先輩、筋肉減った

 少し長めの余韻を経て、千芳は口を開いた。
「先輩って、すっかり剣の修業を忘れましたよね」
「はっ?」
 突然の批判に、猿投山は目を小さくする。さっきまでの良い反応はなんだったというのか。胸の隅に小さく残る余韻も、どこかに消えてしまった。猿投山は顔を顰める。「どういうことだ」「そういう意味です」千芳は涼しい顔で肯定する。
「すっかり腕も細くなったし。筋肉も落ちているじゃないですか」
「腕力自体は変わってねぇ。こんにゃく自体が重いからな。それで筋トレにはなる」
「剣の腕はどうしたんです?」
「こんにゃく作ってる今は関係ないだろ」
「ほら。そういうとこ」
 鋭く千芳が猿投山を睨む。その批判的な態度に、猿投山は狼狽える。いったい、さっきまでの反応はなんだったのだ。息を整えるために費やした長い時間も、見つめれば腕を伸ばして首を引き寄せたあの行為も。嘘だというのか。猿投山が見るからに顔を顰める。くしゃっと眉尻と口角を下げた。これに千芳は申し訳なさを感じる。ここまで傷付くとは思えなかったからだ。
「すみません。でも、事実じゃないですか」
「見た目だけの問題だろ」
「いや、本当に筋肉が見るからに減ってますから。ちゃんと自分の身体、見てます?」
「千芳の身体だろ? お前も、昔と比べたらちょっと柔らかく」
「触らないでください! もう、気にしてるんだから」
「俺の腕とか腹とかも触っただろ!?」
「先輩はいいの! 女性はデリケートなんですから、もう少し優しく扱ってください」
「優しくしてンだろ」
「先輩は、ちょっと昔から空気の読めなさがマシになったくらいで」
「はぁ?」
「えっと」
 千芳の目が泳ぐ。言い淀むように言葉を置き、視線を逸らしては猿投山を見る。逃げを許さない追及の瞳に、千芳は折れた。
「五十歩百歩」
「随分な進化、だろ。俺だって馬鹿じゃねぇぞ」
「こんにゃく馬鹿」
「お門違いだな。俺の頭にあるのは、こんにゃくの専門知識だ!」
「それを揶揄したり馬鹿にする言葉で、こんにゃく馬鹿というものがあるんですよ。馬鹿」
「お前の小言も、随分と少なくなったよなぁ。レパトリーの幅が」
「先輩のくせに言い返さないでください」
「お前の中で、俺はどんな存在なんだよ。おい」
 猿投山が不満げに千芳を睨んだ。そこを指摘されては、元も子もない。千芳は知らんぷりをした。
「別に」
「それで誤魔化されるほど、俺は優しくねーからな」
「先輩がいわないでください」
「だから、それで話を流すほど」
「同じことするくせに」
 千芳が畳みかける。この反論に、猿投山は口を止めた。強く主張する千芳の根拠を探すが、どうも思い当たらない。猿投山は首を傾げた。はぁ、と薄くなった胸板を触る千芳がいう。
「まぁ、ちゃんと話は続けてくれる分、有難いけど」
「ほれ見ろ。やっぱり俺じゃねーじゃねぇか」
「それはそうですけど。でも、こうしたときにしてくるのは変わらないじゃないですか」
 ムッと拗ねる唇に、猿投山は開けた口を閉ざす。咄嗟に出かけた言葉は、千芳の機嫌を損ねるに値する。それは長年会話を重ねた結果から得た、経験則だった。舌のお喋りを止めたまま、考える。少ない言葉を拾い上げ、当て嵌めて、猿投山は思いやった一言を投げた。
「我慢できなくなったのか?」
「ばかっ!」
 顔を真っ赤にして怒る千芳が、ドンッと猿投山の胸板を叩くだけに終わった。どうやら不発になったようである。「知らない」千芳は拗ねて、背中を向ける。寝返りを打った身体に「なにがだよ」と猿投山は畳みかける。「女心秋の空」略した常套句を千芳は口に出す。「そこまで移ろいやすいもんじゃねぇだろ」ムッと眉を吊り上げ、猿投山は不服をいう。事実と相違ある。そういいたげだ。その断定に、千芳は言葉を失う。そう真っ直ぐに肯定されては、どうしようもない。
「いや、まぁ、そう、なんですけど。でも、今は、使ったのはそうじゃなくて」
「そこまで移ろいやすかったら、ここまで続くわけねーだろ。皐月様の真似をしようとしても、無駄なんだよ」
「ちょっとここで、皐月様を出すのはやめてもらいます? そんな例えに出してくるのすら、不愉快なんですが?」
「すまんかった。けどな、ちょっと皐月様みたいに的を射たようなことをいおうとしてただろ」
「それは先輩の認識や視野の狭さから出た誤解です。皐月様をこのような例えに出すこと自体、不敬極まりない」
「だから、すまんかったっていってンだろ。あーあ、悪かった。悪かった! 俺がわるぅございやしたッ!」
「わかればよろしい」
「それでいいのかよ」
「先輩、落語とか聞きました?」
「最近ラジオでな」
「あぁ、あの流れる」
「BGMとしてもいいぜ?」
「聞いてるの?」
「たまにな」
 その殆どはこんにゃく作りに時間を割かれる。このため、ラジオから流れる音を意識して耳に拾うなど、事が少ない。千芳は擦り寄る猿投山の頬を触る。とくに不満をいわれることはない。猿投山はされるがままだ。ふぁ、と欠伸を一つする。
「でも、筋肉が減った」
「蒸し返すんじゃねぇよ」
 今は必要ないだろ、と猿投山はぼやいた。


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