煉獄さんが獣人執事というなんじゃそら設定。
なんでも許せる方向けです。


「――杏寿郎。そんなに怖い顔をしていては、お客様が怖がってしまいますよ」

歌うようにして言った彼女の声音に、俺はハッとして剥き出しにしていた牙を唇で覆った。落として割れば一客十万はくだらないティーカップを乗せた盆。それを支える白手袋を嵌めた指先が燃えるように熱い。
きっと自分でも気付かぬうちに爪を出していたのだろう。慌てて身体から力を抜けば、今にも張り裂けそうになっていた布地が肌の上で弛むのが分かる。
すっかり忠犬に戻った執事に、彼女がくすりと笑みを零す。まったくもう、と小声で窘められるだけで、俺の全身を甘やかなむず痒さが襲った。
「当家の執事が失礼致しました。えっと……、それでどのようなお話でしたっけ?」
花が咲いたような笑顔で使用人の無礼を詫びた彼女に、それまで青い顔をしてこちらを見つめていた男にもやっと血の気が戻ってくる。今が大切な商談の最中であった事を忘れていたのは、どうやら俺だけではないらしい。
「へ、ぁ、あぁ……!私どもの開発した新商品を、ぜひ御社でもお試し頂ければと思いまして!本日はそのサンプルをお持ち致しました!」
こちらでございます!と男が古びた鞄から取り出したのは、その薄汚れた手のひらに収まるほど小さな硝子瓶だった。コトリ、音を立ててテーブルに置かれたそれを、彼女の丸く大きな瞳が物珍しそうに見つめる。
中に入っているのは干涸びた植物――この男の個人農園で栽培しているという新種の大麻(マリファナ)だった。

日本では非合法薬物として取り扱われている大麻だが、北米や欧州、中南米等では次々とその使用が解禁され、合法化が進んでいる。その市場規模、約数百億ドル。“グリーンラッシュ”とも呼ばれるこの大麻ビジネスに、不景気続きの日本が飛びつくのも時間の問題だと思われた。

「日本随一の老舗製薬会社である御社なら、幅広い用途でご利用頂けると考えておりまして……」
「幅広い用途、とは?」
「癌、うつ病などへの特効薬としては勿論の事。やはり一番は“嗜好品”として売り出すのがよろしいかと」
にやにやと笑いながら手揉みする男の視線が、小瓶を覗き込む彼女の胸元に注がれる。コホン。咳払いをして美しい主人の姿勢を正させながら、俺はなるほどな、と溜飲を下げた。
目の前の男の言う通り、彼女の所属する産屋敷製薬は、日本一の老舗製薬会社として創業当時からそのトップに君臨している。会長であり、彼女の養父でもある産屋敷燿哉は大変な人徳者で、政府や警察関係者にも口利き出来るほどの大物だ。
対してこの男。個人農園と言えば聞こえは良いが、やっていることは大麻の違法栽培。先刻自分の事を「私ども」と言った事から察するに、その背後には何やら得体の知れない組織が絡んでいる。ヤクザか、それともメキシコ辺りの麻薬カルテルか。万が一警察にバレた時の事を考えて、顔の広い産屋敷製薬と先にパイプを作っておいた方がいいと考えたのだろう。安易な事だ、と俺は黙って男の薄い頭を見つめる。
そんな獣人執事をよそに、目の前の応接セットでは着々と商談が進んでいく。
「純度も高く、俗に言うバッドトリップも殆どありません!ご覧頂いている資料の通り、御社には特別価格で商品を卸すことをお約束致します!」
「なるほど。それは素敵なお話ですね」
「さすが話が早い!きっと分かって頂けると思っておりました!……もしお嬢様さえよろしければ、今すぐにでも“個人的に”商品をご用意できますよ。気に入って頂けたら是非産屋敷会長にも」
――うちの大麻を使えば、会長のお身体も少しは良くなるかもしれません。
男の言葉が鼓膜を揺らした途端、俺の頭にバチバチと電流が走る。冷えた指先が再び熱を帯び、喉の奥からグルルルル……と獣じみた音が漏れた。
産屋敷会長の病状は深刻だ。身内以外の人間がその話に触れるのはタブー中のタブーである。
今にも飛び掛りそうになった俺を、彼女はそっと手を挙げて制止する。主人の命令に、俺は渋々元の位置に戻った。
「……そうかもしれませんね」
先程俺の名前を呼んだのと同じくらい穏やかな声音で、彼女は口を開く。音もなくティーカップを手に取り、しかしその淵に唇は着けぬまま言葉を続けた。
「確かに、重い病に苦しみ、大麻解禁を望んでいる方は日本にも沢山いらっしゃいます。バブル崩壊後、一向に回復しない経済の落ち込みも、大麻が解禁されれば少しは上向きになるでしょう。出口の見えない不安に押しつぶされる若者も減るのかもしれません」
「そうでしょう?大麻を使えば、ありとあらゆる悩みがあっという間に解決するのです!痛みも、経済も、そして人々のストレスも!」
「しかし、使えば使うほど薬物に依存し、着実に蝕まれていく。心も、身体も」
彼女の静かな言葉に、男がハッとして口を閉じる。
「我らがお館様は、自ら法を犯すようなことは決して致しません」
いつもは優しげに俺を見つめる瞳がきゅう、と細まり、声のトーンが落ちる。それだけで俺には……――きっと目の前の男にも、部屋の温度が二度も三度も下がったように感じる。
「日本政府が大麻を解禁・合法化するとなれば、産屋敷製薬も喜んでそのお手伝いを致しましょう。……しかし、それは貴方の育てたソレでではない。我が社自慢の研究員が、より丁寧に、より安全に栽培したもので、です」
先の丸い刃のような彼女の言葉に、男がゴクリと口内の唾を飲み混む。「私たちがどうしてここまで拘るか分かりますか?」彼女の言葉に、男はふるふると首を横に振った。
「“苦しむ人々を一人でも多く助ける”。それがお館様のご意志だからです」
「っ、ですから……!大麻を使えば会長の痛みや苦しみだってすぐに……!」
「産屋敷製薬のトップが大麻栽培に加担したとなれば、我が社はそれだけで終わりです。社員とその家族が路頭に迷うだけでなく、我が社の薬を使っている全ての人々を危険に晒す事になる。そんな事、お館様が望むはずがありません」
自分の体調など二の次、誰よりも他人を大切に思う人であるからこそ、彼女は養父である産屋敷耀哉について行く事を決めた。何不自由なく箱入り娘として過ごす未来もあったというのに、その幸せな未来を投げ打って、臥せった父の手となり足となり、会社に降り掛かる煤を払うこの仕事に就いたのだ。
そしてそんな彼女だからこそ、俺自身も彼女についてきた。
「……杏寿郎、お引き取り願って」
その言葉を合図に、俺はそっと盆を机の上に置く。手袋――強いては男の皮膚に穴を開けぬよう細心の注意を払ってその腕を掴むと、有無を言わせず応接用のソファーから立ち上がらせた。
「なっ、何をする気だ!警察に突き出したって無駄だぞ!俺は何も吐かないからな!」
何を得意げになっているのだろう。せせら笑いを浮かべる男に、今度こそ俺は溜息を吐き出す。
「おめでたい事だ。このまま警察に引き渡されるとでも思っているのか?」
「なっ、なん……?!」
心底意味が分からないという顔の男に、俺はグッと顔を近付ける。脂ぎった髪、剃り残した髭、皺だらけのスーツ。よくもまあこんな姿で重役である彼女に会いに来たものだと、逆に感心さえさせられる。男が屋敷に足を踏み入れたその瞬間から、質の悪い薬品の匂いに鼻が曲がりそうだった。
「警察の取り調べなど生ぬるい。種の入手先から栽培方法、畑の場所とその敷地面積、裏で糸を引いているであろう組織の下っ端からトップの名前まで。その全てを吐き出すまで、君はこの屋敷から出られんぞ」
「はっ、はぁ?!何を言って、」
「それから、」
今度は後ろの彼女には聞こえないよう声を落として、俺は口を開く。
「俺の主人に色目を使った事も許さん。私利私欲のために彼女を利用しようとして、再び朝日を拝んだ者はいない。――覚悟することだ」
「ヒ、ヒィ……!」
「杏寿郎、お茶を淹れてちょうだいな」
男から受け取った資料を一枚一枚シュレッダーに掛けながら、彼女が何でもない事のように言う。元の文章が読めないほど細切れになった紙は、屋敷裏の焼却炉で燃やし尽くすのがこの家のしきたりだった。
「承知した!すぐに取り掛かるから待っていてくれ!」
「ひぁっ、あっ、あの……!」
「この間みたいにお砂糖と塩を間違えちゃ嫌よ」
「勿論だ!ついでに君の好きなあの店のクッキーも用意しよう!」
大好きな主人と言葉を交わしながら、俺は応接室のドアに手を掛ける。
暗い廊下に響く不快な音は、古びたドアの蝶番か。それとも男の声にならぬ悲鳴か。
主人以外の紡ぐ音など、忠犬には心底どうだっていいのだった。

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