その墓のどれかに僕がいる
生贄、身代わり、スケープゴート。
人柱、犠牲者、人身御供。
どれでもいい。とにかくその日、僕らは自分たちが助かりたいがために彼女...−みょうじなまえを差し出した。
「学級委員長をやりたい者はいるか」
冨岡先生の抑揚のない声音に、それまでぺちゃくちゃとお喋りをしていた僕たちは一斉に口を噤んだ。このLHRが始まってから何度も「口を閉じろ」「無駄話をするな」と怒られていたのに、こんな時ばかり静かになる僕たちに先生は溜息を吐いた。だって仕方がないだろう。学級委員長...−別名・先生方の下僕に自ら名乗りを上げる者など、この捻くれ者だらけの学園に一人だっているはずがない。
中高一貫校であるキメツ学園。県内随一のマンモス校であり、生徒のみならず教師陣まで何かと大変なこの学び舎の一クラスを纏めるのがどれ程大変な事か。想像するだけで身の毛がよだつ。
冨岡先生もこうなることを予想していたのだろう。「立候補するものがいないなら推薦でも良い。誰か相応しいと思う者はいないか」と無表情のまま言った。そのやや投げやりとも取れる言葉に、クラスの何処からかボソリと「みょうじさん」という声が上がる。
「えっ?」
名前を呼ばれた女子生徒はびくりと肩を震わせ、顔を真っ青にして辺りを見渡した。みょうじなまえ。男子生徒の間で密かに人気のある、落ち着いた印象の女子生徒だった。かく言う僕も憎からず思っているのだが、とりあえず今はその話は脇に置いておきたい。
不安なのだろう、怯えるように胸の前で手を握る彼女を、僕は廊下側最後尾の席から頬杖をついて見つめていた。誰が彼女を名指ししたのかは分からない。しかし、自分以外の誰かが選ばれる事を察知したクラスメイトたちは、これ幸いと「いいよな」「うん、いいと思う」「みょうじさん真面目だしね」「そうそう」「いいと思いまーす」と口々に彼女を褒めそやした。
そんなクラスを「静かにしろ!」と再び一喝した後、冨岡先生はほんの少しだけ眉間に皺を寄せてみょうじさんに問う。
「みょうじ。このようにお前を推薦する声が多いが、お前自身はどう思う」
先生の言葉に、みょうじさんは顔を青くしながら俯いたままだ。そんな彼女を三十八対の瞳が固唾を飲んで見つめていた。言わずもがな、僕も。
「やりたくないならやりたくないと正直に言え。その場合は公平を期してくじ引きでもすれば良い話だ。しかし、これだけお前を慕う声があるのもまた事実。どうする?」
「......やります」
みょうじさんの言葉にクラス中がわっと歓声を上げ、拍手を送った。...可哀想に。先生も先生だ。あんな言い方をしたら彼女が断れるはずないのに。
そう思っている間にも、彼女は古びた椅子からおずおずと立ち上がる。相変わらず青い顔をしたまま黒板へと向かうと、冨岡先生が書いた学級委員長という文字の下におずおずと自分の名前を書き足した。
振り返った彼女の顔には未だ“どうして自分が委員長に?”という疑問が色濃く残っている。それでもそういう性分なのだろう、気丈に顔を上げた彼女がまるで内側からぼんやりと発光しているように輝いて見えた。
「では...、副委員長をやりたい人いますか?」
消え入りそうな彼女の声に、僕はゆっくりと手を上げた。
▽
「今日は前回の続き、教科書56ページからだ!武力での天下統一を目指す織田信長は...」
最後尾に座る僕でも耳が痛くなるほどの大声で、今日も煉獄先生の授業は進む。先生の授業は大抵前半が座学、後半が騎馬戦だ。煉獄先生の事は特段嫌いではないが、歴史上の人物になりきっての騎馬戦は正直言って面倒くさかった。
教科書に目を落とすふりをしながら、僕はいつものようにみょうじさんを見つめる。昼休みを終えて5限目、空腹も満たされ眠たげな空気が教室中に漂う中、みょうじさんだけが今日も熱心にメモを取っていた。本当に良くも悪くもイイコだよなぁと思う。
委員会決めをしたあの日、僕は結局副委員長になり損ねてしまった。僕の他にも三人の男子が立候補しており、皆天井に届かんばかりに手を挙げていたのだ。
学級委員長はやりたくないが、委員長であるみょうじさんの補佐はしたい。そんな邪な思いで挙手した僕たちに物申したのは、意外な事にクラス一の問題児・謝花梅だった。
「...一番大変な役オンナに押し付けといて、なに自分等はラクなとこでヘラヘラ手ェ挙げてんのよ」
窓際最後尾から放たれた地を這うような声音に、教室内の気温が一気にマイナスまで下がった気がした。謝花さんはその長い脚をだぁん!と机の上に投げ出すと、形の良い眉を吊り上げて僕たちを睨む。
「なまえが委員長に決まった途端さぁ...、なんなの?アンタら。内申?それともなまえの彼氏ヅラしようって魂胆?」
「なっ、別にそんなつもりじゃ...!」
三人のうちの一人が心外だとばかりに声を上げたが、謝花さんがひと睨みすればたちまち口を噤んだ。この学園で最も怒らせていけないのは謝花梅、そしてその兄の妓夫太郎である。
「ブッサイクのくせの厚かましい。そうやって女を食い物にするような奴が、あたしは一番嫌いなのよ。自分の顔がどの程度のもんか、もっかいトイレの鏡で見直してくれば?」
「う、梅ちゃん...」
あまりの言い様に思わず、というようにみょうじさんが口を開く。しかし、当の謝花さんがそれ以上の言葉を許さなかった。
「あたしがやる」
「え?」
「あたしが副委員長やるっつってんの!聞こえてんでしょ!?さっさとそこにあたしの名前書いて!」
「でも...」
「いいから!」
そう言うなり、謝花さんはみょうじさんの手からチョークをもぎ取ってしまう。ガツガツと音を鳴らして自分の名前を親友の横に書き足すと、フンと鼻を鳴らして自席へと戻っていった。皆が呆気に取られるなか堂々と目を瞑った彼女は、その後昼休みまで目を覚ますことはなかった。
ポコ、と何か柔らかな物が頭にぶつかった感覚にハッとする。恐る恐る顔を上げれば、そこには丸めた教科書を片手にこちらを見下ろす煉獄先生がいた。
どうやら随分と気を抜いていたらしい。先生の分厚い身体が目の前にあるのに、回想に夢中で全く気が付かなかった。
「もしこれが刀だったら君は斬られていたな」
普段ならにこやかに微笑んでいるはずの煉獄先生が今は、...いや、今だってにこやかに微笑んではいるのだけれど、目だけが全く笑っていなかった。梟のような丸い目がぎょろりとこちらを見下ろし、そのあまりの冷たさに僕の背中を冷たい汗が伝う。
「注意力散漫だぞ!集中!」
「...は、はい」
「わかれば宜しい!さぁ、授業を続けるぞ!」
慌てて姿勢を正した僕に、クラス中から忍び笑いが起こる。煉獄先生のあの目はなんだったのだろう。知らぬ間に随分と進んでいた教科書を捲りながらそっと視線をずらせば、なんとみょうじさんまで僕を見てクスクスと笑っていた。なんだかかっこ悪いところを見せてしまったな、と少し後悔する。
見れば、笑い溢れる教室には他にも頭を押さえている生徒がいる。その顔ぶれはまさにあの日、副委員長に立候補した面々だった。