九月一日。長かった夏休みがついに終わり、今日から新学期が始まるという日の朝。
目を覚ました瞬間に寝坊を確信した。
ガバリとタオルケットを跳ね除ければ、壁にかけられた時計は既に家を出る時間をとうに過ぎている。信じられない気持ちで枕元の目覚まし時計に手を伸ばせば、午前三時を少し過ぎた所で全ての針が活動を停止していた。
こんな日に限って電池切れだなんて!
バタバタとパジャマから制服に着替え、一階へと続く階段を駆け降りる。コーヒーとトーストの匂いが漂うリビングでは、すっかりお化粧まで済ませたお母さんが真剣な表情でテレビに見入っていた。
オリンピックが始まる直前に買い替えられた最新型のテレビには、金メダルを掲げたイケメン体操選手が映っている。宇髄天満選手。最近のお母さんのお気に入りだ。
「天満くん、まだ若いのにホントすごいわよね〜!大物だわぁ、きっとそのうち自分の名前がついた技とか出しちゃうんだわ!」
「そんな事今どうでもいいから!なんで起こしてくれなかったの?!今日から二学期なのに〜!」
「だってアンタ、いつも自主的に起きるじゃない」
「その娘が自主的に起きて来なかったら見に来るでしょフツー!」
「そんな日もあるのかなって思ったのよ。あ、天満くんのインタビュー始まるから静かにして!」
シッシッと犬猫のように追い払われ、私はウーウー唸りながらローファーに足を捻じ込む。今日に限って美味しそうに感じる朝食の香りを恨めしく思った。
空腹を訴えるお腹をさすりながら、私はキッとリビングを睨みつける。「いってきまーす!!」とわざとテレビの音をかき消すように声を張り上げた。
寝坊したからといって「じゃあもう遅刻でもいっか☆」と割り切れるほど、私は自分に甘くいられない。学校までは歩いて約二十分。全速力で走ってもアウトになる可能性は高いが、もし門前に立っているのが村田先生なら普段真面目に過ごしている私を邪険にはしないだろう。もしかしたら「今回だけだぞ」とこっそり門を開けてくれるかもしれない。
そんな淡い期待に縋って走っていると、不意に頭上、−本当に頭の遥か上の方から「危ないよぉー」と誰かの声が聞こえた。
「危ない」と言うわりにはいまいち緊張感のない声だ。何事かと顔を上げれば、学生服の男の子が私目掛けて降ってくるのが見える。
「−えっ!?きっ、きゃぁあ!」
思わず悲鳴をあげて身を引けば、男の子はダァン!と凄まじい音を立てて私の身体スレスレの所に着地した。
もしあのまま声に気が付かなかったら…−。そう考えると、ただでさえ汗びっしょりの身体に更に冷や汗をく。
「あれぇ?なまえちゃん?」
そんな私の心境などつゆ知らず。パッパッと制服についた埃を払いながら立ち上がった男の子は、へにゃりとした笑顔で私の名前を呼んだ。赤みがかった癖毛に丸い大きな瞳、締まりのない笑顔。同じクラスの竈門炭彦くんである。
「か、竈門くん?!今、どこから飛んで…!」
「ちょっと近道したんだぁ。それにしてもこんな時間に会うの珍しいねー」
「寝坊しちゃったの?」そう問いかけてくる竈門くんに、私は目覚まし時計の電池が切れてしまった事を話す。なんだか言い訳っぽいかな?と自分でも思ったが、竈門くんは「そっかー。それは大変だったねー」と尚もへにゃりと笑っただけだった。
「竈門くんこそどうしたの?もうほぼ遅刻確定だよ?」
今度は私の方からそう問い返せば、
「誰も起こしてくれなくってさー。皆勤賞が欲しいから起こしてって言ってるのにー」
困っちゃうよねぇ、と竈門くんはポリポリと頭を掻く。こんなにもマイペースな彼が皆勤賞狙いだなんて随分と意外だった。
意外なのはそれだけではない。竈門くんが私の下の名前を知っている事だって意外だ。あまりにも彼が自然に私の事を「なまえちゃん」呼びするのでつい突っ込むのも忘れたが、彼ときちんと話すのは今日が初めてである。
ぼんやりしているようでいて、すっと他人との距離を縮めてこちらをドギマギさせる。竈門くんはそういう男の子なのだ。
それにしても、こんな所で立ち話をしている場合ではない。「とにかく急がなきゃ!」そう言って走り出した私を、竈門くんの腕が「おっと」と引き止める。
「そっちの道よりこっちの方が早いよー」
そう言ったのも束の間、竈門くんはひょいとすぐ横のブロック塀に飛び乗った。高さ約二メートル、二十センチ程の幅しかない塀の上で器用にバランスを取りながら、「はい」と私に向かってに手を差し出す。
なんでこのタイミングで握手?
そう思いつつその手を握り返せば、竈門くんはひょい、と、まるで魔法でも使っているかのように軽々と私を塀の上に引き上げる。
「ぅえっ?!えっ、なに?!」
「よぉし、じゃあ行っくよー」
「行くってなに!?や、ちょっと、竈門くん?!」
まるで体育の平均台のようにブロック塀の上を走りながら、私は信じられない気持ちで竈門くんを見つめる。
男の子の力を借りたとはいえ、体育3の私が自分の身長より高い壁を登り、更にはその上を走っているだなんて…!
そんな私の動揺などお構い無しに、竈門くんは「次、右に曲がるよー」だなんてのんびりと、しかし驚くべきスピードで塀の上を走っていく。握手かと思って差し出した右手は、さっきからずっと繋がれたままだ。
「もう少し走ったら三つ数えるから、なまえちゃん、いちにのさんでジャンプしてくれるかなぁ?」
「えっ、ジャンプ?!ジャンプってどういうこと?!」
「いいからいいから。僕に任せてよー」
そうして私が慌てている間にも、「いくよー」「いち、にーの」とカウントダウンが始まってしまう。進行方向に目を凝らすと、数メートル先でブロック塀が途切れているのが見えた。その奥に見えるのは板張りの垣根と、隅々まで手入れされた小さな庭だ。
え、もしかしてそこ通っちゃうの?!他所様のお家ですけど?!
そう思った次の瞬間、竈門くんの「さん!」の声が青い空に響く。ええいままよと目を瞑って跳び上がれば、ふわりと腰に腕が回される感覚があった。
「−はい。なまえちゃん、また走るよー」
すとん、と地面に足がつく感覚に目を開ければ、そこは確かに先ほど見た小さな庭だった。縁側で将棋でも指していたのだろう、タイプの違うおじいちゃん二人がぽかんとした表情で私たちを見つめている。
こんな時なんと言ったらいいのだろう。勝手に庭に降りたった事を謝るべきなのだろうが、上手く言葉が出てこない。
そんななか、
「いつもすみませーん」
そう言って、腰を支えていた竈門くんが再び私の手を引く。ジャンプして垣根を跳び越えると同時に、口髭を生やしたおじいさんの「こりゃあ!」という声が聞こえた。
「……いつもすみませんって、もしかして毎日?」
そう問いかければ、竈門くんはあはははと笑って誤魔化す。この時初めて、私は竈門くんが“危険登校常習犯”と呼ばれる由縁を知った。
更にしばらく走っていると、後ろからダダダダダダ!と何かが猛スピードで近付いてくる音がした。何事かと振り返れば、なんとまたも見覚えのある顔で驚く。
朝日を浴びてきらきらと輝く金髪に、黒々とした太い眉。剣道部のエース・煉獄桃寿郎くんである。
前を走る私たちに気付いたのだろう。大きな目がカッと見開き、あっという間に三人横並びになる。
「炭彦!なまえ!おはよう!」
「おはよー桃寿郎くん」
「お、おはよう…!」
なんと、煉獄くんまで私を下の名前で呼ぶ。嫌ではない。決して嫌ではないのだけれども、二人のあまり自然さに“あれ?私のほうがおかしいのかな?”と謎の錯覚を起こしそうになる。
「いい朝だな!炭彦はともかく、なまえが遅刻ギリギリとは珍しい!」
「寝坊か?!」と問う煉獄くんに、私は竈門くんにも言った話を繰り返し聞かせる。「それは災難だったな!」と煉獄くんも笑った。本当の事とはいえ、なんて他人を疑わない人達なのだろうか。
煉獄くんはというと、早朝の自主練習に打ち込みすぎたらしい。お父さんにぶっ飛ばされるまで気づかなかったと言うのだから、その集中力には思わず舌を巻いた。
のんびり屋な竈門くんと、活発な煉獄くん。こんなにも違う二人がなぜ仲良しなのか、私は不思議で仕方がない。
煉獄くんから剣道部の勧誘を受けながら走っていると、ついに一ヶ月半ぶりの学び舎が見えてきた。腕時計に視線を落とせば、遅刻までまだあと三分の猶予がある。
「良かった…!なんとか間に合いそう…!」
そう思ったのも束の間。竈門くんと煉獄くんを見つけたのだろう、見守り係の村田先生が「門を閉めろー!」と大きな声で叫んだ。今日こそ危険登校常習犯を締め出してやろうという考えらしい。指示を受けた生徒たちが重い校門をガラガラと閉めていくのが見える。
あぁ、やっぱり駄目なのか。思わず諦めそうになる私とは対照的に、隣を走る男の子二人は「間に合いそうだな!」「だねー」と信じられない会話をしている。
「えっ、もう無理なんじゃ...」
「大丈夫だと思うよー。なまえちゃん、またいちにのさんでジャンプできる?」
「名案だ!なんなら俺も手を貸そう!」
その言葉と同時に、私のもう一方の手を桃寿郎くんが握る。毎日稽古に励む手は分厚く、マメが硬くなってゴツゴツしていた。
何が大丈夫なのかは全く分からないが、ここまで来たらもう彼らの言葉を信じるしかない。校門まであと五メートル。男の子二人に手を引かれながら、私は最後の力を振り絞って走る。
「行くぞ!いち!」
「にーの」
「「「さん!!」」」
三人で声を揃えて地面を蹴れば、ふわり、まるで風に乗って飛ばされる綿毛のように身体が宙に浮いた。右側を竈門くん、左側を煉獄くんに支えられながら、三つの影は軽々と校門を飛び越える。風を孕んで膨らんだスカートの下、白目を向いてひっくり返る村田先生が見えた。
下駄箱を駆け抜けて教室へと向かうと、そこにいるのは久しぶりに顔を合わせるクラスメイトだけだった。担任はまだ来ていない。それはイコール、新学期早々の遅刻は免れたという事である。
「よかったぁ…」
懸命に呼吸を整えながら、私は自分の席によろよろと腰を下ろす。机の下、今になってがくがくと膝が笑っていた。
やはり、体育3の私には今朝のような登校は相当負担が大きかったようだ。力の入らない足を曲げ伸ばししながらふーっと息を吐き出す。
それでも、たまにはこんなのも良いかもな、と思った自分に苦笑いが零れた。
▽
始業式には無事出られたものの、今回の件で私は完全に先生方に目を付けられてしまった。
「もう二度とあんな危険な登校はしないように」と厳重注意を受けた放課後、しょんぼりと廊下を歩いていると、下駄箱に寄りかかる二人の男の子に気が付く。一人は金髪の男の子。もう一人は、赤みがかった黒髪の男の子だ。
「む、来たな!」
「良かったら一緒に帰ろー」
差し出されたふたつの手に、私は笑顔で駆け寄った。