いつだって、幸と不幸は手を繋いでやってくる。


『−煉獄先生でいらっしゃいますか?』

鼓膜を揺らしたその声に、心臓が大きく跳ねるのを感じた。凛とした、それでいて木漏れ日のように優しい声だった。聞き間違えなど万に一つも無かったが、それでも「よもや」という思いは拭えなかった。
受話器を持つ手が震え、思わず力が籠る。座っていた事務椅子がぎぃい...と不穏な音を立てた。
返事を、早く返事をしなければ。
そう思えば思うほど、口の中が乾く。

『もしもし、聞こえますか?』

こちらの応答がないからだろう。受話器の向こう、電話片手に不安げな彼女の顔が目に浮かぶようだ。
優しく、聡明で、笑うと眉が八の字に下がる彼女。あまりの懐かしさに目頭が熱くなる。

『...もしもし?もしもし...』

職員室で泣くわけにはいくまいと、慌てて目を押さえた。彼女をこれ以上不安にさせてはいけない。なんとか「あぁ、」と返事をすれば、彼女も『あぁ、よかった』と声に安堵を滲ませる。

『はじめまして。みょうじなまえと申します』

その一言がどれほど残酷なものだったか、君は知らないだろう。





前世というものを、それまで信じたことはなかった。自分であって自分でない記憶。そんなものが自分にもあるなんて、思ってもみなかった。

兆候はあった。既視感、いわゆるデジャヴというやつだ。
電線にとまった鴉が自分に向かって鳴いた時。
体育倉庫にあった竹刀を戯れに振ってみた時。
キャンプファイヤーの炎がじりじりと頬を焦がす時。
これまで一度も体験したことがないのに、既にどこかで体験したような気がするのだ。そしてその直後、決まって激しい頭痛に襲われる。
あまりの痛みに目を瞑れば、目蓋の裏に熱い炎が燃え盛る。返り血を浴び、次々と化け物を倒していく自分が見えた。


ある日の仕事終わり。酒を飲みながら、軽い気持ちで宇髄に相談してみた。すると、それまで嫁の自慢ばかりしていた同僚が「思い出したのか!?」と血相を変えてテーブルに身を乗り出した。
なんの事だと問えば、宇髄はしまった、というように苦い顔をする。薄い座布団に再び腰をおろし、目を逸らした。

「なんでもねぇ。忘れてくれ」

何か知っているようなその口振りに、大きな違和感を覚えた。知っていることがあるなら教えてくれと頼めば、宇髄は一層苦い顔をし、ジョッキを一息に仰ぐ。さらに追加したビールと焼酎を飲み干し、やっと口を開いた。

鬼殺隊。
遠い昔に存在した、命をかけて鬼を倒す組織の事を。

「お前は鬼殺隊炎柱、炎柱の煉獄杏寿郎だ」

宇髄の長い両指が、ずいとこちらを指さす。
そうして、俺は全てを思い出した。



宇髄に前世の話を聞いて以降、今の生活にも変化が生じた。今世で初対面だと思っていた人達が、実は前世でも知り合いだったという事だ。
今世は平和な世の中で、俺は刀の代わりに白墨を握り、教科書片手に黒板に向かっていた。

「煉獄さんも、思い出したんですね」

あ、今は煉獄先生か。と竈門少年が笑う。猪頭少年も、黄色い少年も、他の柱たちも、前世の記憶を抱えて今世を生きていた。
前世で待ち望んだ、皆が笑顔の平和な世界。
しかし、たった一人だけ、その輪にいない者がいた。

「なまえは?なまえはどうした?」

俺の言葉に、誰もが口を噤む。
俺の継子。前世で共に鬼を討ち、俺を支えてくれたなまえ。将来を約束し、しかし約束を果たす事は遂に出来なかった。

「なまえさんとは、まだ再会出来ていません...」

口を噤んだあと、誰もが同じ事を言う。
信じたくなかった。仕事終わりに街に出て、来る日も来る日も彼女を探した。
しかし、なまえを見つけることは出来なかった。


そんな彼女から、彼女の方から、電話が掛かってきたのだ。まさに驚天動地。嬉しくて、幸せで、愛おしかった。
なのに。

『教育実習をさせて頂きたく、お電話しました。お忙しいとは存じますが、近々お時間を作って頂けないでしょうか』

はじめまして、というなまえの言葉を、頭の中で繰り返す。そして瞬時に理解した。彼女はまだ、前世の記憶を取り戻していないのだ。
後日、俺を訪ねてきたなまえは、紛れもなくあのなまえだった。
しかし、やはり前世の記憶はなく、ごく普通の、歴史の教師を目指す女子大生だった。


「過去を無理矢理思い出させるなんて、野暮なことするもんじゃねぇぞ」

ガヤガヤと騒がしい焼き鳥屋で、宇髄に釘を刺される。「わかっている」と返したが、本心ではなかった。黒く大きな石が胸につかえているような、重苦しい気分だった。

今世のなまえも、前世と同じように優秀だった。真面目で、努力家で、周囲の人を自然と笑顔にさせる。煉獄先生、と彼女に呼ばれるだけで、これまでの空白が埋まっていくような気がした。
しかし、未だなまえに前世の記憶は戻らなかった。もうすぐ実習期間が終わろうとしているというのに、だ。
熱燗を手酌しながら、宇髄が言う。

「お前みたいに兆候が出ていたならまだしも、女子供が思い出して気持ちの良い記憶とも思えねぇ。ましてや師範兼恋人を無くした記憶なんて、思い出したくねぇのも当然だ」
「...しかし、実習はもうすぐ終わりだ。終わってしまえば、もう会えないかもしれん」
「今世ではそういう縁だったって事だろ」
「...諦めきれん」
「...弟子の幸せを願うのも、大事なことなんじゃねぇの」

お前らしくもねぇ。宇髄の言葉に、ぐっと言葉に詰まる。
前世を思い出す。それは、鬼を斬り、仲間を殺された記憶を思い出す事と同義だ。そしてそれには、俺自身の死も含まれている。
優しすぎるなまえにとって、それらは耐え難い記憶なのだろう。思い出したくないから、心で無意識にストップを掛けているのかもしれない。

だが、それでは俺はどうしたらいいのか。
せっかく愛する者を思い出し、再会したというのに。どうにも出来ないまま、また会えなくなってしまうのか。

自分が記憶を取り戻したのはついこの間だというのに、愛する者にもそれを期待してしまう。勝手過ぎて自分でも呆れた。自棄になってジョッキを一息に仰げば、宇隨が眉を顰める。

「変な気だけは起こすなよな、煉獄先生よぉ」

酔ったのだろう。同僚の言葉になんと答えたか、覚えていない。





「わざわざお見送りしていただくなんて、申し訳ありません」
「気にするな。俺がしたかっただけだ」

職員玄関で靴を履くなまえに、偽物の笑顔を向ける。模擬授業も終え、教育実習は無事終了した。今日でなまえと会える日々も終わる。

「短い間でしたが、お世話になりました。大変勉強になりました」
「うむ。こちらこそ楽しい実習だった!君はきっと良い教師になるぞ!」
「そう言って頂けて嬉しいです!」
「...何かあれば、いつでも相談してくれ」

そう言って、ポケットから紙切れを取り出す。連絡先を記したそれを、なまえに向けて差し出した。それが今の自分に出来る、精一杯のアクションだった。
本来、教師と実習生が学校外で連絡を取り合うのは禁止だ。しかし、これ位はいいだろうと自分に言い訳をする。

宇髄の言う通りだ。辛い思いをさせてまで、前世の記憶を取り戻す必要は無い。今を生きるなまえが幸せなら、それでいいじゃないか。
そのためなら、俺は幾らでもでも身代わりになろう。幸も不幸も背負い、君を想って生きていく。

「ありがとうございます!ちゃんと登録しておきますね!」

なまえの細い指が、連絡先の書かれた紙を受け取る。丁寧に二つに折り、スーツのポケットにしまった。
これで縁は繋がる。これで良かったのだと、無理矢理自分を納得させる。

「君が無事教師になったら、お祝いに食事でもいこう!」
「はい!では煉獄先生、お元気で」

荷物を肩に掛け直したなまえが、丁寧に頭を下げる。伏せられたまつ毛が長かった。そのまつ毛に触れ、口付けてしまいたかった。
「あぁ、君も元気でな!」と手を振る。最後ににっこりと笑い、なまえはこちらに背を向けた。その後ろ姿に、心の中で語りかける。


愛している。前世から、時を超え今もずっと。


リクルートスーツの背中を、見えなくなるまで見送る。夕闇に溶けていく服はどこか隊服に似ていて、苦しくなるほど切なかった。





それから数ヶ月。何事も無く時は過ぎていった。
炎柱として鬼を追う日々も忙しかったが、現代の教師という仕事も中々に忙しい。授業準備、職員会議、部活動の指導など、授業以外にも毎日仕事が山積みだった。

今回の小テストは、少し難しかったようだ。赤ペンで丸ばつを付けていると、にわかに机上の携帯電話が震えた。
知らない番号だが、出ない理由もない。画面をタップして耳に当てる。

「もしもし」
『−...もしもし。煉獄さん、ですか...?』

木漏れ日のように優しい声に、熱いものが込み上げる。

「あぁ、」

返事をする声が、涙で少しだけ震えた。



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