「...−今日は、もう少しだけ贅沢をしようか」

正面に座る杏寿郎から放たれた言葉に、なまえはコーヒーカップを両手で抱えたまま「うん?」と首を傾げた。
ウィンドウショッピングを終え、まるで吸い寄せられるように立ち寄った喫茶店。感じの良い店員に窓際の特等席へと案内された二人の足元には、ブランドロゴが印字された大きな紙袋が置かれている。

“バレンタインのお返しに、何かプレゼントを送らせて欲しいんだ”

そう言って譲らない杏寿郎に手を引かれるまま訪れたのは、都内でも有数のショッピング街だった。街のシンボルとも言える時計塔から十字に伸びる大通りには、高級ブランドからファストファッションまで所狭しと店が並んでいる。欲しい物はなんでも揃うその街を一日かけて歩き回った末に二人が買い求めたのは、なまえが以前から贔屓にしているシューズブランドの上品なミュールだった。
「もう少しだけって」そう口篭りながら、なまえはちらりと足元の紙袋に視線を落とす。

「もう充分過ぎるほど贅沢しましたよ。デートして、ご飯食べて、極めつけにはこんな素敵な靴まで買って貰っちゃったんですから」

これ以上何かしてもらってはバチが当たるというものだ。しかし、杏寿郎は腕組みをして首を横に振る。

「今年のバレンタイン、なまえは俺に二つチョコレートをくれただろう?なんとか、という難しい名前の高いやつと、君の手作りのと」
「二つあげたのは手作りのやつに自信が持てなかったからですっ!」

恋人の言葉に、なまえはわぁっと泣き崩れる真似をする。それは思い出したくもない先月の記憶だった。
誰でも簡単に作れる!という謳い文句に惹かれて買ったバレンタイン用のレシピ本。ふんわりと軽い口どけになるというそのチョコレートケーキは、焼き上がりはとても美味しそうだったのに、時間が経つと何故かぺしゃんこに潰れてしまった。
せっかくのバレンタインがこれでは恋人の笑顔まで萎んでしまう。慌てて閉店間際のデパートへと駆け込んだ記憶を、ひと月かけてどうにか抹消したと思ったのに。テーブルに突っ伏したなまえに「それでも、二つは二つだ」と杏寿郎は朗らかに笑う。

「高いほうも美味かったが、なまえの手作りのほうがもっと美味かったぞ。だからもう一つお返しをさせてくれ」
「駄目です。それじゃ私が貰いすぎになっちゃう」
「なるものか!そもそもその靴だってシーズンオフでセールになっていた物だろう。それを言うなら俺の方が貰いすぎている」
「だってこれが可愛かったんですもん。プラダを着た悪魔のアンディが履いてるやつに似てて」
「その女性の事は全く存じ上げないが、とにかく予算が余っているということだ」

そう言いながら、杏寿郎はジャケットからスマートフォンを取り出す。時間にして一〜二分だろうか、すいすいと指先で画面を撫でていたかと思うと「よし、決めた」と一気に目の前のコーヒーを飲み干した。伝票を掴み、向かいのファストファッションの店を指差す。

「まずはあそこの服屋に行こう!」
「? いいですけど、お洋服が欲しかったんですか?」

この喫茶店に辿り着く前にも、洋服を扱う店には何件も寄っていた。なかには杏寿郎の贔屓の店もあった気がするが、何故そこをスルーしたのだろうか。

「あぁ!ちなみに君の分も買うぞ」
「えっ?ちょ、ちょっと、煉獄さん!?」

頭の上に幾つものクエスチョンマークを浮かべながら、なまえは急いで手の中のコーヒーを飲み干す。いつの間にか会計を済ませている恋人の背を慌てて追いかけた。





二人分の洋服を抱えて訪れたのは、駅から徒歩二分程の所にある綺麗なホテルだった。ホテルと言っても、カップルが入れ替わり立ち代り入っていくようなアレではない。宿泊を前提として作られた清潔感のあるしっかりとしたホテルである。

大理石の敷かれたモダンなエントランスを抜けて中へと進めば、フロントの女性はすぐにこちらに気がついた。「いらっしゃいませ」と柔らかく微笑み、恭しく頭を下げる。どうやら先程の喫茶店で既に予約を済ませていたらしい。杏寿郎が名前を伝えると、彼女はすぐに902と書かれたカードキーを差し出した。
「エレベーターはあちらにございます。なにか御用がありましたら、いつでもご連絡くださいませ」そう言って再び頭を下げる女性に、こちらまでつられて頭を下げてしまう。

「ちょ、ちょっと煉獄さん!」
「なんだ?」
「なんだ?じゃないです!なんですかこのホテル。もしかしてさっき言ってた贅沢って...!」
「あぁ!物は受け取ってくれなそうだったから、思い切って部屋を取る事にした!東京タワーが見える部屋だぞ!」

楽しみだな!と笑う杏寿郎に、なまえは目眩さえ覚える。普段はとても優しい自慢の恋人なのだが、時折こうして突拍子も無い事をするのがたまにキズだった。
洋服を買いに行こうと言ったのも、どうやら明日の着替えを用意するためだったらしい。靴に着替えにホテル。一体今日だけでどれ程のお金を使ったのだろう。
頭を抱えながらエレベーターへと乗り込んだなまえに、杏寿郎は「そんなに心配するな」と笑いながら9と閉じるボタンを押す。

「宇髄や冨岡と旅行した時のポイントがもう少しで失効しそうだったんだ。丁度使い切れて良かった」
「ポイントを使ってもそこそこ高かったんじゃ...?」
「そうでも無いだろう。実質負担額はせいぜい高級チョコ一箱分くらいじゃないか?」

彼がそう言うのならそうなのだろう。というか、そうであって欲しい。ぐんぐんと上がっていく階数を見つめながら、なまえは複雑な感情に頭を悩ませていた。

正直に言えば、自分のためにここまでしてくれた彼を愛しく思う。最近はなかなか遠出も出来ていなかったし、今日は土曜日だから明日の仕事の心配もない。
それにしても、それにしても急すぎやしないか。その辺のホテルでちょっと休憩、というのならともかく、お泊まりともなれば乙女には色々と準備がいるというのに!

思わず開きかけた唇を、なまえは何も言わないまま閉じた。隣りに立つ杏寿郎から鼻歌が聞こえてきたからだ。先日一緒に観た映画の主題歌であるそれは、それだけ彼もこのお泊まりを楽しみにしているという事だろう。あまり上手とは言えない鼻歌一つで、文句を言う気も失せてしまう。

すぐ横の太い腕にそっと自分の腕を添えれば、杏寿郎は微笑みながら「どうした?」と問う。「...ありがとうございます」なまえが小さく礼を言えば、男は「どういたしまして」と律儀に返すのだった。





杏寿郎が902号室のドアにカードキーを翳すと、ドアノブについている小さなランプが赤から緑へと変わった。そろそろとした足取りで部屋の中へと入れば、そこには藍色の絨毯にスワロフスキーを散りばめたかのような美しい夜景が広がっている。眩い景色の中央にはどこかレトロさを感じる赤い電波塔がライトアップされていた。

「すごい」

窓に手をついて夜景に見入っていると、バスルームの方から蛇口を捻る音が聞こえてくる。振り返れば、腕まくりをした杏寿郎がバスルームのドアから出てくる所だった。どうやらお風呂を溜めてくれたらしい。

「気に入ったか?」
「はい、とっても!」

そう答えれば、杏寿郎は「ならよかった」となまえの額に小さく口付ける。水仕事をしたからだろう、ほんのりと冷えた指先で愛おしそうに頬を撫でた。

「今日は沢山歩いたから疲れただろう。...良かったら一緒に風呂に入らないか?」
「もしかして、最初からそれが目的でした?」
「否定はしない!俺も男だからな」

杏寿郎の言葉になまえは思わず吹き出す。「正直者ですね」と口では嗜めながらも、ちゅ、と男の頬に口付けを返した。愛し合う二人がホテルに泊まるのだ。エレベーターを出た時にはなまえにだってそういう気持ちが芽生えていた。
ぎゅっと厚い胸板に抱きしめられれば、それだけで身体が熱くなる。お湯が溜まったのだろう、水音が止まった事に気付いたなまえは、杏寿郎の手を引いてバスルームへと向かうのだった。


ジャグジー付きの泡風呂で浮腫んだ脚をマッサージしてもらう。際どい体制に最初は緊張したものの、なまえはすぐに杏寿郎のマッサージの虜になった。男の太い指の腹でぎゅう、と足裏を押されれば、口からは鼻にかかった声が漏れ出る。

「痛いか?」
「いえ...、んん、」
「...なまえ」
「っ、あ、そこ気持ちいい」
「なまえ」
「あっ、はい」
「そんな声を出されると、こちらまでそういう気分になってくるのだが?」

杏寿郎の言葉に、なまえは慌てて脚を引っ込める。危ない。マッサージが気持ち良すぎて完全に無意識だった。

「君がその気なら、このまま此処でしてもいいのだが?」
「それは...ごめんなさい」
「まったく。よもやよもやだ」

呆れたように笑いながら、杏寿郎はザバリと泡風呂を出る。手早く身体の泡を流しバスローブを羽織ると「よぉくあたたまっておいで」と言ってバスルームを出て行った。


銀座という土地柄もあるのだろう。洗面台に置かれたアメニティーは高級ブランドの物で統一され、封を切る度になんだか特別な気分になる。アールグレイの香りと書かれたヘアオイルを髪に馴染ませ、しっかりとブローをしてバスルームを出れば、部屋の電気は全て消されていた。
辺りをぼんやりと照らすのは夜空の星と煌めく夜景だけだ。まるでプラネタリウムの中にいるような幻想的な雰囲気の中、なまえはバルコニーの柵にもたれて涼む杏寿郎を見つけた。杏寿郎もなまえに気が付いたようだ。まるで子供にするようにおいでおいでと手招きする。

誘われるままにバルコニーへと出れば、春の柔らかな夜風が洗いたての髪を撫でる。「良い風ですねぇ」なまえの言葉に杏寿郎も「そうだな」と頷いた。
見れば、その骨ばった手には銀色に光る缶ビールが握られている。エレベーター横の自販機で買ったものだろう。無言で受け取ってごくりと一口飲み込めば、ぬるくて苦い液体がぱちぱちと弾けながら喉を滑り落ちていった。「ふぅ」一息吐いてもう一口、と缶を傾ければ、飲み口が唇に触れる前に男の手がひょいと缶ビールを抜き取ってしまう。

「えっ、もう一口」
「駄目だ。君、あまり強くないだろう」

確かに、なまえはあまり酒に強い方とは言えない。一緒に居酒屋に入っても甘いカクテルを一杯だけ飲み、後はソフトドリンクを頼むような下戸だ。
しかし、今日はもうどんなに酔っても終電を心配する必要はないのだ。何故ならここはホテルで、すぐそこにシモンズのダブルベットがどんと置かれているのだから。

「もう一口くらい良いじゃないですか。最近やっとビールが美味しいと思えるようになってきたんです」

そう言って口を尖らせれば、杏寿郎はふふ、とほんの少しだけ意地悪に笑う。

「そこまで言うなら構わないが、している最中に寝落ち、なんてのは御免だぞ」
「だっ、大丈夫ですよ!馬鹿にしないでください!」
「そうか。ならもう一口あげよう」

と言いつつも、杏寿郎は一気に缶を呷る。出っ張った喉がごく、ごく、と動くのを、なまえは「あー!」と不満げに見つめた。嘘つき!と文句を言おうとするなまえの顎を、杏寿郎の大きな手が素早く掬い上げる。薄い唇が重なり、そのままぐっと腰を引き寄せられた。

「ん、んンッ!?」

突然のキスに驚いたのも束の間、なまえの口内にしゅわりとした液体が流れ込んでくる。「ッ...!」受け止めきれなかったビールが口の端から零れ、バスローブの首元を濡らした。
口の中のビールが全て無くなっても、杏寿郎の舌は入ったままだ。アルコールの苦味をかき消すように何度も角度を変えながら、男の舌がなまえの舌を嬲る。九階とはいえ、辺りには幾つもの高層ビルが並んでいる。もしこんな所を誰かに見られていたら...!

「っは、煉獄さ...!此処じゃ、だめっ」
「なら何処なら良い?」
「んっ、ベッドで...」

なまえのか細い懇願に、男はゆったりと目を細める。その双眼は夜空を彩る電波塔と同じ色で光っていた。






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