白い玉砂利に松の植えられた広大な庭を抜けると、そこには見たことも無い白亜の豪邸が聳え立っていた。鹿鳴館――明治十六年、当時の外務卿であった井上馨が欧化政策の一環として建設した迎賓館である。
煉瓦造二階建ての一階部分には食堂と談話室、二階部分には舞踏室とバルコニーがあり、国賓や諸国の外交官をもてなすためにと、当時の日本人にはまだ馴染みの薄かったバーやビリヤード台まで設置された。煌びやかな衣装に身を包んだ男女による宴は毎夜の如く催され、人々は夢のような短い夜を楽しんだという。
井上が大臣職を辞任してい以降、鹿鳴館は専ら一部のハイソサエティのみが使える箱となっていた。が、何故か私は今その鹿鳴館のボールルームにモスリンたっぷりのドレスを着て――更には、隣に燕尾服に身を包んだ炎柱・煉獄杏寿郎を携えて立っている。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だ」
恋人の言葉に、私は眉根を寄せながら手に持っていた扇子握り締める。人生で初めてドレスという物に袖を通し、踵の高い靴を履いた。目の前には見たことも無いハイカラな料理が並び、美しく着飾った男女が腰を抱き合ってくるくるとステップを踏んでいる。
「……無理です。見慣れた物が一つも無い。自分だけ違う世界に迷い込んでしまった気分です」
「見慣れた物ならあるだろう?」
「なんですか?」
「俺の顔だ」
男の言葉に、私は態と大きな音を立てて溜息を吐き出す。おもむろに扇子を広げて顔を隠せば「どうした?」と問われたので、捨て鉢気味に「なんでもないです」と答えた。
その鋼のような精神力を、一欠片でいいから私に分けて頂きたい。
そもそもどうして私たち二人がこのような格好をして此処に立っているのか。それらは全て、我らがお館様のご意向によるものだった。
――どうやらいよいよお館様の体調が思わしくないらしい。
鎹鴉を通して報告される恩人の病状は、私を含む多くの隊士の顔を曇らせるものだった。
大恩あるお館様の死は、鬼殺隊にとって大きな打撃だ。一癖も二癖もある隊士達を纏め上げることが出来るのは、産屋敷家当主・耀哉様であるからこそ。
であるからして、そんな噂を聞いた直後に恋人と共に当主の自室へと呼び出された時は、どんなお言葉を頂戴するのかと心臓が口からまろび出そうになるほど緊張した。柱である煉獄さんは招集にも慣れているのかもしれないが、下級隊士である私はそのお顔を拝見するのだって久しぶりの事だ。
清潔な布団に身を横たえた当主の横、青畳に手をついてそのお言葉を待っていれば、
「私達夫婦の代わりに祝賀会に行ってくれないかな」
と予想外の天命が降りてきた。
鬼殺隊当主の静かな物言いに、私も煉獄さんも戸惑いながら顔を見合わせる。
「……あの、祝賀会とは?」
私のような下級隊士の言葉にも、お館様はゆったりと口元に笑みを浮かべる。「そうだね、順を追って説明しようか」と優しくご教授くださるのだった。
鬼殺隊はあくまで政府非公認の組織だが、“鬼の頸を落とす”というその役割は大きい。なにせ鬼には普通の刀や銃弾は通じないため、たった一つの対抗策である日輪刀を携え鬼と闘う隊士達は、国家安寧のためにも無くてはならない存在だった。
ましてや鬼舞辻無惨が勢力を増し、鬼の被害が全国各地で報告されている今、政府としてはますます鬼殺隊を無視出来ない。かと言って“鬼”という非現実的な存在を政府が公に出来るはずもなく、幾ばくかの金を落とす事で鬼退治を外注しているというのが現状だった。
「皆に渡している給金も、実は政府や鬼殺隊を支持する人々のご好意から成り立っているんだよ。勿論、産屋敷家から出している分もあるけどね」
妻であるあまね様に背を支えられ、お館様は微笑みながら言う。
「そんなわけで年に一度、政府のお偉い方や支持者達と顔合わせの会があるんだよ。……だが、私はこんな身体だし、あまねも私の身の回りの事で手が話せなくてね。だから二人を呼んだんだ」
「なるほど!仔細承知致しました!」
そう叫んだ煉獄さんに、私は思わず心の中で「えっ」と声を漏らした。本当に今の説明で分かったのか。なんだか物凄く大変な事を頼まれた気がするのだが。
そんな風に私が動揺している間にも、お館様は「では二人とも、よろしくね」と締めの言葉を口にし、煉獄さんは腰を上げる。
あれよあれよとそのまま縫製部に連れて行かれ、あっという間にあちこちに巻尺を当てられる羽目になった。
「てっきり和服を仕立てるのかと思っていたのに...…」
採寸から一ヶ月後。衣装の最終調整として呼ばれた私の前に用意されたのは、フリルとレースがたっぷりと使われた最先端のバッスルドレスだった。「女性らしい身体の曲線が出るよう細部までこだわりました」と得意気に丸眼鏡を押し上げる隊士に強い殺意を覚えたのはまだ記憶に新しい。
「大臣の政策で国内の欧化も随分進んだからな!洋服を身につける事で鬼殺隊の先進度合いを皆に示す意図もあるのだろう!」
「それにしたってこんな...。洋服なら普段の隊服で充分だったのに……」
胸の膨らみや腰の細さを強調されたドレスは、やはり日本人である私にはやや破廉恥なものに映った。西洋文化に慣れないのは殿方も同じようで、中にはその肩の丸みや胸元に露骨に鼻の下を伸ばす者もいる。
思いのほか棘を孕んだ言葉が口から飛び出してしまい、私はハッとして口を噤む。美しく着飾っているとはいえ、これは任務。しかもお館様から直々に頂いた勅命だ。慌てて「申し訳ありません」と頭を下げれば、師範は「む?」となんでもない事のように私を見た。
「慣れないものばかりで緊張してしまって……。私ったらつい煉獄さんに八つ当たりの様なことを……」
「気にすることは無い。君の八つ当たりなど可愛いものだ」
その笑顔に、私の心は救われると同時にほんの少しだけ揺れる。
私とお付き合いを始める時、煉獄さんは「女性と交際するのは君がはじめてだ」と顔を赤らめて言った。その言葉が本当であるならば、私の他に誰がこの人に八つ当たりをしたのだろう。……それはきっと煉獄さんのお父上に違いないのだった。
先代炎柱が鬼殺隊から離れて以降、長男である煉獄さんは若いうちから随分な苦労を自分に強いてきた。こうしたかしこまった場に慣れているのも、父に代わって煉獄さんがその席を埋めてきたからだろう。複雑な心境を顔には出さないようにしていたつもりなのに、「ほら」と骨張った指に頬をつつかれる。
「そんな顔をしていてはせっかくの綺麗な格好が台無しだぞ」
――それに、二人の時は名前で呼び合う約束だろう?
その言葉に、私はぽっと頬を赤らめる。
そうだった。今日はこの人のパートナーとして、その横で支持者たちに愛想を振りまくのが私の仕事だ。「はい、その……、杏寿郎さん」と私がぎこちなく笑顔を浮かべれば、煉獄さんも「よし」と笑って指を引っ込めた。
「お館様直々のご命令だ。しっかりと責務を全うし、あとで美味いものでも食べよう!」
そう言って腕を差し出す杏寿郎さんに、私は「はい」と苦笑して自分の腕を絡める。コルセットがキツくて料理に手をつけることなど考えもしなかったが、こんな時でも食に貪欲な恋人を心強く感じた。
筋肉質な腕にリードされると、ドレスで重い身体がふわりと宙に舞い上がるような気がする。ダンスは踊れないけれど、杏寿郎さんとなら少しくらい挑戦してみてもいいかなと思った。
▽
参加者は鬼殺隊の支持者ばかりということで、祝賀会はつつがなく進んでいった。杏寿郎さんが当主の代打だと自己紹介をすれば皆深々と頭を下げ、隣に立つ私にも「産屋敷家の皆様によろしくお伝えください」と目尻に皺を寄せる。
――鬼殺隊は私が思っていたよりずっと多くの人に支えられているんだな……。
最初は気後れしていたものの、自分の知らなかった組織の一面を知ることが出来て嬉しく思う。来賓を全て見送ると、私からも煉獄さんからもホッと安堵のため息が漏れた。私たちは、今日も己の責務を全うしたのだ。
ふわり、突然肩と背中があたたかくなり、私はふと後ろを振り返る。見ると、ベスト姿になった杏寿郎さんが脱いだばかりの上着を着せかけてくれた所だった。
「寒かっただろう。一日よく頑張ったな」
縫製係渾身のバッスルドレスは鎖骨から背中にかけてがほぼ剥き出しの造形だ。「ありがとうございます」とぶかぶかの襟元を合わせれば、その上からぎゅっと肩を抱き寄せられる。
「……お館様の命とはいえ、君が人前で肌を晒していると思うと挨拶中も気が気でなくてな」
心が狭くてすまない、と煉獄さんが弱ったように笑う。そんな恋人に、私はぶんぶんと首を横に振った。普段は清廉な恋人が悋気を起こしてくれるのは、乙女としては嬉しいことだ。
バルコニーから見える藍色の空には、既に冬の星座が幾つも光っている。新しい年んl最初の一日が、もう少しで終わろうとしている。
「……今年もよろしくお願いしますね、杏寿郎さん」
「こちらこそ!……まずはそのドレスを脱がすのを手伝おうか?」
そんな冗談を言う恋人の手を、私は頬を膨らませてきゅっと抓ってやる。「結構です」と言いつつ、一人でこの入り組んだ作りの洋服を脱ぐ事が出来るのか、一抹の不安もあるのだった。