「さ、む……トイレいきたい……」
ぼんやりと霞む視界の中で無意識にジェイドを探す。
しかしいくら目を凝らしても夫の姿はベッドの何処にも見当たらなかった。
(あー、ジェイドは今日帰って来られないんだっけ……それにしても、)

寒い。ぶるりと震えながら重たい体をゆっくりと起こす。
ベッドに座ったままの体制で暫くぼんやりとしていたが、意を決してベッドから立ちあがった瞬間。

「……へ??」
自分の体内で何かがばしゃんと音を立てた。
恐る恐る自分の太腿に触れてみると生温い液体が股の間から流れている。
匂いは無臭。まさか、まさか。
「これ、破水……」
確かにもういつ産まれてもおかしくはないとは言われていたけれど、予定日まであと半月はある。
次第にツキツキと痛み出すお腹を抑えながら初産は遅れるってのは迷信だな、なんてどうでもいい事を頭の隅で考えていた。






はあ、と長い溜息をつきながら眺めた時計は早朝を示していた。
仕事は嫌いではないが、臨月の妻の事を思うと少しだけ後ろめたい気持ちになる。
悪阻も比較的軽く、経過も順調だと言ってはいたが初めての出産だし、何より彼女はまだ若い。
きっと自分には言えない不安や悩みもあるだろうにガイはそういった事を全く口にしなかった。
(アレは出来た嫁さんだぞ、でしたか……)
いつだったかユーリに言われた言葉がふいに頭をよぎる。
そんな事は自分が一番良く分かっている。ガイは自分にはまったくもって勿体無いほど出来た女性だ。
彼女に恋をして自分がどれだけ変わった事か、救われた事か。
きっと一生かかってもガイには伝えきれないだろう。



長い勤務をようやく終え、白衣を脱ぎつつ携帯電話を見るとメールが3件。
差出人は全てガイからだった。
こんな時間に珍しい。そう思うのと同時に嫌な予感がして慌てて本文を開く。

「破水したから病院行く。何か分かったらまたメールする」
「このまま出産だって。どうしよう」

2通目のメールを読みながら慌てて更衣室を後にした。
ガイはこの病院で出産する事になっている。婦人科は隣の棟にあるから走れば数分で着く筈だ。
滑る指で3通目のメールを開く。

『こわいよ、ジェイド』






参ったなあ、まさかこんなに早く産む事になるとは。流石ジェイドの子、かなりのせっかちみたいだ。
そんな呑気な事を考えていられたのは最初の数分だけで、すぐに襲ってきた激痛に何も考えられなくなった。
予想を遥かに上回る痛みに視界は滲み、涙と汗が止まらない。
ひっきりなしにやってくる痛みに呻く度にずる、ずる、と大きな塊が降りてくるのが分かるけれど、その間隔が恐ろしい程に長いのだ。
もういっそひと思いに出してしまいたい。痛い。苦しい。早く楽になりたい。
「……ジェイド……、」
掠れた声で名前を呼び、目を閉じる。

(ああ、参ったなあ。こんなにあんたが恋しくなるなんて、)

思わず泣いてしまいそうになるのを必死に堪え、医者に言われるがまま下半身に力を込める。
少しでも痛みを紛らわす為に相変わらずゆっくりとしか出てこようとしない我が子の事を考えてみた。
けれど浮かんでくるのは両親と姉の顔ばかり。
ぼんやりとしか思い出せないその顔はいつだって優しく微笑み囁くのだ。愛している、と。

ずっと、ずっと欲しかった。
両親と姉がくれたような無償の愛を注げる、自分だけの何かが。
ジェイドと2人で愛せる、小さくて愛らしい赤ん坊が。

もし手に入れたのなら今度は絶対に放さない。
できる限りの幸せを与えて、必ずこの手で守ってみせる。
だからそろそろ出てきてくれないだろうか。
いい加減にしろと言いたくなるような痛みに短く叫び、乾いた唇に無理やり引きつった笑みを浮かべながら、もう一度下半身に力を込めた。






「初めて我が子を抱いた感想は?」
「想像していたよりも小さかったです」
「だよなー。出てくる時はこんな大きいモン出せるか!って思ったのに、出てきたら案外小さかった」
「すいません、出産に立ち会えなくて」
「いいんだ。実はあのメール送ったあとすぐに産まれちゃって。超安産だったらしいぜ」
はは、といつも通りに笑うガイだけれど流石に疲れた顔をしている。
それでも初めてのお産にしては軽いものだったようで母子共に健康らしい。

息も絶え絶え、必死になって駆けつけた頃にはもう出産は終わっていた。
ちょうど病室に連れて来て貰ったばかりのようで、初着にくるまっているその小さな生き物はガイの胸に抱かれていた。
ほら、抱いてくれよお父さんと言われ、戸惑う自分の腕に渡された赤ん坊は驚く程に小さく、そして温かかった。

これが、ガイが欲しかったもの。
これが、自分がガイに与えられる最たるもの。

それが形になっていま、自分の腕の中にいる。
この小さな生き物には自分たちの全てがつまっている。
そう思うと怖いような、それでいてこの上なく幸せなような、何だか不思議な気持ちだった。

ああ。そうだ、これは。この感情は。

「有難う御座います、ガイ。どうやら私はこの子がとても可愛い。愛おしい、みたいです」
「……ん。それなら良かった。頑張って産んだかいがあったな」

そう言って赤ん坊の頬に触れる彼女は今まで見たどんな彼女の表情よりも美しかった。
私は何て幸せな男なのだろう。ガイからのキスを受けながら改めてそう思った。






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