気象庁が全国の梅雨明けを発表したその日、なまえは仕事を辞めた。入社して約二年。お疲れ様の花束もお元気での見送りもなかったが、そんな物いらないと思うくらいにはこの会社に失望していた。
もう二度とここには戻らない。そう思うと一気に気が楽になり、なまえはすぐに実家の母に電話を掛けた。「今日これから行ってもいいかな。出来ればしばらくお世話になりたいんだけど」
娘からの久しぶりの電話に、いつもは天然な母も何かを察したらしい。「いいよー。待ってるね!」朗らかにそう言って電話は切れた。
ボストンバッグに詰められるだけ着替えを詰め込み、アパートの鍵を閉める。しばらくお世話になるのだから、とお土産に高級な芋羊羹を買った。タクシーを拾い、実家に着くなり出迎えた母にお土産を渡す。疲れた頬を引き上げ、精一杯の笑顔を作った。
「大変申し訳ないのですが、しばらく寝かせてください」
それだけ言って、なまえはかつての自室に引きこもった。
想像以上に疲れていたのだろう。翌朝まで懇々と眠り続けたなまえは、庭に繋がれた愛犬の声で目を覚ました。誰かに散歩でも強請っているのだろうか。きゅん、きゅん、と甘えるその声に、自分が実家に帰ってきた事を実感する。
部屋着姿のまま階段を降りていくと、縁側に誰かが座っているのが見えた。犬の散歩に行く父親だと思い「お父さん」と声を掛けたが、その背中にPOLICEの文字があってぎょっとする。父は普通のサラリーマンだ。既に家を出たはずの父が家にいるわけが無かった。
「...なんでアンタがここにいんの」
そう声をかければ、犬を撫でていた男が嬉しそうにこちらを振り向く。夏の日差しを受けた髪が、庭に咲いた向日葵と同じ色で光った。
「随分な言い草だな!仕事を辞めた娘が部屋に閉じこもっていると通報を受けたから、わざわざこうして様子を見に来たというのに」
「通報?」
「あぁ」
顔を顰めるなまえに、男はズボンのポケットからスマートフォンを取り出して見せる。画面にはみょうじなまえ 実家≠フ文字と、この家の電話番号が表示されていた。
「通報したご婦人は、俺が到着してすぐに駅前のスーパーに行ったぞ。今日こそ君の大好物を作ると張り切っていた」
優しいお母さんで良かったな!と笑う男の横に高級芋羊羹を発見し、なまえは頭を抱える。仕事を辞めた娘を心配した母親が、芋羊羹を餌にこの男を呼びつけたのだ。
近くの交番に勤務している幼馴染、煉獄杏寿郎を。
「どうして仕事を辞めたんだ?」
渋々と縁側に座ったなまえに、杏寿郎が不思議そうに問う。言いたくなかったしお腹も空いていたので、なまえは杏寿郎に出された芋羊羹を爪楊枝で口に運んだ。ねっとりと濃く、それでいて素朴な甘さが口内に広がる。さすが高級品という味だった。
「おばさん、凄く心配していたぞ」
「......」
「おじさんもきっと心配している」
「......」
「コットンもほら、こんなに耳と尻尾を下げて...」
「別に、ちょっと疲れちゃっただけだよ」
両親だけでなく犬まで引き合いに出され、なまえはやっと口を開いた。ぶっきらぼうな言い方になったものの、積もり積もった苦い思いを誰かに聞いて欲しい気持ちもある。
「......誰にも言わないでよね」芋羊羹を口に運びながら、なまえはこれまでの経緯をぽつりぽつりと話した。
きっかけは、出張先で買ったクッキーだった。
普段なら「一人一つずつどうぞ」というメモと共に箱ごと置いておくお菓子を、その日なまえはたまたま、本当になんの意図もなく、同じ部署の同僚達に手ずから配った。
そのうちの一人である男性が問題だった。わざわざお菓子を渡しに来るなんて、きっとコイツは自分に気があるのではないか≠ニ勘違いを起こしたのだ。
自分たちは付き合っていると社内にあらぬ噂を流し、なまえが他の社員と話しているとあからさまに不機嫌になった。終いにはなまえが担当していた取引先の男性に「俺の恋人と浮気をしているだろう」と怒鳴り込み、それ以降、その同僚が出社してくる事は二度と無かった。
意外だったのは、被害者であるなまえまで糾弾された事だ。「変な男に優しくしたのが悪い」「実は本当に付き合っていたのではないか」と影で言われるようになり、取引先を巻き込んだ事もあって上司にも呼び出された。
「君が悪いんじゃないのはこちらとしても充分わかってるよ。でもねぇ...、あんな事があって君も居づらいんじゃない?」
言葉の中に散りばめられた嘲笑に、なまえは唇を噛み締める。次の日には退職届を出し、きっかり一ヶ月で会社を後にした。
「...辛かったな」
杏寿郎の言葉に、なまえはもう一口芋羊羹を口に運ぶ。こくんと飲み込み「でも、もう終わった事だから」と小さく笑った。もう辞めたのだから、二度とあの会社に行くことは無い。嫌な同僚にも、上司にも、二度と会う必要は無いのだ。
しかし、それでも杏寿郎は「俺は許せん」と怒りを露にした。胸の前で腕を組み、まるでそこになまえの仇が立っているかのように庭先を睨みつける。
「君を悲しませた奴らを全員逮捕してやりたい。その迷惑男も、陰口を言った同僚達も、上司もだ」
杏寿郎が大真面目に逮捕と言うので、なまえは思わず吹き出した。まさか笑われるとは思わなかったのだろう。「本気だぞ!」と語気を強める杏寿郎の肩を、なまえはぽんぽんと叩いて制する。
「ありがとう。杏寿郎が怒ってくれて嬉しいよ」
「しかし、」
「気持ちだけ有難く受け取っておくから。ね?」
「...まぁ、なまえがそう言うなら」
なまえがあまりにも優しく微笑むので、杏寿郎の強ばった顔も緩む。太い指が頬を掻き、暫しの沈黙が降りた。
軒先に吊るされた風鈴がちりん、と涼し気な音を立てて揺れる。「なぁ、なまえ」前髪をかき上げ、旭日章の着いた帽子を被り直しながら杏寿郎が言った。
「それなら、俺の気持ち丸ごと、受け取ってはくれないか」
「ん?どゆ事?」
わしゃわしゃと犬を撫でるなまえに、杏寿郎がはっきりと言う。
「俺と結婚しないか」
「...やだ、こんな時に冗談言わないでよ」
「本気で言っているのだが」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、なまえは無意識に身体を硬くする。ずい、身を乗り出した杏寿郎の瞳の中に、熱い炎が揺らめいているのが見えた。
「自分で言うのもなんだが、優良物件ではないか?公務員だから食いはぐれることは無いだろうし、実家も隣で親同士の仲も良い。何より、子供の頃から一緒だから互いのことは知り尽くしている」
「そんな、そもそも私いま無職だし...!」
「君一人くらいなら養える」
「結婚するなら大恋愛の末って決めてるから...っ!」
「鈍感な君は気付いていないかもしれないが、俺は小学生の時から君が好きだ」
「えっ、うそ」
「君の言う大恋愛を、俺は現在進行形でしている」
杏寿郎の言葉に、なまえは思わず口を噤む。そんな事、今まで気付きもしなかった。
杏寿郎が腕を伸ばし、芋羊羹の最後の一切れを口に運ぶ。もぐもぐと咀嚼し、出っ張った喉仏が上下するのを、なまえは黙って見つめていた。
そう言えば、杏寿郎は昔から芋が好きだった。だからなんだという話だけれど。
「警察官としては勿論、夫としても君を守りたい。君にはいつだって笑顔でいて欲しいんだ」
「...じ、自分なら笑顔に出来るって言いたいの?」
「努力は惜しまない。なんなら今この場で君を笑顔出来るとっておきの呪文が俺にはある」
「なにそれ。じゃあ言ってみてよ」
挑むようななまえの言葉に、杏寿郎はふふんと得意気な顔をする。その顔がちょっと格好良くて、なんだか悔しかった。
「俺と結婚すれば、結婚式は儀礼服だ」
「ぎれいふく」
その懐かしい響きに、なまえは昔、杏寿郎の家に遊びに行った時の事を思い出す。リビングに飾られた杏寿郎の両親の結婚式の写真。それを見るのがなまえは好きだった。
黒の制帽に儀礼服を着たおじさんと、真っ白なウエディングドレスに身を包んだおばさん。「いいなぁ、いつかこんな結婚式したいなぁ」そう呟いたなまえに、杏寿郎が「なら警察官と結婚すればいい」と笑った。
その時からだろう。なまえが所謂制服フェチ≠ノなったのは。
「...本当?」
なまえの瞳が星を宿したようにきらきらと光る。杏寿郎は「勿論だ」と深く頷いた。
「なんなら儀礼服だけでなく、夏服、冬服、活動服とよりどりみどりだぞ 」
「でも、動機が不純過ぎない?制服を目的に結婚だなんて...」
「そうだろうか」
「そうだよ、普通」
「でも、きっと君は俺を好きになる。制服だけじゃなくて、俺自身もな」
杏寿郎の言う通りになるような気がして、なまえはむっと唇を尖らせる。好物を買ってきた事と言い、なんだか自分はこの男のために帰ってきたようではないか。
それでも、この申し出を断る理由は見つからない。
「......まずはお付き合いからお願いします」
観念するように頭を下げたなまえに、杏寿郎は笑って「了解!」と敬礼する。寝癖の着いた頭にぽすん、とぶかぶかの帽子が被せられ、二人は顔を見合わせて笑った。
儀礼服姿の新郎と、純白のウエディングドレスに身を包んだ新婦。二人の新居にその写真が飾られるのも、そう遠くない未来だ。