剣道というのは実に難儀なスポーツである。夏は頭がくらくらするほど暑いし、冬は薄氷の上を歩むように寒い。防具は一年を通して汗臭いし、気付けば身体中痣だらけなんて事もしょっちゅうである。
それでも杏寿郎がこの部活を選んだのは、それが自分にとって馴染み深い、一種の習慣であったからだ。道場で師範を務める父に教えられ、小さい頃から竹刀を握ってきた。父の稽古は腕が上がらなくなるほど厳しかったが、庭で黙々と竹刀を振るう時間も杏寿郎にとっては大切な時間の一つだった。
西日の射し込む剣道部の部室で、杏寿郎は一人灰色の壁を見つめる。壁に掛かった温度計は室温が34℃であることを示しており、日暮れが近付く今もなお赤いインクは上昇を続けていた。橙色の夕陽が半身を焼き、一度引いた汗がまた吹き出してくる。道着の袖でグイと拭ったが、拭いたそばからまた汗が滴った。
まだ梅雨にも入っていないというのに、この気温は異常だ。暑い中での稽古も鍛錬の一つなのかもしれないが、稽古中に体調を崩す部員が日に日に増えていくのは部長として頭が痛かった。このままでは夏本番を前にして部員の大半が倒れてしまうだろう。なにか対策を考えねばと首を捻っていると、金属製の重いドアがゴンゴンとノックされた。「誰かいるの?」そう問う柔らかな声には聞き覚えがある。
「俺だ」
「俺って…、オレオレ詐欺じゃないんだから」
杏寿郎の言葉にドアをあけたなまえは苦笑いしたが、部屋の暑さにすぐに顔を顰めた。「おぉ、良い所に来たな」と破顔した杏寿郎に「良い所ってなにが?っていうかここ暑すぎるよ」となまえは文句を言う。こちらに背を向け、白いエナメルバッグをまさぐる彼女の白いうなじ。汗で張り付いた後れ毛から、杏寿郎は目が離せなくなった。
なまえと杏寿郎は昔からの幼馴染だった。週に一度父の道場に通っていたなまえは、最初は杏寿郎をも負かすほどの腕前だった。
ある夏の日、二人は試合をした。ほぼ同時に打ち込んだ面はほんの少しだけ杏寿郎が早く、その次の小手も杏寿郎が取った。
「負けちゃった」
面を外したなまえが眉を下げてへにゃりと笑う。その頬は真っ赤で瑞々しく、杏寿郎は裏の畑のトマトを思い出した。「次は負けないからね」と立ち上がった彼女の背が自分のものより随分低い事に、杏寿郎は酷く驚く。自分は男の子で、なまえは女の子。当たり前の事だったのに、試合に勝って初めて気が付いた。
「いや、今日も暑かっただろう。このままでは夏が来る前に皆倒れてしまうと思ってな。対策を考えていた所だ」
「対策って…練習メニューを減らすとか?」
なまえの言葉に、杏寿郎はむぅ、と腕を組む。秋に催される大会の事を考えると、稽古を減らすのは出来るだけ避けたかった。なまえも同じ事を考えているのだろう。うーん、と首を捻りながら取り出したペットボトルに口を付ける。こく、こく、とスポーツドリンクを飲み込む音が杏寿郎の耳を撫でた。
ぷは、と口を離したなまえが「飲む?」とペットボトルを揺らす。緩やかに放られたそれを受け取ったものの、気恥ずかしくて飲む気にはなれなかった。間接キスを気にしているのが自分だけ、ということに杏寿郎は歯噛みする。そして、出来る事ならこんな事をするのは自分だけにして欲しいと思うのだ。
「部費も余ってるし、これを機にサーキュレーター買うのもいいかもね」
「送風機か。それは名案だな」
「うん。あとはこまめに水分補給して、休憩時間に塩飴配るとか...」
「塩飴」
懐かしい響き言葉に、杏寿郎は思わずそれをくり消す。幼い頃、庭で素振りをしていると、何処からともなく現れたなまえが「ちょっと休憩しよう」とポケットから飴を取り出す事があった。彼女の体温で溶けた飴はベタベタで、包み紙を剥がすのにいつも苦労した。
「そう言えば、なまえが持ってくるのはいつも塩飴だったな」
「好きなんだもん。あまじょっぱくて美味しくない?」
「父上に散々しごかれた後だったからな。まさに天からの恵みって感じだった」
「大袈裟だよ」
クスクスとおかしそうに笑うなまえに、杏寿郎も目を細める。「今日も持っているのか?」と聞けば「勿論!」と元気な声が帰ってきた。
小さなポーチを手に取ったなまえが、中から丸く透明な飴を取り出す。「はい」再び放られたそれを受け取り、包み紙を開いた。相変わらずやや溶け気味のそれは、口に含むと懐かしい味がする。「ん。んま」自身も塩飴を口にしながらなまえがドアノブに手を掛けた。
「私着替えてくるね。帰りにスーパー寄ろうよ、みんなの分も塩飴買お」
「あぁ、わかった」
返事をすると同時に、部室のドアが閉まる。自身も道着の紐を緩めながら、杏寿郎はなまえが着替える様を想像した。
白い道着の下、しっとりと汗に濡れた白い肌。そっと舌を這わせれば、きっとこの飴と同じ味がするはずだ。
そう思うと、なんだかすごくドキドキした。