「今日、飲みに行かないか!」

斜め後ろから聞こえてきたその声を、私はノートパソコンのキーボードを叩きながらスルーした。彼が私に話しかけてくる筈がない、ましてや飲みに誘うなど絶対に有り得ない、と、私は自分の卑屈さを信じて疑わなかった。

今月の新作、という文字にカーソルを合わせ、ほかの文字より少し太めに設定する。一昨日納品された本はタイトルから心惹かれる物ばかりで、既に著者名と出版社まで全て頭に入っている。

月に一度の図書室だよりの作成。それは司書教諭である私にとって、数少ないパブリックな仕事だった。その月に入った新刊や話題作、図書室の開閉時間などを載せたA4プリントを、学校全体に向けて配布する。自分の作ったものを学校中の人に見られると思うといつも胃が痛むものの、ただでさえ存在感の薄い自分、もとい図書室を少しでもアピールするには欠かせない仕事だった。

トントン、と骨ばった指が肩を叩き、「先生、みょうじ先生!」と名前を呼ばれる。夢中でタイトルを入力していた私は、そこまでされてやっと自分が話しかけられている事に気付いた。
「は、はいっ!」返事をして立ち上がれば、勢い余って座っていた椅子まで倒してしまう。金属製の椅子が床にぶつかる大きな音に、職員室中の視線が一斉に私へと集まった。やってしまった、と冷や汗が頬を伝う。

しかし、彼―社会科の煉獄先生は、そんな私の反応をポジティブに受け取ったようだ。「みょうじ先生は元気があっていいな!」とにこやかに笑いながら、倒れた椅子をひょいと元の位置に戻してくれる。彼の言葉につられるように辺りは笑いに包まれ、私は「申し訳ありません...」と小さくなるしかなかった。笑いの波が引いたのを見計らい、おずおずと口を開く。

「…すみませんでした。まさか自分が話しかけられているとは思わなかったもので…」
「なんの!むしろ集中している時に後ろから声をかけてすまなかった!」

驚かせてしまったな!と笑う煉獄先生を見つめながら、私は静かにノートパソコンを閉じる。彼をスルーしてまで書いていた文章が、何故だかすごく恥ずかしいものに思えた。「えっと、それで何でしたっけ」と問えば、煉獄先生は「うむ!」と腕組みをして声を張り上げる。

「みょうじ先生、今日飲みに行かないか!」

あまりの声の大きさに耳がきぃんとなるのを感じながら、私はなんとか口を開く。

「きょ、今日ですか?」
「既に予定が入っているだろうか!」
「いえ、そういうわけではないんですけど…。煉獄先生と私、あと誰が参加するんですか?」
「いや、俺とみょうじ先生の二人だけだ!」
「えっ」

煉獄先生の言葉に、私は思わず声を上げる。琥珀色の大きな瞳が楽しげこちらを見つめていた。

「二人で、ですか…?」
「うむ!二人でだ!」
「……何故?」

失礼だと思ったが、そう聞かずにはいられなかった。今日は金曜日。長かった仕事から解放され、明日の早起きの心配もない今日、パーッと飲みに行くサラリーマンは多いことだろう。
しかし、なぜ彼が私を飲みに誘うのかが解らない。それも一対一でだ。
私の言葉に、煉獄先生ははて?と首を傾げる。

「何故、と言われてもな。同僚を飲みに誘うのに、なにか特別な理由が必要か?」
「それはそうかもしれませんが…」
「なら決まりだな!」

そんな風に話を締めくくられてしまっては、私にはもう返す言葉もない。今更予定をでっちあげて断る事も出来ないし、その場しのぎの嘘で煉獄先生の顔を曇らせるのも本意ではなかった。...どうせ家に帰っても映画を観ながらちょっと良いアイスを食べて寝るだけなのだ。

「……十五分後に職員玄関前でいいですか」

散々迷った末にそう口にすれば、煉獄先生は「勿論だ!」と嬉しそうに破顔する。意気揚々と自席に戻っていく背中を見つめながら、私は再びノートパソコンを開いた。マウスを操作し、左上にあるフロッピーのマークをクリックする。この続きはきっと月曜日に書くことになるだろう。



飲み会をする上でまず教師が考えなければならないのは“何処で飲むか”である。生徒や保護者、近隣住民に飲み会がバレると厄介なので、たとえ仕事終わりでも気を抜くことは出来ない。ましてや煉獄先生のような人気者は何処に行っても目立ってしまう。とすると、個室か半個室の店だろうか。携帯で良さそうな店を探しつつも、私の胸はモヤついたままだった。

もしかしてこれは罰ゲームなのではないか?と不穏な考えが頭をよぎる。何かの勝負に負けた男の子が、罰ゲームとして地味な女の子に嫌々告白する。少女漫画で時々見るシチュエーションだ。
しかし、いくら私が地味でパッとしないとはいえ、精錬潔白な煉獄先生がそんな下卑た真似をするとは思えなかった。騎馬戦という特殊な授業方法は置いておくとして、彼が学校中の人々から信頼を置かれている事に変わりはないのだ。結局胸のモヤは晴れないまま、私はぱたんと自分のロッカーを閉じる。

きっかり十五分後。恐る恐る職員玄関へ向かえば、そこには既に煉獄先生が立っていた。「時間通りだな!」と手を挙げる彼に、私はハイヒールを取り出しながら「お待たせしてすみません」と詫びる。
煉獄先生はいつも通りの笑顔で、そこには一点の曇りもない。「お店はどうしますか?」という私の問いに、彼は「実はもう決まっていてな!」と自信ありげに言った。

「みょうじ先生はお好み焼きは好きだろうか!」
「あ、はい。好きです、お好み焼き、」
「それは良かった!ではさっそく行こう!」

そう言って、煉獄先生は外へと続くドアに手を掛ける。飲みに誘っておいてお好み焼き?とも思ったが、そう言えばだいぶ長い事食べてないな、と口には出さなかった。
職員駐車場に停められた黒のSUVに向かって煉獄先生が鍵をかざすと、ピピッとロックを解除する音が鳴る。「助手席に乗ってくれ」という彼の言葉に従い、革張りのシートに身体を滑り込ませた。鍵を差し込むと同時に、獣の唸り声のような音を上げながらエンジンがスタートする。裏門を出た車は左折し、夜の大通りへと向かった。

煉獄先生は運転が上手だった。発進や停止の時もこちらの身体がぶれることは無く、右左折も滑らかだ。車の中はどこもかしこもピカピカに磨かれており「かっこいい車ですね」思ったことを口にすれば、「実は父のお下がりだ!」と煉獄先生は照れたように頬を掻いた。
 
「いつもは男ばかりだが、今日は女性が乗るからな!事前に綺麗にしておいた!」

街のネオンに照らされる横顔は俳優のようで、私なんかがこんな絶景を拝んで良いのだろうか、いや良いはずがないとすぐに目を逸らす。流れていくネオンに視線を移し、私は小さくため息を吐いた。
優しい煉獄先生に変な勘違いを起こしそうで、なんだか怖かった。



お好み焼き、と書かれた赤ちょうちんの店の横で、車は静かに停車した。慣れた様子で暖簾をくぐる煉獄先生について行けば、鉢巻をした店主が「おぅ、いらっしゃい!」と威勢の良い声を上げる。鰹節とソースの香ばしい匂いがふわりと全身を包んだ。

よく言えばレトロ、正直に言えば決して綺麗とは言えない小さな店だった。中央に鉄板のついたテーブルは飴色に変わっており、壁に貼られたメニューも飛び散った油でシミになっている。六つあるテーブルのうち五つが埋まっており、どのテーブルからもじゅうじゅうとソースの跳ねる音がしていた。

「おぉ、杏ちゃん。今日はえらい別嬪さんと一緒じゃねぇか!」

ビールを運んでいた店主が私を見て煉獄先生を茶化す。

「こんばんは大将!すまないが奥の座敷を借りてもいいだろうか!」
「杏ちゃんの頼みとあっちゃあ断れねぇなぁ!」

店主に礼を言い、煉獄先生はずんずんと店の奥へと入っていく。その背中を追いかけていくと、そこにはこじんまりとした小さなお座敷があった。今しがた通ってきたオープンスペースとは違い、ここなら襖を閉めれば完全に個室になる。
「昔から通っている店でな。実は宇髄たちとも何度か来ているんだ」と煉獄先生は言った。
薄い座布団に腰を下ろしながら、二人でメニューを覗き込む。

「みょうじ先生は普段お酒は飲むのか?」
「家ではあんまり…。でも外では飲みますし好きですよ」
「じゃあ、とりあえずビールでいいか?」
「はい」
「メインは俺のオススメでもいいだろうか。味は保障するぞ!」

「お任せします」と答えれば、煉獄先生は嬉しそうに「すみませーん!」と店員を呼ぶ。テーブルの上には呼び出しボタンがあるというのに、使う気は全く無いようだった。きっと「叫んだ方が早い!」とどの店でも使わないのだろう。これでは個室にした意味がない気がする。
はいはいお待たせ、と注文を取りに来たおかみさんに、煉獄先生はメニューを指差して注文する。

「ネギ豚玉と明太もちチーズ、海鮮焼きそば、あとビールと烏龍茶を頼む!」
「えっ?あっ」

烏龍茶、という言葉に、私は思わず声を上げる。色々な事に気を取られすぎて、私は自分がどうやってここまで来たのかをすっかり忘れていた。
車の運転がある煉獄先生は、お酒を飲むことが出来ないのだ。

「や、やっぱり私も…!」
「以上だ!おかみさん、よろしく頼む!」

私の言葉を遮るように、煉獄先生が注文を切り上げる。ああぁ…、と手を伸ばす私の前で、無情にも襖は閉められてしまった。がっくりと肩を落とす私を、胡座をかいた煉獄先生が楽しそうに笑う。

「いいんだ。俺の事など気にせず、みょうじ先生は存分に飲んでくれ!」
「そんなわけには…!今からでもビールをキャンセルして、」
「いい、いい!誘っておいてなんだが、最初からそのつもりだったんだ。それに少しくらい酒が入った方が、みょうじ先生も話しやすいだろう?」
 
私なんかと何をそんなに話そうというのだろう。そうこうしているうちに、おかみさんがビールと烏龍茶を運んで来てしまう。「乾杯だな!」煉獄先生がグラスを近づけるので、私も渋々ジョッキを持ち上げた。カチン、と硝子のぶつかる音が鳴り、二人とも飲み物に口を付ける。いつもより苦く感じるそれを飲み込み、私はついに核心に触れた。
 
「あの、やっぱり納得出来ないんです。どうして急に飲みに誘ってくださったんですか?」
「嫌だったか?」
「嫌じゃないですよ。そこは本当に、嫌じゃないです」
 
きちんと否定はしつつも、私は言葉を続ける。
 
「でもほら、私たち、学校でもあまり話す機会がなかったじゃないですか。先生は授業でお忙しいし、私は図書室に引きこもりがちだし…。だからなんでかなって」
「君の事が知りたかったんだ」
 
煉獄先生の言葉に、一瞬時が止まったような錯覚を覚える。机に頬杖をついたその顔は真剣で、冗談を言っている様子はなかった。「図書室だより、いつも楽しく読ませてもらっている」そう続いた彼の言葉に、顔がみるみる熱くなるのを感じる。
 
「プリントの最後に、毎回コラムを書いているだろう?みょうじ先生の書く本の紹介が面白くて、仕事終わりに本屋に行くことが増えてな。寝る前の読書が日課になりつつあるんだ」
「そ、それは…、ありがとうございます」
 
自分の書いた文章を、こんなに手放しで褒められたのは初めてだった。慣れなくてついジョッキに手を伸ばしてしまう。
 
「本当は図書室に借りに行きたいのだが、なにせ授業と部活の指導が忙しくてな。なかなか時間が取れんのだ」
「言って下されば、先生の分も貸し出しカードお作りしますよ。本も先生の机に置いておきますし」
「よもや!それは助かる!」
 
そこまで話したところで、おかみさんがお好み焼きのタネを持って現れる。タネの入った器を受け取りながら、煉獄先生は「まだ飲むだろう?」とビールと烏龍茶を追加した。お酒は一杯でやめようと思っていたのに、またビールを飲むはめになってしまう。「もういいですから」と窘めるも、煉獄先生は「あぁ、腹が減ったな!」と笑って取り合ってくれなかった。
 
「料理は苦手だが、お好み焼きだけは得意なんだ!なにせ混ぜて焼くだけだからな!」
 
そう言って、煉獄先生はよく混ぜたタネを鉄板の上に広げていく。完成したお好み焼きは私の知っている丸い形ではなかったが、味はとても美味しかった。
 
 
 
店を出る頃になると、私はすっかり酔っぱらっていた。なにせ煉獄先生はよく食べる。お好み焼きを注文する度になぜかビールも増えているものだから、飲まないわけにはいかなかった。

それでも、図書室だよりの一件で煉獄先生への警戒はかなり解けていた。どちらかというともんじゃに近いお好み焼きをつつきながら、やれあの本は面白かった、伏線が秀逸だった、などと本の感想を話す時間はとても楽しかった。罰ゲームだと疑うなんてとんでもない。暖簾をくぐりながら、今日は誘ってもらえて良かったと心から思った。
 
煉獄先生の言う通り、お酒の入った私はいつもよりずっと饒舌になった。煉獄先生に問われるまま、なんでもするすると話をしてしまう。なんだか言わなくていいことまで言ってしまった気もするが、内容さえもう思い出せない。
 

「さぁ、着いたぞみょうじ先生」
 
ハッと目を覚ました時、車は既に見慣れたアパートの前に停まっていた。いつの間に眠っていたのだろう、「ありがとうございました…」と車を降りようとすると、同じく車を降りた煉獄先生が「危ないぞ」と肩を貸してくれる。久しぶりに外で飲んだせいだろうか。自分でも驚くほど身体に力が入らない。
腰に回った逞しい腕に、グッと身体を支えられる。ぴたりとくっついた煉獄先生の胸元から、男の人の青い香りがした。なんだか好きな匂いだ。


「…ところでみょうじ先生、さっきの話は本当か?」
 
エレベーターの中、煉獄先生が優しく私に問う。さっきの話ってなんだろう。思い出そうとしていると、煉獄先生が「彼氏はいないと言っていただろう?」と続けた。
 
「はい、いない、です…」
「では、俺が彼氏に立候補したら付き合ってくれるという話は?」
 
え?そんな話までしたのだろうか。全く思い出せないが、彼がしたと言うのならそうなのだろう。
 
「んん...、いいですよぉ」
「本当か?本当に俺と付き合ってくれるのか?」
「んー、だからいいですよぉって...」
 
エレベーターを降り、よたよたとした足取りで自室の前にたどり着く。鍵を探すのに手間取っていると、煉獄先生が私の代わりに鍵を探し、ドアを開けてくれた。「ありがとぉございます」へらりと笑う私を、蜂蜜を煮詰めたような色の目が見つめる。
 
「なまえ」
 
まるで恋人を呼ぶように、煉獄先生が私の名前を呼ぶ。その声はどこまでも甘やかで、まるで蜂蜜の海に沈んでいくような気持ちになる。
 
「彼氏が彼女の部屋に上がるのは、別におかしな事じゃないよな」
 
そう言って、煉獄先生は力強く私を抱き寄せる。二人で玄関にもつれ込み、内鍵のかかる小さな音と共に、私は意識を手放した。

今日は花の金曜日。明日の早起きの心配もない。
恋人たちの夜は、まだ始まったばかりだ。



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