バッドロマンス・グッドエンド


「なまえはまだ臍を曲げているのか?」
「はい。お部屋の外から何度もお声がけしたのですが、一向にお返事は無く...。すみません、俺の力不足で...」
「千寿郎が謝る必要は無い!元はと言えば、俺がなまえの分まで飯を食ってしまったのがいけないんだからな!」
「部屋の前におむすびでも置いておきましょうか。もしかしたらそのうち召し上がるかも...」
「なに、腹が減れば自分から出てくるだろう!さぁ、俺たちは客人を出迎える準備だ!」
「はい、兄上」

そんな似ているようで似ていない兄弟二人の会話を、私は自室の文机に突っ伏して聞いていた。屈辱的な気分だった。
なにも食事を取られたから臍を曲げている訳では無いのだが、最早その誤解を解く気力すら今の私には残っていない。解いた所で今のこの状況が変わる訳でもない。そう思うと、もうそのままでいいかと投げやりな気持ちになった。

なんとか上体を起こし、文机の引き出しから便箋と万年筆を取り出す。まるで私の心から汲み上げたような暗い青色のインクを使い、出来る限りペン先に感情が乗らないよう短く文を認めた。ぱちん。万年筆のキャップを閉じれば、そこにはたった三行の言葉が並んでいるだけだ。これでいい。そう自分に言い聞かせ、最低限の荷物だけ携えてそっと屋敷を後にする。


師範へ
今まで大変お世話になりました。どうかお元気で。
なまえ





師である煉獄杏寿郎に婚約者がいることは、彼の継子になった時から知っていた。
煉獄邸の庭で共に稽古に励んでいると、自転車に乗った郵便配達員がたびたび“彼女”から手紙を持ってやって来るのだ。チリンチリン、というベルの音に呼ばれて玄関へと向かう師範を見送る。戻ってきた彼の手には、決まって薄桃色の封筒が握られていた。

「ちょっと手紙を置いてくるから、素振りを百回して待っていてくれ!」

そう言って母屋へと走って行く彼の背中を、何度唇を噛み締めて見送ったか知れない。“煉獄杏寿郎さま”と流れるように美しい文字で書かれたその封筒を見る度に、私は百でいい所を二百も三百も素振りした。
婚約者だなんて名ばかりで、その女性は私が継子になってから一度だってこの屋敷に来たことは無い。師範とその女性がどんな関係かは知らないが、継子として毎日お傍に居る私の方が余程師範の事を知っているし想っている。...そう思っていた。


ある日の事だ。いつも通り三人で夕餉を共にしていると、師範が「そう言えば」と話を切り出した。

「明日、氷室殿が我が家に来るそうだ」
「そうなのですか。では朝一でお茶の準備をしなければなりませんね」

二人の会話に出てきた聞き慣れぬ名前に、私は「ヒムロさん?」と小首を傾げてそれが誰なのか問う。ご飯で口がいっぱいの兄に変わり、弟の千寿郎くんが「兄上の婚約者にあたる方ですよ」と口を開いた。

「そう言えば、なまえさんはまだ氷室さんにお会いしていなかったですね」
「婚約者、さん」
「はい。とてもお優しい方なので、きっとなまえさんも仲良くなれますよ」

眉を下げて笑う千寿郎くんに、私は箸を持ったまま氷のように固まる。まるで身体中の熱という熱が何処かへ消え去ってしまったかのように感じた。
あの薄桃色の封筒の女が、明日此処に来る。そう思うだけで胸がぎゅっと苦しくなる。

「...その、ヒムロさんとは、どんな方なんですか?」

なんでもないような口調で言ったつもりだったのに、いざ口から出た言葉が自分の想像以上に動揺していて嫌になる。上弦の鬼との戦闘で師範が大怪我を負った時でさえ、そのヒムロという女性は見舞いに来なかった。こうしてまた元気になるまで身の回りの世話したのは、他でもない千寿郎くんと私だ。今更のこのこやって来て何の用なのだろうか。

千寿郎くんは私の声の震えには気づかなかったらしい。「そうですねぇ...」と古い記憶を手繰るように、その大きな目を上に向ける。

「俺が言うのもなんですが、とても綺麗な方ですよ。来る時はいつもきめつ庵のどら焼きを山ほど買ってきてくださって...」

あそこのどら焼き美味しいんですよねぇ、と笑みを零す千寿郎くんに、私はハハハと乾いた笑いを返す。そうすることが精一杯だった。

そこからはせっかくの食事も殆ど喉を通らず、いつもなら二杯食べるご飯を一杯ですら食べ切る事が出来なかった。「食べないのなら俺が貰うぞ!」と私の膳にまで手を伸ばしてくる師範を止める事さえ出来ないほど、私の頭は未だ見ぬ婚約者殿の事でいっぱいになった。


翌朝、私は煉獄邸の誰より早く目を覚ました。本当は目を瞑っていただけで一睡もしていないのだが、そんな事はどうだっていい。
他でもない師範から「この人が俺の婚約者だ!」とそのお相手を紹介されるなんてまっぴらだ。誰かに紹介される前に、自分の目でその人を確かめておきたかった。
着慣れた隊服に袖を通し、万が一を考えて羽織の下に日輪刀を隠す。出来る限り音を立てないよう注意しながら、私はそっと屋敷を抜け出した。

休日という事もあってか、街は多くの人で溢れ返っていた。どの店からも威勢のいい言葉が飛び、訪れた人々は皆楽しそうに辺りを見回している。
こんなに大勢の人の中から、果たしてお目当ての人を見つける事が出来るだろうか。早くも不安になったが、此処まで来て引き返すのも格好がつかない。
幸いな事に、その婚約者がよく寄るという和菓子屋はすぐに見つかった。店先に置かれた立て看板の影に立ち、出来るだけ目立たないように店内を観察する。

いつ来るか分からない人を待つ時間は途方もなく長かった。まさか今日に限って別の店に行ったのではと再び不安が頭をよぎった次の瞬間、ついに待ち望んだ会話が聞こえてきた。

「もし、どら焼きは全部で幾つあるかしら」
「へぇ、今あるのは丁度二十ですが」
「ではそれ全部くださいな。お土産用に包んでくださる?」

聞こえてきた会話は、まさに昨晩千寿郎くんが私に教えてくれたものだ。どら焼きを山ほど買う女。きっとこの女性こそがあの薄桃色の封筒の女に違いない。
そっと店内を覗き込めば、そこにはぴったりとしたワンピースに身を包んだ女性が背筋を伸ばして袋詰めを待っている。袖や裾にあしらわれた繊細なレースが彼女の華奢な身体を美しく飾っていた。

千寿郎くんの言う通り、とても綺麗な人だった。師範の婚約者ということで勝手に和服姿を想像していたが、婚約者...ー氷室さんはまるで夫人画報に出てきそうなモガだった。小さな頭に大きな目。緩く波打つ髪は艶々と黒く、ぽってりとした唇は今まさに開いたかのような瑞々しい薔薇色だ。

...勝てない。紅さえさしていない自身の唇に触れながら、私は素直にそう思った。
どうして自分の方が師範を想っているなんて、そんな大層な事を考えてしまったのだろう。目の前の彼女は大切な婚約者に会うために、あんなにも綺麗に身なりを整えて山ほどお土産を買っているというのに。私と言えば任務に追われて化粧も滅多にしないうえ、年がら年中同じ隊服を着たきりスズメだ。

途端にいたたまれなくなり、私はそっとその場を後にした。誰にも気付かれぬように自室へと戻れば、廊下の方から師範と千寿郎くんの話す声が聞こえる。ぐったりと文机に突っ伏して考えるのは、和菓子屋で見た氷室さんの事だった。

師範は女性をあれこれ選り好みするような人ではない。二人の間にどんな会話があり、どんな時を経て婚約者になったのかは分からないが、たとえそこに愛が無かったとしても、師範は妻となる人を絶対に大切にする。そして師範から大切にされれば、たとえどんな女性でも師範を大切に思うはずだ。
そんな時、同じ屋根の下に私のような女がいたら二人の幸せの邪魔になるだろう。なにより、私自身が冷静でいられない。

...出ていくしかない。

認めた手紙を振り返りながら、私はそっとその宛名の人物に想いを馳せる。
この書き置きを見つけた時、師範はどんな顔をするだろう。驚くだろうか。怒るだろうか。それとも、ほんの少しだけでも、私が居なくなったことを悲しんでくれるだろうか。
師範が悲しむ顔を上手く想像出来ないまま、私は煉獄邸を去る事となった。





“その日”は唐突に訪れた。

鬼舞辻無惨を倒した後、鬼殺隊はその役目を終えて解散する事となった。多くの隊士がお館様の口利きで新しい仕事や生活にありつく中、私は一人街へと繰り出していた。
リボンと鋏の描かれた看板の店の前で立ち止まり、大きく深呼吸する。意を決してドア開くと、色とりどりの布地が積まれたカウンターの奥から「いらっしゃいませ」と人の良さそうな中年の男が顔を出した。

「今日は何をお探しですが?シャツにスカートにワンピース、お嬢さんにぴったりのお洋服をなんでもお作り致しますよ」

ニコニコとこちらに歩み寄る店主を、私はぎゅっと眉に力を入れて見つめる。「此処で働かせてください」そう言って深く頭を下げれば、面食らった店主は「...はい?」とまるで鳩が豆鉄砲をくらったような顔で私の事を見た。


あの日、和菓子屋で見た氷室さんの着ていた服がずっと忘れられなかった。身体の曲線に沿って作られた、まるで芸術品のようなワンピース。きっとこれからは和服よりあのような洋服が主流になっていくのだろう。そんな予感があった。
針仕事の経験など全く無かったが、力仕事でもお使いでもなんでもやる、なんなら最初は無給でもいい、と粘ると、こんなに頭を下げているんだからいいじゃないかと店主の妻が助け舟を出してくれた。
どうやら何か訳ありだと思ったらしい。「ちょうど従業員の一人も欲しいと思っていた所だ。店の二階に物置同然の部屋があるから、もし行くあてがないならそこに住むといいよ」とまで言ってくれた。
こうして、私はまた他所様のお家にご厄介になる事になったのだった。

どうやらこの洋裁店は店主でなく店主の妻が取り仕切っているらしい。少しずつ採寸や裁縫を任せて貰えるようになったある日、私はおかみさんの言いつけで街へとお使いに行くことになった。なんでも注文していた布と別のものが届いてしまい、正しいほうの布と交換してきてほしいという。

厚手の生地を両手で抱え込むように持ち、取引先の手芸店へと急ぐ。飲食店の立ち並ぶ通りを足早に進んでいると、ふと目の前に暗い影が落ちてきた。

「やぁ、素敵なお嬢さん。そんなに急いで何処に行くんだい」

またか、と思いながら顔をあげれば、そこにはいかにも成金と言うような小太りの男が立っている。おかみさんが「そのままだと服に糸くずや染料が飛ぶから」と貸してくれたフリルたっぷりのエプロンを見て、私をカフェーの女給だと時々勘違いする人がいるのだ。
外国のカフェーといえばお上品に茶を飲むお店の事だが、この近辺にひしめくのはそういった店ではない。客は贔屓の女給にチップを払い、女給はそのチップに応じて男に愛想を振りまく、言わばキャバレーの前身であった。

「君のお店は何処だい?プランタン?ライオン?それとも話題のパウリスタ?」
「すみません、先を急いでいますので」
「そんな釣れない事を言わずに。うんとチップを弾むから」
「いりません。通してください」

男の横をすり抜けようとしたが、男は持っていたステッキをひょいと持ち上げて私の行く手を塞ぐ。「そうやって最初は嫌がって見せるのも客を喜ばせるテクニックなんだろう」そんな事を言って、私の腰にぬるりとその腕を回してくる。
こんな男、その気になれば一発で倒せるが、何せ今の私はただの街娘だ。しかもおかみさんから預かった大切な布地を持っている。間違えて届いたものとは言え、商売道具をぞんざいに扱う事は出来ない。どうしたものかと考えている間にも、男はぐいぐいと私の身体を引き寄せる。
「さぁ、お店に案内しておくれよ。一緒にシャンペンでも飲もうじゃないか」生臭い息にウッと顔を顰めた、まさにその時だった。


不意に、背後から伸びてきた太い腕が男の肩を掴んだ。みしみしと音が聞こえそうなほどめり込む指に、小太りの男の口からぐぇぇ!と醜い悲鳴が上がる。

「失礼。私の身内に何か御用だろうか」

よく通る低い声。心の奥深くに仕舞い込んでいた過去を呼び起こすように鼓膜を揺らすそれに、私は「あぁ、」と小さく息を吐き出す。振り返れば、そこには師と仰ぎ慕ったその人が以前と全く変わらない微笑みを浮かべて立っている。

「師範...」

思わず呼び掛けてしまったが、師範はちらりとこちらを見やっただけで直ぐに小太りの男へとその視線を戻した。なおも悲鳴を上げ続ける男に、男はなおも落ち着いた声で語りかける。

「もし彼女が貴殿に何か失礼を働いたのならば申し訳ない。彼女の失敗は私の不徳の致すところゆえ、どうか今回だけは見逃して頂けないだろうか」
「痛い痛い痛い!わかった、わかったから離してくれ!」
「寛大なご配慮感謝申し上げる」

師範がぱっと手を離せば、小太りの男はひぃひぃと喘ぎながら何処かへと走り去ってしまった。目の前で起きた一連の流れに思考が追いつかないままでいると、師範は今度は私の肩を掴む。

「えっ、あの、師範...!」

ぐいぐいと引かれるままに辿り着いた先は、人気の無い裏路地だった。大通りからほんの少し奥まっただけなのに、それだけで辺りはしんと静まる。
足は止まったものの、大きな手はまだ肩に置かれたままだ。もしかしたらまた逃げると思われているのかもしれない。...あの日、師範の家に婚約者が来た時の私のように。

「君には聞きたいことがごまんとあるが、まず一つ頼みがある」

師範の重々しい口調に、私の背を冷たい汗が伝う。「...なんでしょうか」恐る恐る口を開けば、男は真剣な表情で「そのエプロンを脱いでくれないか」と言った。

「えっ」

どういう事なのだろう。言葉の意図が分からないままおどおどしていると、師範は苦しそうに顔を歪める。

「...頼む。君が不特定多数の男とああいった事をしていると考えるだけで、俺は気が狂いそうになるんだ」

その言葉に、私はやっと師範の言わんとしている事を理解した。あの小太りの男同様、師範も私をカフェーの女給と勘違いしているのだ。どうやらあの男の事を私の贔屓客だと思っているらしい。

「あの、師範は何か勘違いをしていらっしゃいます」
「? どういう事だ」
「私は今、四丁目の洋裁店にご厄介になっています。そこでお洋服を作るお手伝いをしていて...。その、師範が思っているような事をしたことは、これまで一度もありません」

そこまで言えば、師範は元から大きな瞳をより一層大きく見開く。自身の勘違いに気付いたのだろう、みるみる顔を赤くし、やっと私の肩を離した。その手をそのまま口元に持っていき、気まずそうに顔を背ける。

「...すまない。とんだ勘違いをした」
「...いえ」
「君は魅力的な女性だから、さっきの男も君のパトロンかと」
「まさか...。でも、本当に助かりました。師範には本当にご迷惑をおかけしてばかりで」
「迷惑とは思っていないが、随分心配した」

男の率直な言葉に私の胸がずきりと痛む。

「置き手紙だけ残して消え、何度手紙を送っても返事も返って来ない。風の噂で鬼殺隊を続けているらしいという事は分かっていたが、解散後はまたぱったりと姿を消した」
「...すみません」
「俺が聞きたいのはそんな言葉じゃない」

ぴしゃりと言われ、私は思わず布地を抱く手に力を込める。では何を言えば良いのだろう。謝罪以外の言葉など、私は何一つ持ち合わせていないというのに。

煉獄邸を離れてからも、師範の鎹鴉は度々彼からの手紙を持って私のもとへとやって来た。見つからないようわざと宿を転々としていたのだが、大空を自由に飛び回れる彼等からすれば人一人見つける事など造作もないらしい。
要が持ってきた師範からの手紙に、私は一度も返事をしなかった。と言うよりは、手紙そのものを読んでさえいなかった。どんな事が書かれているのか知るのが怖かったのだ。

師範の太い腕がこちらへと伸びてくる。あんな失礼な置き手紙を残して逃げたのだ。叩かれようが殴られようが仕方がないと思った。
しかし、予想に反して、その手は私の背中へと回される。

「逢いたかった」

ぎゅっ、と強く抱き締められ、突然の出来事に思考が停止する。師範が私を抱き締めている。やっと理解した事実に心臓が止まりそうになる。
男女のあれこれに疎い私でも、この抱擁が親愛のそれでないことは分かった。「だ、駄目です...!」私は慌てて手を突っ張り、その厚い胸板を押し戻す。

「師範には奥様がいるのに、こんな事っ...!」
「奥様?誰のことだ?」
「えっ?だって、師範は氷室さんとご結婚されたのでは...」
「俺はまだ独り身だが」
「えぇっ!?」

思わず叫んだ私とは対照的に、師範は殆ど表情を変えないまま口を開く。

「君が居なくなったあの日、氷室殿の方から正式に婚約破棄の申し出があってな。互いに利害が一致したこともあって、俺はそれを受け入れた。両家共に、親は随分怒っていたがな」
「...? どういう事ですか?」

混乱した頭で問いかければ、師範は「これは本当なら誰にも秘密なのだが」と前置きする。どんな時でも歯切れの良かった師範には珍しい事だ。こくりと頷いて見せれば、師範は再び口を開く。

「彼女...氷室殿には、俺の婚約者となる前から好いた相手がいてな。「どうしてもその男と一緒になりたい」と泣かれてしまったのだ」

あまりの事に言葉を無くした私に、師範は昔話をするようにゆっくりとこれまでの事を語ってくれた。

氷室さんにとって、師範が婚約者になることはまさに寝耳に水の事だった。両親から「お前の夫を決めてきたぞ」と事後報告を受けた彼女はどうしても好いた人との結婚を諦めきれず、どうすれば親同士の決めた結婚を破談に出来るのかと考えた。結果、なんと氷室さんは婚約者である師範に直談判したのだ。

「“失礼は重々承知の上で、自分達の駆け落ちの準備が終わるまでどうか手を貸して欲しい”と頼みこまれた。好いた者同士が離れ離れになるのが不憫でな。俺で良ければと手を貸すことにしたんだ」
「じゃあ、あの手紙は...?」
「互いの仲睦まじさを周囲に知らしめるための、ただの見せかけだ。内容は彼女等の準備がどれ程進んだかという報告だけで睦言の類は一切ない」
「わ、わたし...、師範が結婚しちゃうって思って...、それで...」
「よもやそれで出ていったのか?食い物の事を余程恨んでいるのかと思っていたぞ」

そう言って笑う師範に私の目頭が熱くなる。そう言えばそんな事もあったな、と今更のように思い出して懐かしかった。

「君が好きだ、君しか要らない、と何度も手紙に書いた。あと何度伝えたら君は分かってくれるのか」
「...手紙、怖くて一度も開けていなくて」
「あぁ、そうだろうな」

でも、もう良いんだ。そう言って、師範は再び私を強く抱き締める。あたたかな手に背中をさすられると、これまで溜め込んできた感情が一気に涙となって噴き出した。
勝手に勘違いし勝手に出て行った弟子を、この人はまだ必要としてくれている。しかも今度は師弟としてではなく、恋人として。

「戻ってきてくれるな」
「...はい」
「ご厄介になっている店があるのだろう。俺も一緒に頭を下げに行こう」
「...すみません」
「謝る必要は無い。今も昔も、君は俺の身内なのだから」

私が持っていた布地を軽々と抱えながら師範は言う。あいた方の手で私の手をとり、もう二度と離さないとでも言うようにぎゅっと指を絡めた。

袖や裾にあしらわれたたっぷりのフリルが、春のあたたかな風にふわふわと揺れた。

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