今年の冬は例年になく冷えるという。
日暮れと共に降り始めた冷たい雨はシトシトと音を立てて庭の木々を濡らしていたが、無一郎が目を覚ました時にはもうその物寂しい音も聞こえなくなっていた。あまりの静けさにそっと布団から抜け出して庭へと続く戸を開けてみれば、外はたった一晩のうちに白銀の世界へと変わっている。吐く息は白く、袖の隙間から入ってきた冷気がひやりと二の腕を撫でる。ぶるり。肩を震わせた無一郎は、まるで起きる季節を間違えたとでも言うように戸を閉め、ぬくもりを残した布団へと這い戻った。長い髪がもつれるのも気にせず、静かに瞼を落とす。

今日は久しぶりの非番である。非番の日も稽古を欠かさない柱は多いが、無一郎はそうではなかった。無論、やる時はやるが、今日のように寒い、ましてや雪の積もった日にわざわざ刀を振るおうと思わない程度には、無一郎は面倒臭がりだった。
なんだったら今日は食事もいらない。一日中このあたたかな布団の中でぬくぬくと猫のように丸まっていたい。
そう思っていたのに、その願いは戸を叩く音であっけなく頓挫する。

「無一郎ー!無一郎いるかー?」

ドン!ドン!ドン!という無粋な音が、分厚い布団の中にまで響いてくる。狭い額を枕に押し付け、無一郎は暫し逡巡した。
あの声は、恐らく友人である竈門炭治郎のものだ。これが水柱あたりだったら絶対に居留守を決め込んでいたのにと顔を顰めながら、無一郎はゆっくりと重い腰を上げる。
冷たい廊下をぺたぺたと素足で進み玄関を開ければ、そこには襟巻をした友人がいつも通りの笑顔で立っていた。寒さで赤く染まった頬は、庭にある七竈と同じ色をしている。

「おはよう!無一郎!」
「おはよう。どうしたの炭治郎、こんなに朝早く」
「ごめん!どうしても無一郎に相談したいことがあって」

上がってもいいかな?と首を傾げる炭治郎に、無一郎はこくりと頷く。柱一人につき一軒与えられる屋敷は、天涯孤独な無一郎には広すぎる住まいだった。草履を脱ごうと上がり框に腰掛けた炭治郎のつむじを、無一郎は不思議な顔をして見下ろす。自分の家に人を上げるのは、殆ど初めての事だった。

「着替えて来るから、少し待ってて」

そう言って寝所に戻り、寝巻きから白藍の袷に着替える。足袋を履き、手櫛でわしわしと髪を整えながら居間へ戻れば、なんとそこには朝食の準備が整っていた。

高足膳には白米と味噌汁、根菜の煮物がほこほこと湯気を立て、火鉢には赤々とした炭が据えてある。昨夜濡れたまま放っておいた隊服も、きちんと衣紋掛けに吊るしてあった。目を見開いて驚く無一郎に、お茶を用意していた炭治郎が「あっ」と声を上げる。

「ごめんな!勝手に色々やってしまって...」
「ううん、いいよ。...これ、全部炭治郎がやったの?たった今?」
「まさか!作ったのは確かに俺だけど今じゃないよ。蝶屋敷で作ったのをここの厨で温め直しただけ。ほら、俺炭焼き小屋の息子だからさ!火起こしは得意で」
「ふぅん。美味しそう。食べてもいいの?」

話を途中で遮った無一郎に、炭治郎は「勿論だよ!」と破顔する。現金なもので、ついさっきまで食事もいらないと思っていたお腹が、いざ食事を前にするときゅるきゅると唸った。
「いただきます」と丁寧に手を合わせれば、「おあがりなさい」と炭治郎が笑う。久しぶりのやり取りに、肺を病んで亡くなった母を思い出した。豆腐と若布の浮いた味噌汁を一口啜ると、冷えた身体が芯から温まる。具材も使っている調味料も違う筈なのに、それは胸の奥が切なくなるほど懐かしい味がした。思わず潤む瞳をさっと腕で拭い、ぶっきらぼうに口を開く。

「で、相談ってなに?まさか、ただおさんどんがしたくて来たんじゃないよね」

そう無一郎が問えば、お茶を入れていた炭治郎がギクリと震える。急須の蓋をカタカタと鳴らしながら「えー、あー、なんだったかなー?」と目を逸らす炭治郎に、無一郎はふぅと小さく息を吐き出した。よくよく嘘の吐けない男だな、と「どうせなまえのことでしょ」と言えば当たりだったようで、炭治郎の頬がさらに赤みを増す。

みょうじなまえ。炭治郎より少し後に入隊した、そこそこ強い女の子だった。
その辺の隊士より余程肝が据わっており、勘も筋も良い。なまえを初めて見た時、無一郎はまたすぐに死んでしまいそうな子が入ったなぁとぼんやりと思ったが、その木刀は無一郎の前髪を掠める程の闘気を纏っていた。
そして、炭治郎の朝焼けのような瞳が稽古中もちらちらとなまえの姿を盗み見るのを、友人である無一郎が見逃すはずもない。

「バレバレだよ。気付いてないのは本人くらいなんじゃない?正直言って見すぎ」
「そっ!んな事...、ないと思うんだけど...」

普段はどんな事でもはっきりと主張する炭治郎が、なまえの事になると途端に語尾を濁す。あの時はふぅんと思っただけだったが、まさかこれ程まで恋焦がれていたとは。無一郎には思いも寄らなかった。
「むしろまだ告白してなかった事に驚きだよ」と思ったままを口にすれば、炭治郎は「だって...」と俯く。荒れた両手で湯のみをさすりながら、ぽつぽつと口を開いた。

「...なまえって、すごく人気者なんだ。毎日のように誰かから手紙が届くし、なまえも一生懸命返事を書いていて。もしかしたらもう心に決めた人がいるのかもしれないって思うと、夜もなかなか寝付けなくて」
「...具体的に誰だか分かってるの?その文通相手」
「うーん...。一番やり取りが多いのは、煉獄さんと甘露寺さんみたいだけど、それ以外は...」

文通相手の名前を聞き、無一郎はげんなりとした表情で箸を下げた。その二人なら、無一郎にもしょっちゅう手紙や甘い菓子を送って寄越す。内容はやれ元気かだの最近行った飯屋がどうだのと、どちらも似たような世間話ばかりだ。気にかけてくれるのは有難いが、無一郎がその手紙に返事をした回数は二人合わせても片手でお釣りが来る程に少ない。

「それに...、告白って言ってもなんて言えばいいのか分からなくて。女の子ってさ、きっと雰囲気とか大切だろう?あと、言葉だけじゃなくて贈り物とかもあった方がいいと思うんだが」
「...少なくとも、炭治郎が「此処だ!」って思った所での告白なら嫌とは言わないんじゃない?贈り物だって、相手がなまえならたとえ炭治郎が握ったお握りでも喜ぶよ」
「女の子がお握りなんかで喜ぶわけないだろう?柱稽古で飢えた隊士じゃないんだから」

呆れたように言う炭治郎に、無一郎は煮物をもぐもぐとしながら喜ぶのになぁと思う。しかし、たとえそれを口に出した所で炭治郎は聞き入れないだろう。黙ったまま味噌汁の椀を手に取る。

「もっとこう簪とか鏡とかさ...。あぁでも、もしもなまえの趣味じゃなかったら、いらない物を貰っても困るよな。あんまり値の張る物はそもそもあげられないし...」
「贈り物なんて必要ないよ。そういうのは告白が成功するまでとっておいたら?」
「相変わらずズバズバ言うなぁ無一郎は。俺が長男じゃなかったら泣いてるぞ?」
「だってそれを求めて僕の所に来たんでしょう?善逸だと嫉妬して面倒だし、伊之助だと話にならないから」
「そ、それはそうなんだけどさぁ」

ははは、と苦笑いする炭治郎を、無一郎はお茶の湯気越しに見つめる。ぴかぴかと赤い頬を輝かせる友人を、ほんの少しだけ羨ましく思った。
つい先日まで記憶に霞が掛かっていた無一郎は、これまでたったの一度も異性を好きになった事がない。こうして友人の恋愛相談に乗るのも、炭治郎が初めての事だった。
恋は人を変えるんだなぁ...。そう思いながら、無一郎は口を開く。

「...僕は時々将棋を指すんだけどさ」

炭治郎、将棋したことある?という無一郎の問いに、炭治郎はふるふると首を振る。彼が首を振る度、太陽を模した耳飾りがカタカタと軽やかな音を立てた。無一郎は続ける。

「将棋ってね、幾つもの“もしも”を考える遊びなんだ。
“もしも相手がこう指してきたら自分はどうしよう?”、
“もしも自分がこう指したら相手はどうするだろう?”
って。何十手も、何百手も、時にはもっと先の“もしも”を考えながら玉を追い詰めるんだよ」
「うんうん、それで?」

なにか格言めいた言葉が聞けると思ったのだろう。前のめりになる炭治郎に、無一郎は小さく笑みを零す。

「炭治郎には、そういうの向いてないよ」
「......−へっ?」
「だから、向いてない。あれこれ考えても絶対上手く行かないからやめときな」
「そ、そんな事はないだろう!?そりゃ俺は何十手先どころか、目の前の事をどうにかするだけで精一杯だけど...!」
「そう、それ」

思わず腰を浮かせた炭治郎を、無一郎が指さして言う。

「目の前の事に精一杯力を尽くすのが、炭治郎の良い所でしょ。金でも、桂馬でも、飛車角でもない。歩のように一歩一歩着実に前に進んで行くのが炭治郎でしょ」
「着実に、一歩一歩...」
「そう。「一歩千金」って言ってね。玉を捕まえるには歩が一番大切なんだよ」

無一郎の言葉に、炭治郎はすっかり冷めたお茶の水面を見つめる。玉とは美しい宝物の事だ。それがなまえを示している事は、将棋に明るくない炭治郎でも分かる。
あれやこれやと不確定な“もしも”を探すのは向いていない。確かにそうだと炭治郎は納得した。

「...わかった。なんの小細工もせず、精一杯自分の気持ちをぶつけてみるよ」
「うん。それがいいよ。絶対にその方がいい」
「...うん。そうだよな。その方がいいよな!なんか無一郎にそう言って貰えると自信が湧いてきたぞ!」
「ふふ、なんだったらこの勢いのまま告白してきちゃいなよ」

そう焚きつければ、炭治郎は「そうするよ!」と勢い良く立ち上がる。有言即実行が炭治郎の良い所だ。

「無一郎ありがとう!なまえに「好きだ!」ってちゃんと伝えてくる!」
「うん、行ってらっしゃい。結果は後で教えてね」
「わかった!本当にありがとう!あ、厨にまだ煮物が残ってるから後で食べてくれ!」
「うん。雪が泥濘むから、足もとに気をつけて」
「うん!じゃあまた!」

目が痛むほど眩しい白銀の世界を、炭治郎は笑顔で駆けていく。途中一度振り向いて手を降ったかと思うと、濡れた地面に足を取られてそのまま派手に転んだ。ごつん!と鈍い音が聞こえたが、石頭の炭治郎なら大丈夫だろう。その背中がすっかり見えなくなるまで見送ると、無一郎はいそいそと家の中へ引き返す。

空になった食器をそのままに居間を通り過ぎ、奥の寝所へと脚を向ける。敷きっぱなしの布団の横には、手紙の散らばった文机があった。どの手紙も昨夜無一郎に届いた物だ。その中の一つを無一郎はそっと手に取る。

炎柱ほど豪快ではないが、恋柱ほど丸くない美しい文字。時透無一郎さま、と書かれたそれは、炭治郎の想い人であるみょうじなまえからの手紙だ。
内容はわざわざ読むまでもない。“どうしたら炭治郎と恋仲になれるか”という、先程まで居た男と何ら変わりない相談だ。そして残り二つは“どうしたら炭治郎となまえをくっつけられるか”とお節介を焼く炎柱と恋柱からの手紙である。

「...結果はもう決まってるんだよなぁ」

ぽい、と手紙を文机に投げ、無一郎は再び布団へと潜り込む。すっかりぬくもりを無くした布団だったが、お腹がいっぱいなおかげかすぐに瞼が重くなった。うつらうつらとしながら、炭治郎はもうなまえに会えただろうかと考える。あの二人が付き合ったらきっと楽しいだろうなと思った。

その日無一郎が見たのは、炭治郎となまえが大きなお握りを頬張り笑い合う夢だった。

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