「なぁ、先生。トリックオアトリート」

そんな言葉と共に差し出された手のひらに、なまえは思わず「えっ」と声をあげた。
授業が終わり、音楽室からはブラスバンド部の演奏が、グラウンドからはサッカー部のボールを蹴る音が聞こえてくる放課後。人もまばらな図書室で、司書教諭であるなまえが本の貸し出し作業をしていた時の事だった。

カウンター越しにこちらを見下ろしているのは、松葉杖をついた背の高い少年だ。以前は空手部のエースとして懸命に練習に取り組んでいた彼がこの図書室に入り浸るようになったのは、つい一ヶ月ほど前の事だった。

他校との練習試合中に足を痛め、高校生活最後の大会に出られないまま引退。「道場にいても邪魔になるだけだろう」と、彼が次の居場所として選んだのがこの図書室だった。
このまま腐ってしまわないよう、これから教職員全員で見守っていこう。そんなふうに職員会議の話題に上がった事をなまえは今でも覚えている。

「−いや、それは、駄目だよ。図書室はほら、飲食禁止だからさ」

差し出された彼の手と顔を交互に見比べながら、なまえは何とか声を絞り出した。思いのほか声が上擦ってしまった理由は、目の前に立った少年の瞳が不穏にギラついていたからだ。
本のバーコードを一つ一つスキャンしながら、なまえは気付かれないようにこめかみに浮いた冷や汗を拭う。なんだか、あまり良くない雰囲気な気がした。

「なんだそれは。ちっとも答えになっていないな」

案の定、彼はなまえの回答が気に入らないようだった。長い睫毛で縁取られた瞳がグッと細まり、前のめりになった拍子にカウンターにぶつかった松葉杖がゴツ、と鈍い音を立てる。

「別に俺は腹が減っているから菓子を強請っているわけじゃない。ハロウィンである今日、“もしかしたらいつも真面目な先生まで菓子を配ってはしゃいでいるのかな”と興味が湧いて聞いてみただけだ」
「…そんな、勤務中にお菓子なんて持ち歩かないよ」

勤務中でも当たり前のようにガムを噛んでいる美術教師がいる事を、この学校の関係者なら誰もが知っている。
しかし、今だけはなまえはその事実を無視する事に決めた。そんな事をいちいち気にしていては、この学園ではやっていけないのだ。
上っ面でしか話さない司書教諭に、少年はさらにイラついて首を傾げる。

「だから、結局は何も持っていないのだろう?可愛い生徒に渡せるような菓子は」
「うん、そうだね。でも、さっきも言ったけど、図書室は飲食禁止で−…」
「だったら、」

俺は先生に悪戯しても良いというわけだ?

少年の言葉に、なまえの肌がぞわりと粟立つ。冷たく硬い指先がつぅ、とスキャナーを掴むなまえの右手を撫でた。
慌てて手を引っ込めれば、その拍子にカウンターに積まれていた本がバサバサと滑り落ちる。「コラ!ふざけないの!」と精一杯声茶化してみたが、その声は自分でも情けなくなるほど震えていた。
若草色のネクタイを緩めながら、少年はどこか投げやりな口調で言う。

「先生だって、たまには年下を相手にしたい時もあるだろう?」
「なんの話?意味のわからない事言わないでよ」
「別に意味の分からない事を言っているつもりはないが」

毅然とした態度で接するべきだとわかっているのに、自分より大きな生徒を前にすると思わず足がすくむ。ギッ、ギッ、と松葉杖を軋ませながらカウンターを回って来る彼をどうすべきか、生徒指導に慣れていないなまえには検討もつかなかった。
もしこれが悪戯だと言うなら完全にやりすぎだ。しかし、自暴自棄に陥った少年には、最早そんな判断はつかないのかもしれなかった。

「…いつも澄ました顔のアンタがどんな風によがるか、実はずっと興味があったんだ」

スイング扉を押してカウンター内に入ってきた少年に、なまえはゴクリと唾を飲み込む。逃げ道が塞がれてしまった事に強い絶望感を覚えた。

「まぁ、今の俺は怪我をしているから?そちらがリードしてくださると助かるんだがな。−なぁ、先生?」

そんな軽口を叩きながら、少年は楽しそうにカウンターに松葉杖を立て掛ける。履き潰した上履きが散らばった本を踏んだ、まさにその時だ。


「何をしている」


地を這うように低い男の声音に、びくりと少年の肩が揺れた。驚いて出入口へと目をやれば、そこには今日の鍵閉め当番である社会科教師・煉獄杏寿郎が立っている。猛禽類のように丸い瞳が、暗い廊下からまんじりともせずに少年、そしてなまえを見つめている。視線はそのままに、大きな口がゆっくりと動いた。

「下校時刻はとっくに過ぎているぞ、猗窩座少年。まだ図書室に用があるのか?」
「……無い」
「そうか!なら身支度をして帰るといい。忘れ物のないようにな!」
「………」

煉獄の言葉に、少年は小さく舌打ちをしながら松葉杖を抱える。「これで終わりだと思うな」。なまえにだけ聞こえる声でそう呟くと、社会科教師には目もくれずに図書室を出ていった。そんな少年を、煉獄は険しい目付きで見送る。

どうやら知らないうちに息を詰めていたらしい。なまえがよろけるようにカウンターに手を着けば、すぐさま煉獄が「大丈夫か?!」と肩を支えてくれた。

「少年になにかされたのか?!」

必死の形相で顔を覗き込む同僚に、なまえはふるふると首を振る。

「いえ、「ハロウィンだからお菓子をくれ」と絡まれただけです。私が上手く言葉を返せなくって」
「本当か?とてもそれだけには見えなかったが」

真っ直ぐな瞳に射抜かれ、なまえは内心狼狽える。本来ならば、生徒指導の内容は他の教員にも包み隠さず共有すべき事だ。
しかし、先程の会話を全て報告すべきとは、なまえにはどうしても思えなかった。自暴自棄になっているとはいえ、彼はまだまだ未来ある子供だ。彼があれを“悪戯”だと言うのなら、それを本当に悪戯で片付けてあげるのが今のなまえに出来る精一杯の教育だった。

「本当に、私の指導力不足なんです。図書室が飲食禁止である事を上手く納得させられなくて」
「……本当にそれだけなんだな?」
「はい。とはいえ、煉獄先生が来てくださって助かりました。−鍵閉めですよね?ここは私がしておくので先生は」

どうか続きを、という言葉は出てこなかった。煉獄がなまえの事を力いっぱい抱き締めていたからだ。

「?! なにしてっ…!」
「そこまで言うのなら、君の言葉を信じよう。…ただし、今後は何かあったら必ず俺にも相談してくれ」
「っ、あのですね…!」
「彼氏ヅラするなと言いたいのだろう。でも本気だ。君に何かあった時、一番に駆けつける存在でありたいんだ」
「わ、わかりました、わかりましたから…!」

離して、となまえが腕を突っ張れば、煉獄は存外素直にその身体を離す。赤くなった顔を見られるのが嫌で、なまえはわざと煉獄に背を向けて床の本を拾った。
じゃらん、金属が擦れる音に顔を上げれば、煉獄は校内のありとあらゆる鍵をまとめた束をなまえの前で軽く振る。

「良かったら、このまま一緒に鍵閉めに行かないか。そして帰りに甘いものでも食べに行こう。その後は勿論、家まで送る」
「…お気持ちだけ受け取っておきます。街はハロウィンで人がいっぱいでしょうし、まだ仕事も残ってますから」
「では、ここで待っている!甘いものも君の家で食べる事にしよう!」
「なんでそうなるんですか!」
「今日がハロウィンだからだ!」

煉獄は近くの椅子に腰掛け、背筋をぴんと伸ばしてなまえを見つめる。まるで訓練の行き届いた警察犬のような面持ちだ。

「ハロウィンは甘い物を食べる日だろう」
「…違いますけど。死者の霊が家族を訪ねてくる日です。お菓子は悪霊を追い払うためのもので…」
「勿論知っている。だからこそ、一人でいるのは良くないと思ってな」
「なんでですか?別にもう、オバケを怖がるような歳でもないですよ」
「こんな日に一人で泣いていては、悪いオバケに連れ去られてしまうぞ」

煉獄の言葉に、本を棚に戻していたなまえの手がふと止まる。

「君を一人で泣かせるなんて、絶対に嫌だ」

今になって、本を抱えた両腕が震え出した。
本当は怖かった。少年がカウンターに入ってきた時、もしかしたら本当にレイプされるかもしれないと、確かに身の危険を感じた。大泣きまでは行かないにしても、家に帰って、玄関のドアを閉めたらポロリと涙が落ちるくらいには怖かった。

「…うまいさつまいもタルトを出す店を知っているんだ」

男の言葉に、「そこは普通カボチャでしょう」と返したくなるのをなまえはグッと我慢する。
さつまいもクリームの優しい甘みを想像しながら、最後の一冊を棚に押し込んだ。

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