒を伴う接待をさせ、少女が急性アルコール中毒で病院に搬送されたことで事件が発覚した。その一件で前科が出来てしまった貴方は、新たに立ち上げるはずの店で営業許可を取る事が出来なかった。先日立ち上げた渋谷の新店、名義は貴方ではありませんよね。他人名義での営業は名義貸しという立派な犯罪です」
「そんな、...信じないでください皆さん!全てデタラメです!」

招待客にむかって吉田が大声で弁明する。しかし、誰も吉田の話など聞いていなかった。

「つい先ほど、知り合いの警察関係者が貴方の店に突入しました。いわゆるガサ入れというやつですね。表は普通の飲食店として営業しつつ、裏では上客相手に未成年をあてがっていた。...しかも今度は酒だけでなく、性接待までさせている。名義貸し、未成年への淫行の斡旋、脱税疑惑もありますね。一体いくつの法律違反があるのでしょうか」
「な...、何かの間違いだ!違うんだ...!皆さん、信じてはいけません!なぁ、みょうじは俺を信じてくれるだろう?」
「気安く彼女の名前を呼ばないでもらえますか」

ぎらり、獰猛な狼のような瞳が吉田を射抜く。その眼差しに逃げられない事を悟ったのか、吉田はがくりと膝をつき、そのまま動かなくなった。


遠く、微かにパトカーのサイレンが聞こえる。
教会とは不釣り合いなその音に、私は心から安堵した。





吉田が連行された事で、結婚式は勿論中止となった。
招待客に何度も頭を下げ、青い顔をした両親をタクシーに乗せる。ドレスを脱ぐと、驚くほど身体が軽く、まるでそのままどこかに飛んでいってしまいそうだった。
ふわふわとした意識のままエントランスへと歩み出れば、そこには記憶より少しだけ大人びた彼がポケットに両手を入れて待っている。「先生」と呼ぶ声が涙が出るほど懐かしかった。

「ホテルを手配しました。とりあえず今日の所はそちらへ」

相変わらず、何から何まで気の利く事だ。力なく頷けば、駐車場に停められた白いスポーツカーへと案内される。二人して車に乗り込むと、後ろの座席から彼が何かを取り出した。遠足に持っていくような保温水筒だ。蓋を外し、湯気のたつ液体を注ぐ。

「どうぞ」

目の前に差し出されたステンレス製のコップを、ぼんやりとしたまま受け取る。冷えた指先がじんわりとあたたまり、いい香りに誘われるようにゆっくりと口をつけた。彼の髪色と同じ、砂糖のたっぷりと入った甘いミルクティーだった。

「...おいしい」

素直にそう口に出せば、彼は運転しながら「おかわりもありますよ」と言う。こんな時なのに思わず笑ってしまい、ほっ...と息を吐いた。

聞きたいことが沢山あった。

どうやって私が結婚する事を知ったのか。
なぜ、来てくれたのか。
なぜ、彼が逮捕される事を知っていたのか。
また、今、どんな仕事をしているのか。
諸伏くんは元気か。
素敵な人とは出会えたのか。

しかし、そのどれもがどうでもいい気がした。

移り変わる景色を眺めながら、もう一口ミルクティーに口をつける。式も披露宴も二次会もなくなったため、朝から何も食べていないお腹に優しい甘みが沁み渡るようだった。一口、また一口とカップに唇をつければ、彼は前を向いたままゆったりと微笑む。

「気に入って貰えましたか?僕の淹れたミルクティー」
「...えぇ、とっても」

これまで飲んできたミルクティーの中で一番美味しいと言っても過言ではない。そう伝えれば、彼はハンドルをぎゅっと強く握る。

「なんだったら、毎日でも飲ませてあげますよ」
「えっ」

それってまるでプロポーズのようではないか、と一瞬言葉に詰まる。「お前の作る味噌汁が毎日飲みたい」ではなく、彼が毎日淹れて飲ませてくれるのか。想像し、また笑ってしまう。
高校生の時から、彼は真面目なシーンでわざと軽い態度を取る事があった。きっと今回も彼なりの冗談なのだろう。そう思って彼の方を伺えば、色気のある流し目に射抜かれてドキリとする。

「言ったでしょう?ずっとずっと貴女だけだと。いつか迎えに行くと」
「...本気なの?」
「僕はいつだって本気ですよ。今も昔もね」

彼の言葉が冗談でないと分かると、途端に何を話せばいいのか分からなくなってしまう。そこからは二人とも一言も口をきかなかった。

キッ、と音を立て、ホテルの前で車が停車する。運転席を降りた彼は、慣れた手つきで外側から助手席のドアを開けてくれた。降りる時私が頭をぶつけないよう、自身の手でガードまでしてくれる。「...ありがとう」礼を言って車から降りれば、彼はなんでもないように「いえ」と口を開く。

「今日は色々ありすぎて疲れたでしょう。どうかゆっくり休んでください。フロントで僕の名前を告げれば案内して貰えるはずですから」
「うん、その、なんて言ったらいいんだろう。ありがとう、かな。色々ごめんなさい」
「どういたしまして。明日朝十時にまた迎えに来ます。...−考えておいて下さいね」

含みのある言い方に困惑し、思わず眉を寄せる。そんな私に、彼はまるで学生の時と同じように口を開いた。

「さよなら、先生。また明日」

そう言い残し、さっと車へと戻ってしまう。彼の車が大通りへ消えていくのを、私は黙ったまま見送った。


(選姓...自分の所属すべき場所を選ぶこと。作者造語)
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -