いとおしくってむずむずしちゃう
『あーもしもし?レンゴクのカノジョサンっすか?』
スピーカーから聞こえてきた見知らぬ人の声に、なまえは慌てて耳に当てていた携帯電話を離した。つるりと平らなディズプレイに表示されているのは、間違いなく自身の恋人の名前だ。煉獄さんから電話だ!とウキウキしながら通話ボタンを押したものの、聞こえてきたのが恋人とは違う、荒っぽいのにどこかセクシーさのある男の声で、なまえは大いに戸惑った。
『もしもーし、もしもーし?...あれ?コレちゃんと聞こえてっか?』
「はい、聞こえてます。えっと、あの、」
どちら様でしょうか?
そう問い返せば、男は『キメ学で美術教えてる宇髄でーす!』と大きな声で名乗る。まるで語尾に星マークでも付きそうな自己紹介だ。そして、その名前には聞き覚えがないでもない。
中高一貫校で社会科を受け持つ恋人・煉獄杏寿郎の同僚。生徒達から“輩先生”と恐れられている人物。確か今夜、彼が一緒に飲みに行くと言っていた相手だ。
どうして恋人の携帯からその同僚が電話をかけてくるのか。なまえは身構えるように電話を抱え直す。
『実はですねぇ、ちょっと俺が飲ませすぎちまって、煉獄の奴ベロベロでェ』
「は、はぁ...」
『申し訳ないんですが、今タクシーでオタクに向かってる最中なんスわ』
「えっ、ウチにですか?!」
宇髄の言葉に、なまえは思わず大きな声をあげる。
そろそろ同棲でも...という話こそ出ているものの、なまえと杏寿郎は今はまだ別々に暮らしている。彼が帰るべきはここから数キロ先に建つ彼のアパートであって、既に寝支度を整えているなまえの部屋ではない。
また、恋人である杏寿郎と酒を共にしたことは何度もあるが、彼が酔った所など今までに一度も見たことがなかった。一度でいいから酔った所が見てみたい。そう思って次々とお酒を頼んで困らせた事もあったが、先に潰れたのはなまえのほうだ。
こちらが戸惑っている気配を察したのだろう。電話の向こうで宇髄がわざとらしく『困ったナー』と言う。
『煉獄のヤツ、「なまえの所に行く!」っつって聞かないんスよね。ウチに連れて帰っても良いけど、一応ウチにも嫁がいるもんでねー』
部屋の時計を見上げれば、時刻はもう23時近い。こんな時間に酔っ払いを家にあげるなんて、もし自分が妻だったら絶対に嫌だろう。
普段は介抱する側であるはずの彼が、なぜそこまで酔っ払ってしまったのか。疑問は尽きないが、彼の為にもこれ以上人様にご迷惑をお掛けすることは避けたい。
「...わかりました。ウチに連れてきてください。住所はご存知ですか?」
『助かるわー!部屋の住所は煉獄から聞いたからダイジョブ。あと十五分くらいで着くんで!はーい、スンマセーン』
全く謝罪を感じさせない声音で宇髄は言い、ぷつりと通話が途切れる。...あと十五分で部屋を掃除し、寝間着を着替え、見苦しくない程度に化粧をする。そんな事が果たして可能だろうか。
やるしかないと自分に言い聞かせ、私は携帯をベッドの上に放った。
来客を知らせるチャイムがなったのは、ちょうど化粧を終え、色付きのリップクリームをポーチに戻した時だった。念のためドアスコープから外廊下を覗けば、そこにはぐったりとした恋人に肩を貸す派手な見た目の大男が立っている。本当に潰れてる、となまえは慌ててドアチェーンを外した。
「電話した宇髄っス!いやー、夜分遅くにすんませんね彼女サン!」
ドアを全開にすると、宇髄は「シツレイしまーす!」と狭そうに玄関を潜り、上り框にどさりと彼を下ろした。
当の本人はというと、やはり酷く酔っているらしい。まるで寝言のように「すまんうずい...、すまんなまえ...」と繰り返している。いつもはきっちりと絞められたネクタイも今日はかろうじて首に引っかかっているという状態だ。
「あー疲れた」
ゴキゴキと音を立てて首と肩を回しながら、宇髄はほとんど酔いを感じさせない瞳でなまえを見る。不躾なまでに上から下までジロジロと見られ、なまえはちょっと怖くなった。
「...ナルホドねー。道理で煉獄が不安がるわけだわ」
「えっ?」
一体なんの話だろう。そう思って宇髄を見上げれば、男の美しい口元がニッと弧を描く。
「煉獄のヤツ愚痴ってたぜ。「なまえが綺麗すぎて困る」ってよ。なァに寝ボケた事言ってんだコイツって笑って聞いてたが驚いたぜ。マジで派手に美女じゃねーか」
「そんな、滅相もないです」
自分の事を美人だと思ったことは無い。むしろ目の前の宇髄の方が余程綺麗な顔をしているとなまえは言い返したが、宇髄は「あー、そういうのいいから」と興味無さげにいなしただけだった。どうやら容姿を褒められるのは慣れているらしい。
「じゃ、俺はこの辺でドロンするわ。下にタクシーも待たせてっしな。今度は三人で飲もうって煉獄にも言っといてくれ」
「あ、はい!」
「おやすみ。煉獄がいるとは言え、ちゃんと戸締りしろよ」
「はい、本当にありがとうござました。あの、お気をつけて」
「うーぃ」
そう言って、宇髄は幾つものシルバーリングが光る指をひらひらさせる。なまえはその後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、言われた通り玄関に鍵とチェーンをかけた。
後ろを振り返れば、そこには相変わらず上がり框に寝そべったままの恋人がいる。「煉獄さん、煉獄さんってば」筋肉質な肩を軽く叩いてやれば、杏寿郎はうっすらと目を開けた。
「う...、なまえ...?」
「そうですよ。立てますか?お水持ってきましょうか?」
「いや......宇髄は?さっきまで一緒に酒を...、」
「宇髄さんならもうお帰りになりましたよ」
「そうか...それで、此処は?」
「私の部屋です。煉獄さんが「なまえの所に行く!」って言ったんじゃないですか」
「そうか...そうだったな....そうだ...」
そう言って、杏寿郎はだるそうに目を瞑る。きっとこんなに酔ったのも久しぶりなのだろう。少しでも身体を楽にしてやろうと、なまえは革製の腕時計を外してやった。同じようにベルトのバックルも外し、緩めてやる。
「私と飲んだ時は全然大丈夫だったのに...。一体どれくらい飲んだんです?」
「...覚えていない。ただ、宇髄が「メニューの上から下まで制覇しようぜ!」と言うから...つい...」
恋人の言葉になまえは思わず「うわぁ」と声に出してしまう。まるで酒を覚えて間もない学生のような無茶な飲み方だ。さすが輩先生、と感心していると、なまえの腰に太い腕が絡みつく。
「わっ、ちょっと煉獄さん?」
「すまない、なまえ、迷惑をかけて...」
「それは別にいいんですけど、...っ?!」
腰に回った腕に引き倒されるように、なまえまで上り框に寝転がされる。かと思えば、シャツの裾から忍び込んできた大きな手が、ブラジャーの上からその柔らかな膨らみに触れた。まるで後ろから包み込まれるように抱かれながら「なまえ、したい」と囁かれれば、熱い息に身体がびくんと跳ねる。
「ちょ、煉獄さん...!?」
「...我慢出来ない。此処でしたい」
「こ、ここでは...」
駄目、というなまえの言葉を無視して、杏寿郎の舌は恋人のうなじを舐め上げる。ぐ、とお尻に固いものが当たり、なまえは思わず息を飲んだ。
「やはり駄目だろうか」
「うっ...、あの...」
「なまえが嫌ならやめる...。......いや、やっぱり無理かもしれん」
不思議な表情だった。叱られた子犬のような、それでいて餌を前にした猛獣のような。
そしてそんな顔をされてしまうと、こちらとしてももうどうすることも出来ないのだ。
本来であれば、こんな無体を許すわけにはいかない。しかし、普段なら絶対にありえないシチュエーションだからこそ、そんな恋人を可愛いと思ってしまう事もあるわけで。
ゆっくりと向かい合って上気した頬を撫でてやれば、杏寿郎はその大きな瞳を猫のように細める。重なり合う唇。彼の舌に残ったアルコールに、こっちまでくらくらした。