見えぬところから灼いてゆく


※一周年記念「静夜に思ふ」の壱と弍の間のお話です。
なんでも許せる方向けです。



留学先の言葉を覚えるのに一番手っ取り早い方法は、その国に恋人を作ってしまう事だという。
勿論、そこには相手を愛おしく想う気持ちがあってこそだが、どこかで聞いたその格言通り、なまえの語学力は恋人であるリアンユのおかげでメキメキと上達していた。今日も男は目の前に並んだ料理を指差し、異国から来た恋人にあれこれ質問を投げ掛ける。

「これは?」
油条ヨウテャオ。中国式の揚げパンのことだよね」
「そうだ。此処のは何も入っていないが、店によってはほんのり塩気があったり餡子が入っている物もある」
「しょっぱいはスィエンだよね。甘いは確か...テン?」
「惜しいな。ティエンだ」
ティエン
「そう。じゃあ I want to eat sweets は?」
我要甜的ワ ヨウ ティエン ダン
「正解だ!発音も随分良くなったな」

揚げパンをもぐもぐと頬張りながら、リアンユは楽しそうに目を細める。ほとんど学校に行っていない自分が、留学生であるなまえに色々な事を教えてあげられるのが嬉しいらしい。ノートに発音のコツを書きつけるなまえの口に「君もお食べ」とちぎった揚げパンを差し込みながら、リアンユは快活に口を開いた。

「中国語は発音の数が多いからな!完璧にマスターしようとするとなかなか骨が折れるだろう」
「うん。ごめんね、いつも付き合ってもらっちゃって...」
「構わない!こうして君と過ごせる時間が何より楽しいからな」
「ありがとう」

そう言ってなまえが再びノートへと視線を落とせば、リアンユは少し困ったように眉を下げる。自身には読めない日本語が並ぶノートを眺めながら、やれやれといった口調で口を開いた。

「それにしても、君のその何にでも謝る癖はなかなか直らんなぁ」
「...あ」

思わず口元を抑えれば、リアンユは困ったものだとわざとらしく首を捻る。中国人にとっての謝罪は、日本人にとってのそれとは大きく意味が異なる。まるで口癖のように謝罪の言葉を口にするなまえに「トラブルの元になるから出来れば直した方がいい」と忠告したあの日、二人は恋に落ちたのだった。

「あまりにも直らないようならば、何かペナルティでも考えようか」
「ペナルティ?」
「そうだな...。ごめんなさいと言うたびにキス一回はどうだ?」
「やだぁもう」

真剣な顔で何を言うのかと思えば、こんな冗談も言うのだから笑ってしまう。「本気だぞ」とまた一つ揚げパンを差し出すリアンユの肩をなまえはクスクスと笑いながら軽く叩いた。


朝一の講義がない日は、こうしてリアンユと外で朝食を取ることが多かった。なにせ中国は物価が安い。なまえ自身がそれほど料理が得意な方ではなく、また、部外者であるリアンユは寮に入る事が出来ないため、安くて早い外食には大いに助けられていた。
ビニール袋に直接放り込まれる料理には思わず絶句したが、そういう時は家から鍋やタッパーを持って行き「これに入れて欲しい」と頼めばいいだけだ。慣れてしまえばどうという事もなかった。

プラスチックのお椀になみなみと注がれたお粥を一口啜れば、共に炊かれた鶏肉から出た優しい出汁の風味が口いっぱいに広がる。「俺にも一口くれないか」と言うリアンユに、今度はなまえが匙を差し出した。はむり、大きい口で美味しそうに粥を食べるリアンユになまえもつられて頬が緩む。

店先に吊るされた掛け時計がボォン、ボォンと古びた音を立てる。「もう十時か」リアンユの言葉に、なまえは「行かなきゃ」と慌てて粥を掻き込んだ。二限目の授業開始時刻は十時半からだ。留学生向けの中国語クラスは日本人講師が受け持っていて、ジャパニーズの御多分に洩れず彼女は遅刻に厳しかった。

机の上に広げていたノートや辞書、手帳を掴んでトートバッグへと突っ込む。すると、手帳に挟まっていた紙片がひらりと抜け落ち、リアンユの足元に落ちた。「何か落ちたぞ」短冊のようにひょろりと長いそれを拾い上げたリアンユは大きく目を見開く。なまえがハッと息を飲んだ時には、男の眉間に深い皺が刻まれていた。
それが上海発・成田行きの航空券だったからだ。

「...ー帰るのか?」

リアンユの静かな問いに、なまえは思わず身体を強張らせる。地を這うように冷たい恋人の声が、なんの躊躇いもなく警官を殴ったあの日の彼と重なった。正当防衛とはいえ、彼はこの地を統べるストリートギャングのリーダーだ。なまえにはいつだって笑顔を絶やさなかったが、その心の内には獰猛な獣を飼っている。

中国の大学は、その殆どが二学期制である。一学期のみで終了する留学を短期留学、二学期を通して通う留学を長期留学と呼び、なまえは後者だった。もうすぐ中国での生活も終わる。日本に帰るためには、航空券の手配をしなければならない。

「俺に黙って帰るつもりだったのか?」
「...それは、違くて、」

思わず口籠ってしまったなまえを、リアンユは険しい目付きで見つめる。
リアンユからの問いに答えるなら、答えはノーだ。黙って帰るつもりはなかった。ちゃんと説明してから帰るつもりだった。しかし、きちんと説明出来るかどうかは、なまえにとってまた別の問題だった。
なまえはあくまで日本の大学を休学している身だ。帰国すればまた元の大学に通い、卒業すればそのまま日本の企業に就職する。中国語を身に付けようと思ったのは、あくまで母国で行う就職活動で有利になればと思ったからだ。

中国での生活は思っていたよりずっと楽しかった。新しいものと古いものがごっちゃになったような街並み、何処からか流れてくるラジオの音、食欲を誘う屋台の湯気。優しい友人、そして唯一無二の美しい恋人。
離れがたい。もっと一緒にいたい。そう思ったからこそ、特に恋人であるリアンユにはなかなか言い出せなかったのだ。

「なまえ」

名前を呼ばれて恐る恐る顔を上げれば、そこには悲しそうに眉を下げるリアンユがいる。あぁ、自分はこの顔が見たくなかったのだな、となまえはその時やっと自身の過ちに気が付いた。自分がきちんと説明していれば、きっともっと別の形で話し合うことも出来ただろうに。
差し出されたチケットを受け取り、再び手帳に挟んでバッグに仕舞う。全て自分が招いた事なのに、口からはなんの言葉も出てこなかった。

「...授業に遅れる。とりあえず今は行こう。大学の前まで送る」
「...うん」

リアンユの大きな手がなまえの手を取る。ぎゅっと握りしめられた手は、これまでにないほど冷たく感じられた。





五限までの授業を終えて寮に戻ると、いつもなら煌々と灯っているはずの部屋が暗かった。鍵を取り出して中に入ってみれば、机の上にはちょこんと小さなメモが置かれている。取り上げて読んでみれば、“姉さんに呼ばれたのでちょっと出掛けます。遅くなるかもしれないから先に寝てね”とリファの字で走り書きされていた。

昼間の事をルームメイト兼親友に相談しようと思っていたのだが、こうなってしまっては仕方がない。肩からトートバッグをおろし二人掛けの小さなソファーに腰を下ろすと、なんだかドッと疲れが押し寄せた。クッションを抱き寄せ、出来るだけ小さく身体を折り畳む。

なまえを校門まで送ったリアンユは一瞬何か言いたげに口を開いたが、結局何も言わないまま口を閉じた。握っていた手をそっと離し「じゃあ、授業頑張ってくれ」と踵を返した恋人の背を、なまえは黙って見つめる事しか出来なかった。

「どうしたらいいの...」

クッションに深く顔を埋めれば、じわりと涙が溢れ出る。
留学期間中、なまえは一度も日本へ帰らなかった。学期と学期の間に設けられた長期休暇も、リファから「姉の家で一緒に過ごさないか」と誘われていた事もあり、両親には「こっちで友達と過ごすから」と短く電話で伝えただけだった。それぐらい楽しく過ごしているから心配しないでね、とアピールしたかったのもある。
そんな一人娘の帰国を、両親は首を長くして待っている。手紙でも電話でもなく、今度こそちゃんと顔を見せて安心させたかった。

しかし、ならリアンユと別れて平気なのかと言われれば、全く平気ではない。決してロマンチックな出会いとは言えなかったが、それでも互いに惹かれあって今まで付き合ってきたのだ。大好きで、ずっと一緒にいたいと思っている。しかし、彼はきっといつかこの国の裏側を背負って立つ人間だ。そんな彼の傍にいて大丈夫なのか。全く不安がないとは言えない。

どちらか一方しか選べない道。
そしてその答えは、バッグの中の手帳に挟み込まれている。


コンコン、と玄関のドアがノックされる音に、なまえはクッションから顔を上げた。再びノックされたドアに、あぁ、リファが帰ってきたのだな、と重い腰を上げる。歳の離れたリファの姉二人は、可愛い妹にいつも山のようにお土産を持たせる。きっと今日も服やらお菓子やらで両手が塞がっていてドアが開けられないのだろう。

「ちょっと待ってね、今開けるから」

クッションをソファーに戻し、のろのろとした足取りで玄関へと向かう。サンダルを引っ掛けて重いドアを開けば、そこに立ってた人物に心臓が止まりそうになった。

「ーッ?!」

大きく見開かれたオレンジ色の瞳に、思わず足が竦む。薄く開いたドアの隙間から身体をねじ込むように中へと入ってきた男は、あっと言う間になまえをその厚い胸元へと抱き寄せた。金色に光る髪が視界の端に揺れ、押し付けられた男の胸板からどくん、どくん、と力強い音が聞こえる。まるで身体の中を熱いマグマが流れているような音だ。

なまえとリファが暮らすこの寮は男子禁制だ。入口には監視カメラと守衛が立っており、男性が足を踏み入れるには身内でさえ事前の申請が必要である。...一体どうやって入ってきたのか。不穏な想像に背筋が寒くなる。

「リアンユ、」やっとのことで名前を呼べば、男はすん、と鼻を鳴らす。それを聞いた瞬間、なまえの心は申し訳なさでいっぱいになった。自分のせいで恋人が泣いている。あんなに優しく、強い人が。その事実に、一度引っ込んだ涙がまた溢れ出してしまう。

「......ーだ」くぐもったリアンユの声に、なまえは「え?」と聞き返した。深く深呼吸したリアンユが、ゆっくりとした動作で身体を離す。その頬には涙の跡がありありと残っており、なまえは胸が張り裂けそうになった。優しく、しかし抗う事を許さない力加減でドアに押し付けられる。

「ー駄目だ」
「...え?」
「逃がさない。俺以外全て捨てろ。愛してるんだ」
「......リア、」
「頼む」

恋人からの思いがけない言葉に、なまえはグッと言葉に詰まる。爛々と光る大きな瞳にじっと見つめられ、目を逸らす事さえ出来なかった。
もし此処で間違った答えを返せば何か恐ろしいことが起こる。そんな予感があった。しかし、自分の気持ちに嘘をつく事は出来ない。

「...ごめんなさい」

零れ落ちた謝罪は、ただ口をついて出たものではない。溢れた涙が頬から顎へとつたい、胸元に幾つものシミを作る。

「黙ってて、なかなか言えなくて、傷つけてごめんなさい...」
「なまえ、」
「でも、それでもやっぱり、私は帰らなきゃいけないの....。ここでの暮らしは...、リアンユと一緒にいられるのは、すごく楽しかったし幸せだった。でも、」
「でも...?」
「日本で、...両親が待ってるから」
「......そうか」

ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。泣きながら何度も口にすれば、男はなまえの肩にその額を押し付けた。「...ー良かった」小さく呟かれた言葉の意味が分からず、なまえはひくひくとしゃくり上げながら恋人を見下ろす。顔を上げたリアンユはいつも通り、しかしほんの少しだけ寂しげに微笑んだ。

「...君がご両親を大切にする子で良かった」
「...どういう事?さっきのは、嘘...?」
「全てが嘘とは言えないがな」

試すような事を言ってすまなかった。そう言って抱きしめられれば、強張った身体から急激に力が抜けていく。がくりと膝を下りそうになったなまえを、リアンユは抱き締めながらゆっくりと玄関に下ろした。冷たい床になまえが直接座ることがないよう、胡座をかいてその上に恋人を乗せる。

「愛している。絶対に逃がさない。これは本心だ。しかし、俺以外の全てを捨てるのは君にはまだまだ早すぎる」
「......、」
「俺にもやらなければいけない事が沢山ある。だから、なまえも日本でもっともっと色々な事を学んで、ご両親と仲良く過ごして欲しい。そして...」
「...そして?」
「覚悟がきまったら、俺の妻になってくれ」

覚悟。震える唇を引き結び、なまえは黙って男の言葉に耳を澄ませる。

「どうしたって君とご両親を引き離す事になってしまうかもしれん。結局こんな事はただ問題を先送りにするだけで、なんの解決にもならないなのかもしれん。でも、それでも俺は君が諦め切れないんだ」
「うん...」
「危ない目にも遭わせるかもしれない。しかし、必ず守ると誓う。他の誰かでは駄目なんだ。俺は君を心から、...!!」

その言葉の続きはなまえが唇で塞いだ。聞かなくても分かっている。彼がどれだけ悩んだか。どれだけ自分のことを想ってくれているのか。
あと数日もすれば、なまえはあのチケットを使って母国へと帰る事になる。しかし、一年後か、はたまた数年後か、きっとまた戻ってくる事になるのだろう。覚悟を決めて、この男の腕の中へ。

一度離れた唇はまたすぐに重なる。大きな手が頬に添えられ、熱い舌がなまえの口内へと差し込まれた。貪るような口付けに応えていると、リアンユがグッと上体を倒してくる。硬く冷たい玄関に押し倒されても、なまえは自分に覆い被さってくる男を拒まなかった。
たとえリアンユが将来何になろうとも、彼がなまえにとって最愛の恋人リィェン レンである事に変わりはないのだ。

親友がいつ帰ってくるか分からない。それでも、二人はその行為をやめることが出来なかった。


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