にゃあと鳴き濡る
「...最近、なまえさんの様子がおかしいんです」
千寿郎がそう口にしたのは、義姉であるなまえがほんの一時、食事の後片付けで席を外した時の事だった。弟の深刻そうな面持ちに、杏寿郎は備前の湯呑みをゆっくりと机に戻す。上弦の参との戦いで柱を引退して以降、恋人であったなまえと祝言を挙げ、父と弟の住むこの屋敷へと戻ってきた。つい先程も四人でわいわいと夕飯を共にしたばかりだ。
「おかしいとは?」そう弟に問う声は、杏寿郎自身も驚くほど鋭利だった。優しい兄の剣幕にいつも以上に眉を下げながら、千寿郎はおずおずと口を開く。
「兄上が鬼殺隊の方々に稽古をつけに行っている間、俺となまえさんが街へ買い物に行っているのは兄上もご存知ですよね?」
あぁ、と杏寿郎は頷く。本当は杏寿郎も一緒について行きたかったのだが、隠居仲間である宇髄が「たまには身体動かさねぇと足腰と一緒にアッチまで勃たなくなるぜ」と度々絡んでくるため、仕方なく柱稽古に顔を出すことにしたのだ。
仕方なくとは言いつつも、後進を育てるのはやはり楽しい。日暮れまでみっちりとしごいて屋敷へと戻れば、妻と弟が作ったあたたかな料理が杏寿郎を出迎える。
内気だった弟には格段に笑顔が増え、父とのぎくしゃくとした関係も日を追うごとに良くなっている気がした。家に女性がいるという事はそれだけでこんなにも場の空気を柔らかくするのかと、杏寿郎はしみじみ感心したものだ。
...しかし、どうやらその最愛の妻には、夫にも言えぬ秘密があるらしい。
千寿郎は言葉を続ける。
「三丁目のかどに魚屋さんがあるんですが、なまえさん、その辺りでいつも消えるんです」
「消える、とは?」
「ちょっと忘れ物、とか、買いたいものがあるから、と理由をつけていなくなってしまうんです。最初はそんなこともあるのかな、と全く気にしていなかったのですが...」
「段々とそういう日が増えてきた、と?」
「はい。気になってこっそり追いかけた事もあるのですが...。すみません、撒かれてしまって...」
「ほぅ、さすがは俺の妻だな」
「申し訳ありません...」
気にするな!と笑顔で弟の頭を撫でながらも、杏寿郎はぐるぐると考えを巡らせていた。
男所帯に女一人。確かに息抜きは必要かもしれないが、千寿郎が心配するほどとなると気がかりなのも確かだ。
何か良くない事に巻き込まれているのか。人の良い彼女の事だから、自ら危ないことに首を突っ込んでいるとも考えられる。
「なまえの事だから、きっと何か事情があるのだろう。俺の方でもそれとなく探ってみるとしよう!」
「お力になれず申し訳ありません...」
「何を言う!千寿郎が教えてくれなかったら、俺は妻の異変にも気がつかぬままだった!千寿郎がいてくれるからこそこそ、家族みんなで幸せに暮らすことが出来ているんだ」
もっと自信を持て!と杏寿郎が肩を叩けば、弟の顔にもやっと笑顔が戻る。しっかりしているとは言え、幼い弟にまたも一人で抱え込ませてしまった事を、杏寿郎は申し訳なく思った。
すると、ちょうど二人の会話が途切れたタイミングで後片付けを終えたなまえが居間へと戻ってきた。菓子の乗った盆を手に「食後の甘いものはいかがですか?」と笑顔で首を傾げる。兄弟二人は顔を輝かせて「食べる!」と声を揃えた。
「甘露寺さんから美味しいカステラを頂いたんです。はい、どうぞ」
「わぁ、美味しそうですね!」
「あぁ、本当に美味そうだ!」
カステラの乗った小皿を受け取る時、杏寿郎となまえの指先がほんの少しだけ触れ合う。一瞬でも頬を染めてくれないか、こちらを見て微笑んでくれやしないかと杏寿郎は期待したが、なまえは何事も無かったかのように手を引き、夫の湯呑みに新しい茶を注いだ。
...なまえは何を隠しているのだろう。それは夫である自分にも言えない事なのだろうか。
そう思うと、ふわふわなはずのカステラが口の中で嫌にざらつくのだった。
▽
「では、行ってくる!」
そう言って杏寿郎が玄関の戸を開ければ、見送りに出たなまえが「いってらっしゃいませ」と柔らかく微笑む。柱稽古も終盤。今日はどんな風に後進たちをしごこうかと杏寿郎が考えていると、妻が戸に立てかけてあった蛇の目をそっと差し出した。
「今日は昼頃から天気が崩れるかもしれません。持っていってください」
「あぁ、すまないな。夕飯までには必ず戻る」
「はい。もし遅くなりそうな時は要を寄越してくださいね。杏寿郎さんも、くれぐれもご無理なさらず」
「分かっているとも。これでも隠居の身だからな。無茶はしないさ」
そう言ってほんの少しだけ屈めば、なまえはハッとしたように辺りを見回す。誰もいない事を確認したのだろう、そっと夫の頤に手を伸ばすと、精一杯背伸びしてその頬に口付けた。
以前、二人で街を歩いていた時に見かけた異国の男女が交わす挨拶だった。最初は「あんなはしたない事は出来ません!」と断固拒否していたなまえに「ならば二人きりの時だけならどうか?」と杏寿郎が食い下がったのだ。
なまえの柔らかな唇が、音もなく男の肌から離れる。何度しても慣れないのだろう、恥ずかしそうに視線を逸らす妻を、杏寿郎は心から愛おしく思った。
昨夜の千寿郎の言葉に、“もしやどこぞの男と逢引きでもしているのでは”などと一瞬でも考えた己が恥ずかしい。夫のためにここまでしてくれる妻が、自分や家族を裏切るはずがないではないか。
とはいえ、心配なことに変わりはないが。
「では、今度こそ本当に行ってくるぞ!」
「はい、お気をつけて」
そう言って門を出た杏寿郎は、なまえが家に戻った事を確認するとすぐに屋敷の裏手へと回った。裏の木戸には既に千寿郎が待機しており、戻ってきた兄を再び屋敷へと招き入れる。
時が来るまで適当な所に身を隠し、買い物にこっそりついて行く。兄と弟で考えた秘密の作戦だった。
杏寿郎が見守る中、なまえと千寿郎は実にテキパキと家事を片付けていった。父を起こし、布団を片付け、家中を掃除してまわる。普段は見る機会の無い我が家の日常風景を、杏寿郎は柱の影からじっと覗いていた。
「雨が降ってくるとお買い物も大変だから、今日は少し早めに出よっか」
そう言ってなまえがほっかむりを取ったのは、杏寿郎が家を出てからちょうど一時間が経った頃だった。「そうですね」相槌を打った千寿郎が、ひょいと首を傾けて窓から空を見上げる。灰色の大きな雲がゆっくりと流れていく所だった。
「今はまだ降っていませんが...。傘はどうします?」
「傘ってあると邪魔になるし、無かったら無い困るんだよねぇ。かと言って出先で買うのも勿体ないし...」
「では、一本だけ持っていくというのはどうですか?もし雨が降ったら半分半分で入るという事で」
「わぁ、相合い傘だね!そうしよう!」
妻と弟の可愛らしい会話に、思わず杏寿郎の頬も緩む。本当なら自分がなまえと相合い傘をしたい所だか、今回ばかりは弟に役目を譲る事にした。
▽
並んで歩くなまえと千寿郎は見た目こそ似ていないものの、本当の姉弟のように仲睦まじく見えた。街までの道すがら、二人で相談しながらその日の献立を考え、必要な食材を揃えていく。八百屋でとうもろこしと胡瓜を、肉屋で牛肉と鶏肉を、魚屋で鯵を買った所で、ついになまえは足を止めた。
「ごめんね千寿郎くん、ちょっと先に帰っててくれる?買い忘れたものがあって...」
義姉の言葉に、千寿郎は「えっ」と買い物袋を握りしめる。ちらり、弟の視線を受け、杏寿郎はこくりと頷いた。それを受け、千寿郎もこくりと顎を引く。空には鉛色の雲が重く立ち込め、今にも雨が降ってきそうだ。
「...わかりました。でも、傘はなまえさんが持っていってください。もうすぐ雨が降りそうですから」
「大丈夫だよ。すぐ追いつくし、万が一雨が降ってきた時に買った物が濡れちゃうと困るでしょう?」
でも...!と口ごもる千寿郎に、なまえが優しい手付きで蛇の目を握らせる。「ほんと、すぐ戻るから!」と駆け出した妻を、杏寿郎は気付かれぬように追いかけた。
なまえを追って杏寿郎がたどり着いたのは、白木の鳥居を掲げた小さな神社だった。なまえはキョロキョロと辺りを気にしながら、小走りで本殿の裏へと姿を消す。
あまり近づきすぎては尾行がバレてしまうかもしれない。そう思った杏寿郎は、すぐ近くに植えられた生垣に身を隠した。そっと耳を澄ませば、すぐに妻の声が聞こえてくる。
「待たせてごめんね」
走ったからだろう。はぁはぁと弾んだ息でそう言った妻に、杏寿郎は心臓が止まりそうになった。こんな人気のない場所で、なまえは誰と会っているというのか。往来では会えぬとなれば、それはやはり...−−。
自分でも無意識のうちに杏寿郎は自身の右頬を撫でる。そこは今朝、なまえが真っ赤な顔で口付けた場所だ。
「会いたかった。ずーっとずーっとこうしたかったの」
妻の甘えるような声音に杏寿郎の喉がごくりと上下する。ぽつり。ついに降ってきた雨粒が、杏寿郎の広い額を打った。ぽつり。ぽつり。傘を持っていることも忘れ、杏寿郎はじっとその場に立ち尽くす。
「...ずうっと一緒にいられたらいいのにね」
降り出した雨の音に、妻の泣きそうな声が重なる。
それは、杏寿郎が今一番聞きたくない言葉だった。最愛の妻が自分以外の男にしなだれかかっている様を想像し、杏寿郎はぎゅっと唇を噛み締める。
不甲斐なかった。
今思えば、なまえには出逢った時から迷惑をかけてばかりだった。
柱である時はろくに家にも帰れず、鬼との戦いで負傷した時など、その薄い身体のどこにそんなに水分があるのかと思うほど泣かせた。それほど心配を掛けたのだ。
やっと祝言を挙げて少し落ち着くかと思えば、今度は杏寿郎の実家で家族との同居が始まった。近くに知り合いも居らず、慣れない事ばかりでさぞかし大変だっただろうに。
そんななまえを、自分は夫としてきちんと支えられていただろうか?杏寿郎は自信が持てない。最近は柱稽古にかまけて、夫婦で過ごす時間まで減っていた。愛想を尽かされても仕方がない。しかし、なまえを失う事だけは絶対に受け入れられない。
一度でいい。名誉挽回の機会が欲しい...!
「なまえッ!!」
我慢できず、ついに身を乗り出した杏寿郎が見たのは、驚いた顔でこちらを振り返る妻の姿だった。「きょ、杏寿郎さん!?どうして此処に...っ!」その細腕の中に蠢くものに、杏寿郎の目は釘付けになる。
ピンと立った両耳にするりと長い尻尾。ふくふくとした茶色い身体に、琥珀に似たまぁるい瞳がキラキラと輝いている。
「.......猫?」
杏寿郎の言葉に応えるように、子猫はニャァンと気の抜けた声で鳴いた。なまえの胸元に身体を擦り付け、甘えるようにゴロゴロと喉を鳴らす。
辺りになまえ以外の人影は無い。「...どういうことだ?」杏寿郎の問いかけに、なまえはきゅっと下唇を噛んだ。やがて観念したようににポツポツと口を開く。
「ひと月ほど前、買い物帰りに偶然この子を見かけまして...。あまりの可愛さに放っておけなくなってしまったんです。それで、こうして時々餌を...」
見れば、なまえの足元には煮干しのような小魚が散乱している。魚屋のすぐ裏手には鰹節や干物を取り扱う乾物屋があったことを杏寿郎は思い出した。
「そう...、だったのか」
「はい。連れて帰ろうかとも思ったのですが、猫はイタズラもしますし、もし千寿郎くんを引っ掻きでもしたらと心配で...。何よりお義父さまがあまりいい顔をしないのではないかと...」
「そうか...。その...、」
「はい?」
「いや、なんでもない。とにかく今は猫だな。猫の話だ」
そう言って、杏寿郎は口元を手で覆う。流石に“俺が不甲斐ないせいで、君が他の男に走ったかと思った”とは言えそうになかった。
雨が本降りになり始め、杏寿郎はやっと自分が傘を持っていた事を思い出す。大きな丸の描かれた赤い傘を開き、そっと妻の方へと傾ければ、子猫と同じように濡れた瞳で妻が夫を見上げた。
「...やっぱり、連れて帰るのは難しいでしょうか」
そんなふうに上目遣いで言われてしまっては、杏寿郎の方だって困ってしまう。
なまえが餌をやるのをやめれば、すぐに消えてしまうような小さな命。しかし、当の子猫はと言うと、安心しきった表情でなまえの腕の中に収まっている。柔らかな腹を上に向けくぅくぅといびきをかいていた。
「可愛いな」自然とそんな言葉が口をつき、なまえも「はい」と切なげに笑う。
...−最愛の妻がこれほどまでに可愛がっているのなら。
「...連れて帰るか」
杏寿郎の言葉に、なまえは驚いた顔で目を見開いた。「いいんですか...?」あまりの嬉しさに呟くようにそう問えば、優しい夫が笑いながら猫の腹をくすぐる。
「君を悲しませる事は、俺の道理に反する」
そう言いながら、杏寿郎は懐から綺麗に折り畳まれた手拭いを取り出す。自分の責務は目の前の女性を幸せにする事だと、改めて思った。
雨か、それとも涙か、妻の濡れた頬を押さえると、なまえは感極まったように夫の胸に飛び込む。
「杏寿郎さんが旦那様で良かった...!」
そう言って笑うなまえの頬に、今度は杏寿郎が口付けた。
▽
突如として現れた小さな猫に最初は異を唱えた槇寿郎だったが、杏寿郎の「なまえの息抜きのためにも」「いつか生まれる子供の兄弟として」という必死の説得に、最後には「好きにしろ」と渋々飼うことを了承した。
杏寿郎と千寿郎がベタベタと撫で回すからだろうか。猫は餌をくれるなまえの次に、縁側で茶を啜る槇寿郎に懐くようになった。
刀しか握ることのなかった節くれ立った手が、おずおずと子猫の喉を撫でる。
そんな様子を、三人は障子の隙間から微笑ましく見守っていた。