01
厚い雲が月を隠すと、夜の闇はずしりとのしかかるように重くなった。
前も後ろも見えない、闇の中に落ちてしまいそうなひやりとする暗さ。
その黒一面の中を、提灯の明かりがぽつりと夜道をわけ進んでゆくのが見えた。
「こんな所で何してるの?」
そう声を掛けると、明かりの動きがぴたりと止まった。
「…誰?」
闇の中からの問いかけに、相手が分からず身構えている様子の声。
手にしている提灯を掲げ、声が聞こえた方角を照らしている。
「そう怖がらなくていいよ、俺だから」
漆黒から姿を現すと俺の顔を見た彼女の表情は途端に柔らかくなり、強ばった体からも余計な力が抜けたようだった。
「角名くんだったんやね」
そう、俺の名は角名倫太郎。
稲荷崎の化け狐、つまりは妖狐。
この世の尋常のものから離れた存在だ。
そんな俺の名を言い当て微笑んでいるのは宮なまえさん。
彼女は妖ではなく普通の人間なのだが、稲荷崎の妖狐達はなまえさんを好いて慕っていて、それはもう大事にしている。
だからこそ、こんな所に彼女を一人で居させるなんてことは本来ならあってはならないことなのだけれど。
「双子はどうしたの?こんな月のない夜に一人で出歩いたら危ないでしょ」
「えっと、ツムくんとサムくんは…」
なまえさんは言い淀むと、先を急ぐように再び提灯を手に夜道を歩き始めた。
もちろん彼女を放っておくことはできないため、俺も後をついていく。
「今日は二人に付いてきてもらうわけにはいかなかったんよ、少しお散歩に出ただけやから…」
「…散歩?こんな時間に?」
感じ取った違和感から、つい声が少しばかり低くなってしまった。
「それは嘘でしょ」
「嘘じゃないよ」
「本当のところは?」
「ほんまのことやもん」
頑なにそれ以上のことを言おうとしないなまえさんに俺も眉をひそめる。
「理由はなんであれ、お供も連れずに出歩くのはどうかと思うよ。危ない目にあったらどうするつもり?妖の中には質の悪いのもいるんだから」
「それは…うん、ごめんね…」
「…まあ、今回は俺が屋敷までお供するけどさ。ここでなまえさんを一人で行かせたら、侑と治にうるさく言われそうだし」
「角名くん、ほんまにごめんね…ありがとう」
「いいよ。でもあとで何かご褒美を…」
ちょうだい、と言いかけて口を噤む。
俺の急な沈黙になまえさんも足を止めた。
「どうしたの?」
「…血の臭いがする」
「血…?それって、どこから…?」
「この先にある路地の辺り」
なまえさんが先に向けて提灯を掲げるが光はそこまで届かず、黒く夜の壁が立ちはだかるだけだった。
「やめよう」
「え…?でも…」
「血臭がする所へなんてなまえさんがわざわざ行く必要はないよ」
俺自身も多少気にはなるが、今はなまえさんを屋敷へ帰らせることの方が優先だ。
彼女の背を押して帰りを促す。
だが次の瞬間、俺の髪がぶわりと浮き立った。
そう離れていない距離、背後に人の気配を感じたのだ。
「におい…においがする…」
その声にすぐさま振り返り、夜目をきかせて目を細めると、男と分かる姿を確認できた。
そして、その男の手元に不気味に光をはじくものがあることも。
刃渡りは短い、刀じゃないな
しかし一安心とは到底いきそうもなかった。
先ほどよりも濃い血の臭い、恐らくなまえさんの鼻にもそれは届いてしまっていることだろう。
「寄越せ…寄越せ…」
こいつ、物取りか…
相手は人間である可能性が高いと判断した俺はなまえさんを抱き上げ、この場から離れるべく走り出した。
俺は妖狐だ、足には自信があるし、暗闇の中なら上手く撒けると思った。
なまえさんの目の前でやたらな殺生は避けたい。
だがこの夜盗、思いのほか足が早い上に、提灯を持っていないくせにしっかりとこちらの後を追ってきていた。
そのしつこさに舌打ちをする。
「まだ追ってくるのかよ」
「!もしかして、この提灯の明かりを追って…?」
ハッとしたなまえさんが唯一の明かりを吹き消した。
これで夜盗の足も止まると思われたが、どういうわけかまだ付いてくるではないか。
まさか足音さえも追ってきているのかと思い、目に入った右手の路地に走り込んで道の傍に身を寄せる。
手がかりとなる明かりと足音は無くなった。
しかし、辺りを手さぐりで探している様子が感じられるのでまだ気は抜けない。
血の臭いと足音は確実に、少しずつ近づいて来ている。
俺はなまえさんの顔を見た。
そして視線をその手にある火の消えた提灯へと移した。
「その提灯、俺にくれる?」
「それはいいけど、どうするの…?」
「この辺りは稲荷崎の縄張りだからね、近くに妖狐に仕える狐がいるはず。そいつに働いてもらおう」
俺が何をしようとしているのかなまえさんはまだ理解できていないようだったけれど、それを詳しく説明している時間はない。
「狐火」
なまえさんから頂戴した提灯に妖狐の火で再び明かりを灯す。
たかが提灯一つでも、暗闇の中では目立ちすぎる光。
当然、これに気づいた夜盗の足音は迷わずこちらに向かってきた。
「吾に仕える者よ、姿を現せ」
俺の声を聞きつけて、ぬるりと闇の中から現れた一匹の狐。
そいつは賢そうな瞳をきょろりと動かすと、俺となまえさんをとらえた。
「仕事だ、夜盗を撒いてほしい」
「御意」
「これを持って行け」
狐の口に提灯の持ち手を咥えさせる。
すでに明かりを目指して近寄ってきている男。
狐はその前を颯爽と走り抜けて行った。
「待て!逃がすものか!」
闇一面の中、男は光のいざないに上手いこと釣られてくれた。
声と共に男の足音が急速に遠ざかってゆく。
「なまえさん、もう大丈夫だよ」
夜盗は消えた。
だが、なまえさんの顔色はあまり良くないように見える。
「気分でも悪くなった?まあ、まだ血の臭いが残ってるしね」
「………」
「これだけ濃い臭いを漂わせて、あいつ一体何をやったんだか」
「顔…」
「うん?」
「こっちの顔、見られちゃったかな…?」
「ああ…どうだろね、この暗さだし」
提灯を手放した今、足元を照らす光は一切無い。
妖の俺にはそれなりに見えているが、人であるなまえさんはそうではない。
俺は彼女の手をするりと取った。
「…角名くん?」
「この闇の中じゃ、何も見えなくて歩けないでしょ。俺が目になってなまえさんを連れ行くよ」
「あ…うん、ありがとう。お願いします」
丁寧に頭を下げたなまえさんに少しだけ笑って、その手を引きながら先の道を進む。
だが少しすると、不意に雲が切れて淡い月光が戻ってきた。
急に辺りの景色がよく見えるようになる。
「!?」
俺は反射的に、なまえさんの目元を片手で覆い隠した。
「す、角名くん…?」
「ごめん…でも、あれは見ない方が良い」
俺の視線の先、路地の奧に生えている松の木が三本。
そこに男が両の手を松の幹にもたれかけさせている。
足は駆けている風に開いており、遠目には踊っているようにも見える格好だった。
だが、男はわずかも動いてはいないのだ。
ざっくりと切られた首筋から流れた血が、月の光の下、暗い赤で着物を染めている。
濃い臭い。
ついさっきまで自分達を追いかけていた男の、その手の中でぎらついていた物を、己の首筋辺りに感じさせる異臭だった。